Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

授業で句会を開くことについて

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「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」と「中学校高等学校国語科授業づくり演習」のコラボ授業として、句会を行った。句会は「言葉による見方・考え方」を意識する上で、効果的であるし、授業に取り入れると言語能力が刺激されるという直感があったからだ。

句会の手順

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マンガ「ほしとんで」に掲載されていた手順を踏んだ。本当は清記は紙に書くのだが、人数も少なかったし、後から句を検討するためにホワイトボードに書いてもらった。

「選句」、「披露」

人数が少なかったので、誰が何を詠んだのか、ちょっと考えれば分かってしまう。5〜7人程度がちょうどいいのかもしれない。授業でおこなう場合は、その程度のグループに分かれて行うべきなのかもしれない。30句以上から特選、並選を選ぶというのはとても難しい。

ここで選び方で話題に出たのが、

分かりやすい句がいいのか、そうでないのがいいのか

ということだった。自分は句を作るとき、すぐに分かるベタなものは避けたいと思っていた。選句の時は、何だろう、何だろう、と思って、ああ、そうか、と分かるものを選んだ。自分にとって優れた俳句はそういうものだという基準があるからだ。だから、作句の時もベタな季語は使わず、今まで使ったことがない言葉を選んでみた。

文学は「個人的なもの」

「論理は公共性を帯び、文学は個人的なもの」だと思っている。文学というのは、個人の感覚、思いをどんどん追求することで、すぐれたものになっていく。個人の感覚の奥深いところには他者にも共通するものがあり、共感でき、それを学ぶのが文学の授業だと思っている。だから、「点数を集めるように」とか、「万人受けするもの」という意識があると、いいものは創れないのじゃないか?とも思う。

だから、授業で俳句を作らせるときも、「誰にでも分かることは避けた方がいい」、「あなただけの感性が表現されたものを作ろう」という指示がいいのでは?と思う。それを表現するのはとても難しいのだけれど。

句会を授業でやったことがある院生さんは、「ただ、共感するだけの作品に点数が集まり、それだけになってしまった。」と反省を述べていた。なるほど、共感を目標にしたら、やっぱりダメなんだ。

点を集めたからといって、いいわけじゃない。

「ほしとんで」

には、「最高点を取ったのがいい句では無い」という表記がある。
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それも何となくわかる。自分の作句の意図が伝わったらうれしいし、伝わらなかったら、「わかる人にわかれば……」という気持ちもある。何が何でも点数を集めたいという気持ちは働かなかった。文学は「伝えたい人に伝われば」という個人的なものであるところに通じる(のか?)。

そこで、「伝えたい人に伝える」ために、表現の工夫が生まれるのかもしれない。

テレビ番組で、スタンドプレイだとは思うが、俳句の先生が作った句の背景や意図をあまり掘り下げず、点数を付けて添削するものがあるが、あんなことを授業でやったら、文学なんて学べない。たった一人の基準で点数化されるなんてもってのほかだ。

どんな見方・考え方が生起するか?

  • 作句……対象と言葉の関係を捉える
  • 選句……言葉と言葉の関係を捉えて、そこから対象をイメージする
  • 批評・名乗り……読んだ人のイメージから言葉と言葉の関係を捉え直す

特に学びが進んだと思えたのが、「批評・名乗り」の場面だった。授業で扱うのだったら、ここを省いてはいけないと思った。作者の意図と、読み手の捉え方のずれがとても面白い。「こういうつもりで選んだ」というのと、「こういうつもりで作った」というのにずれが生じ、作者は「ああ、そういう風に取れるのか」とか、「言葉をこのように選んで決めたのか」とか、分かる。目の前に作者がおり、自分がどう解釈したのかを伝えられるというのは、国語科授業においては「希有な経験」なんだと思う。

言葉と言葉の関係

作句するときには、特に助詞の使い方で印象が変わる。これこそ言葉による見方・考え方の「言葉と言葉の関係を捉え直す」ということだ。今回の授業でも、

「炎天に」か、「炎天や」か、「炎天の」で、意識(話者の視点)の方向が全く違ってきた

という話題が出た。これは、自分たちが作品を作るから、表現意図と言葉の関係を捉え直す機会にもなったということだ。ここにも授業で句会をする意義がある。

終わりに

それにしても、私が作った句とマンガ内での句会の句を比べると、ずいぶんと差があるとがっかり。マンガのようなかなり気の利いた句を目指したんだけれどなぁ。いい句か、そうでないかはわかるのだが、どうすればいい句になるのか、それが分からない。素人だから当たり前か。素人なんだから、他人の句なんて添削できない。授業をするときにここを誤ってはいけないのだと思う。

The Sauna

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こんな近くにこんな素晴らしいサウナ
lamp-guesthouse.com
があるんだから、予約して休みを取って行った。予約は1カ月以上先まで埋まっている。たまたま平日のこの時間帯がぽっかり空いていて、ぽっかり空いているということは、団体が入っていないだろうし、私が入れれば団体も入らないだろうと思って、思いっきり予約を入れた。

数日前まで雨が降り、寒い日が続いていたが、その日は気温が上昇、外気浴をするのだから、ちょっとは暖かい方がいいはずで、ラッキーだった。私のアパートから約50分で着く予定だが、下道を走って行くと、カーナビでは、ぎりぎりに着く表示になっていてちょっと焦ったが、後から分かるが、2時間の予約で、2時間まるまるサウナを楽しまなくても十分いい。だから、ちょっと遅れたとしても、全く焦る必要は無かったということが分かる。7人定員で団体で入っていた場合、みんなと一緒にサウナを始めるのは結構気まずい。団体のノリについていけないときもあり、団体と水風呂、休憩のタイミングが一致した場合、窮屈な思いをしてしまう。だから、1人の場合は、タイミングをずらす意味でも、10〜15分遅れていても何も気にしないでいい。

普通の風呂が本館の中にしか無いので、この季節、体を温める術がサウナの中しか無い。だから、だんだんと風呂につかりたくなる。1時間半あれば、十分に楽しめるということが分かった。

カーナビの予想は外れ、20分ほど早く着いてしまった。出迎えてくれた定員さんが笑顔で対応してくれた。それだけでも良い施設だということが分かる。2,000円を払い、開始10分前に着替えてサウナ小屋まで行くようにと教えてくれる。どんな格好で行けばいいのか?と聞いたところ、サウナに入るそのままの格好で、と言われる。海パン一丁で行けばいいのだ。貴重品ロッカーが風呂場の脱衣場にあるので、そこに入れればいいと聞かされたので、財布やらiPhoneやら全部入れてしまったのだが、iPhoneは持っていけば良かった。写真が撮れないし、外には時計が無いから何時だか分からない。Apple Watchを付けて行けば良かったのかもしれないが、100℃近くでApple Watchは故障しないのか不安。

2つサウナ小屋があるが、眼鏡もおいてきたので、どっちだか分からない。うろうろして、「私の入る「カクシ」は2号サウナということだから、奥の方なんだろうと思い、小屋の近くに行ったら従業員がいたので、声をかけてくれた。尻に敷くバスタオルを渡してくれる。なんだ、自分のバスタオルを持っていかなくても良かったのか。2階建てのサウナと聞いていたのだが、1回は物置で、持っていった自分のサウナやマスクなんかをロッカーに入れておく。観音開きの扉を開けて、狭い階段を昇っていくと頭皮で熱さを感じられる程のサウナ室があった。

中央の階段をぐるりと取り囲んで椅子が配置され、1つの隅にサウナストーブがあった。事前にもう一度予約状況を見ていったのだが、その時間帯は満員だった。7人定員でもう既に6人座っていた。あれ?開始時刻前にもう入っていたの?全員がサウナハットをかぶっていて、配られるのか?と思ったら、全員買ったんだって。6人の中の1人は女性で、この人は個人で来たそうだ。ということは、5人が団体で、仲間らしい。ちょっと若めのいけいけ団体だった。が、人当たりは良く、そんなに悪い気はしない。マスク無しで喋っていたけれど。

みんなは私よりも早く入っていたので、蒸されるのも早く、全員が早めに出ていった。外では水風呂に入りながら騒いでいる声が聞こえる。うーん、彼らとサイクルを同じにしてはだめだな、と、水風呂が空きそうな時刻まで頑張って蒸される。

温度計があって、96℃を指していた。結構熱い。セルフロウリュウができるようになっていて、もしかしたら初めてひしゃくでアロマ水をサウナストーンにかけたのかもしれない。かけるとすぐに熱気が伝わってくる。まぁ、我慢できない熱さでは無い。

今までにない体験として、風呂に入らない状態で、海パンでサウナに入ったということ。いつもは体を洗って、お湯で体を温めてからサウナに入る流れだったが、それをしないでも結構熱くなり汗をかくな、というのが分かった。今度から体を洗ってすぐにサウナに入ってみよう。

みんなから遅れて水風呂に入ろうとする。一緒だった一人の男性が「ここ、滑るから気をつけて下さい。」と教えてくれた。なんていい人なんだ。水風呂は皮から引いた水で、入るところは、樽で、結構深い。そして冷たく、なめらかな水というのがすぐに分かる。数分も漬かっていられない。いい感じ。

Colemanのリクライニングチェアがたくさん置いてあり、テントの内外に配置してある。私はテントの外で休憩したが、林が風に揺れて葉のこすれる音の下1サイクル目からととのってしまった。そりゃあ、ととのわないわけ無いよな。

海パンをはいているので、腰回りがだんだん冷たくなってくる。これだけがちょっと気持ち悪い。真夏だったらそんなことは無いのだろうか?

2サイクル目からは、それぞれタイミングがずれるので、サウナ室に集まるのは、3〜4人で余裕を持って蒸されることとなった。水風呂待ちも無いし、定員制、予約制だったら、休日でも同じようにゆっくりとサウナを楽しめるのだろうか?

3セット目休憩でもととのい、初の3/3ととのうことになった。これも初めての体験。いつもは2回目にととのうと、3回目はととのわないのだよな。その時点で時刻を聞いて、あと30分位だということを知る。時間が来たら係の人が教えてくれるのかな?と、分からないのだが、体が冷えてきたので、サウナに入って温める。その後、ちょっと休憩して、本館にある風呂に入る。

風呂は4人ぐらいが入れる広さで、暖かかった。今まで当たり前のように最後に入っていた湯船だが、かなり貴重なんだな、と分かった。サウナだけでもダメで、この施設では湯船につかり、体を洗う必要がある。なにせ、川の水掛け流しの水風呂だから。洗わないと。

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レストランもあるのだが、ちょっと早い時間帯だったので、食べないで帰る。今度は、夕方の時間帯にして、夕飯を食ってから帰ることにしようかな?

全く新しいサウナ体験だった。他の施設に行くことを節約しても、月に1回は来てみたいところだ。

今日のととのい度→5 ☆☆☆☆☆

赤倉ホテル

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新聞の折り込み広告に、200円OFFのクーポンがついていた。温泉旅館にサウナが付いているところは少ないので、珍しいから行ってみた。当日は標高の高いところは霧に包まれ、赤倉温泉街は真っ白で自動車の運転が危うかった。そんなことなので、観光客はほとんどいず、広い大浴場をほとんど一人で使うことができた。

老舗温泉ホテルで、建物は古いが、作りがいいし、掃除が行き届いている。大浴場も大理石(だと思われる)、サウナはちょっとくたびれていたけれど。

源泉掛け流しの硫黄の匂いのするお湯で、湯の花が豊富に浮いている。ちょっと気持ち悪いほど。汚くは無いのだろうけれど、あそこまで浮いているとちょっとひく。慣れればなんともないのだろう。

サウナ室は温度86℃で低めだが、じっくりと入っていると十分に汗をかく。計時は砂時計。このご時世、ディスタンスを保とうとすると2名しか入れないだろう。つまりかなり狭い。繁忙期に行く着はしない。

致命的だったのが水風呂がないということ。サウナメインで来る施設では無い。水シャワーを浴びるが、これはかなり冷たく感じた。気温18℃だったからだろうか?長く浴びていると結構冷える。

露天に行き、休憩場所を探すが、湯船でほとんどの面積を占めている。中にあった椅子を持ち出し、風呂の縁に起き休憩する。人がいないからできる芸当だろう。雨が降り、新緑からも雫が垂れる。これはこれでいいヒーリングになったと思う。

硫黄の匂いがいい感じで、温泉に来たぞ、という気分になる。しかし、通常日帰り温泉1,000円だったら、水風呂も無いので、もう来ないかも。

今日のととのい度→1 ☆★★★★

英文法で文化を知る

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英語の大多数の先生から「何言っているの?」と言われるかも知れないが、英語の習得と他文化の理解は全くリンクしていない。英語の授業では英米文化(特にアメリカ文化)の理解に時間が割かれることが多いが、「それって、日本語で書かれているアメリカ文化についての文章を読めばいいですよね?」と思ってしまう。更に、英語で日本文化について書かれてある文章を読ませる教科書もある。これって何のために?英語の習得のためだけだったら分かるのだけれど。

そして、とりあえず、目の前の中学生が大人になる頃まで、英語の習得をしなければ食っていけなくなるということはないと思われ(楽観的?)、自動翻訳システムが今後どんどん進化すれば、英語なんて喋れなくても日常会話はもちろん、ビジネス会話さえもそれでまかなえると思われる。じゃあ、多文化理解は母国語で行い、必要な人だけ英語を学べばいいの?ということになる。

私の大学院授業「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題(今年度終了)」で先日中学英語を扱った。担当者が持って来た教科書のコピーの単元は、現在進行形「be動詞+ing」という、超基本的なものであった。その教科書には様々な写真が掲載されており、アメリカの中学生がスクールバスに乗っているものや、授業間の移動時間で、ある生徒はスポーツシューズを持っていて、ある生徒は楽器を持っている姿などが写っていた。

なぜそのような写真を掲載しているのか?教科書の意図は、「アメリカの中学校は、日本のとは違って、ほとんどの人がスクールバスで通っていて、歩いて通う日本とは違うでしょ?」とか、「アメリカのカリキュラムは、各人が必要な授業を履修して、ほとんど決められている日本の中学校とは違うでしょ?」というものなのだろう。その違いを英訳して、アメリカの学校文化を知ろう、というものだと想像できる。

しかし、程度差もあるが、中学生に選択授業はある。そして地域によっては日常的にスクールバスが運行しているところ(例:新潟の山間部の地域)はある。この写真によって「違いがあるでしょ、文化の違いでしょ?」と示すのは、無理があるる。編集者は大都市の中学校しかイメージできなかったのだろうか?

話は逸れるが、

日本語で

彼女は英語を勉強する。

という表現は、「今」勉強している姿にも使うし、「日常的に」勉強している姿にも使う。

映像作品を作って、女子生徒が英語の教科書を開いて勉強している動画にナレーションを付けるとき、「彼女は英語を勉強する」としても何ら違和感はない。そして、大人になって、仕事を持っている女性が仕事が終わった後日常的に英会話教室に通っている姿を映したナレーションに「彼女は英語を勉強している」としても違和感がない。

つまり、「する」にも「している」にも、どちらも「進行形」の意味があるし、それを取り除いた意味もある。日本語は区別を付けないのだ。

ところが、英語で

She studies English.

とした場合「日常的に」学んでいることになる。中学生で3年間学ぶのかな?と捉えられる。そして

She is studying English.

とすると、今まさに学んでいるという意味にしかならない。

教科書の写真の話に戻ると、日常的にバスで通っているのか、今日はたまたま遠足で生徒みんながバスに乗っているのかは、この「進行形」を使うか否かで言い表すことができると言うことになる。教科書編集者はそれを狙っているんだろう。

今だけのことなのか、日常的なことなのか、アメリカの「日常」を意識し、英文で書き分けることで、アメリカのカリキュラムを知り、文化を意識するということに繋がる。

つまり、英文法に現れた「英語の見方・考え方」でアメリカ文化理解をしていこうということだ。こうすることで、英語を学ぶ意味が見えてくる。

先日の授業では、新たな発見があった。

ノマドランド

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アカデミー作品賞、監督賞(クロエ・ジャオ)、主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)を受賞した映画。以前観た「ミナリ」と同じように、とりわけ大きなハプニングやイベントなどない淡々とした映画。成功もないし悲嘆もないし、それでも心に刻まれる映画。

映像がとてもいい。大自然の中を自動車(バン)を家にして暮らす主人公。Amazonなどの巨大企業や、巨大農場の重機の元で仕事をし、暮らすところは国立公園や、大自然の中の自動車を駐車できるところ。水の確保やトイレなど、とっても不便だとは思うが、仕事に縛られることなく、土地に縛られることなく暮らしている。ある意味憧れる生活だが、自分にはできそうにない生活だ。

巨大企業の人工的な施設の映像と、大自然のマジックアワーの美しい映像とが交互に映しだされる。仕事をし、人工的な環境のチューニングとして大自然に身を委ねる必要があるんだな、と思う。渓谷の川に真っ裸で浮かんでいる主人公を観て、なんて気持ちよさそうなんだろうと思った。

こういう映画がアカデミー作品賞に選ばれるようになったということは、アカデミー賞の変化を感じる。世界の映画事情を反映するようになって来たんだろうし、ハリウッド的スペタクル映画ばかりが映画じゃないということが広まり、いい映画がどんどん作られるようになってほしい。ハリウッド的スペタクル映画も好きなんだけれど。


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楽をしようと自動化システムにするが、楽にならないという話

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特に仕事に関して、平成の初期、「楽になるから」と思って、パソコンを覚え、効率的にいろんな処理をしようと思い立った。今、システムを作れば、次に同じような仕事をする時には楽になると考え、かなり時間をかけてシステムを作った。

例えば、古文単語をデータベースに入力して、カテゴリー分けをして、いつでも学習内容に見合った単語帳を打ち出せるな、と思った。

しかし、その「いつでも」は訪れなかった。だからどうなのかというと、そのシステムを作っている時は楽しかったな、という気持ちはある。

例えば、年に1回年賀状を出す時、住所録に入力しておけば、次の年は楽になるな、と思って、数年間はそれを使えるのだが、そのうちそのソフトは使えなくなったり、PCの機種を変えたりして、「こっちのアプリの方が便利だな」となり、またそのシステムを構築しなければならなくなる。

今、ある会費入金システムを更新している。約20年弱使用していたサービスが終了したので、新しいサービスに移行している。これがめちゃくちゃ面倒くさい。約20年前は、そんな便利なサービスが無かったから、今まで使っていたものを使うしかなかったのだけれど、そういうサービスはいずれ「勝手に」終了になる。そうしたら別のものに移行しなければならない。その時がすごく大変だ。

楽をしようとして自動化システムを構築するけれど、そのシステムが終了になったら、また苦労する。

その新たなシステムを構築すること自体に楽しみを覚えなければやっていられないという話。「プログラミング的思考」はこういう時に発揮されるんだな。

または、そんな自動化システムなんてやめてしまって、アナログな大昔からあるやり方だったら、「終了」になることはないから、実はそっちの方が楽では無いのか?という話。

数年前から年賀状の宛名は手書きにすることにした。

○○がない

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「お金がないから新車が買えない」

フルモデルチェンジのNew VEZEL購入を断念した理由であるが、「お金がない」といいながら、お金はある。この意味は、「新車購入に割り当てるお金がない」という意味である。新車を購入したら、子どもたちの学費の支払いが厳しくなるし、きっと、借金をしなければならない。今乗っている車がボロボロで、明日にも廃車という状態だったら、借金をしても車を購入するかもしれないが、そういうわけでもない。

家賃、家のローン、食費、交通費に割り当てるお金はある。だから「お金がない」というのは本当にお金がないということではない。

「時間が無い」

と言われることがある。「言われる」というところがミソである。私は以前は使っていたような気がするが、今は使わない。

なぜなら、「時間が無い」と言われるということは、「時間が本当に無いということではなく、今取りかかっていることで手一杯で、今、あなたが要求しているコトに割く時間はない」と言われていると同義だと感じるからだ。つまり、「あなたの優先順位は低いですよ。」と宣言されたようなものである。そりゃあ、心が折れる

私も昔はよくこの言葉を使っていたかも。自分がとても忙しいということにかまけて、忙しいということに酔って、忙しいアピールをして相手を傷つけていたんだなぁと思う。年をとらないと気付けないのが私の罪深さだな。今でも気付けないことは多いのだけれど。