はてなブログだと、たまに「今週のアクセス数が100を超えました」と知らせてくれる。
だいたいそういう時は、誰かが以下のページにアクセスしている。
payforward.hatenadiary.com
きっと、学生が鎌倉幕府のことについて調べているのだと思うけれど、
「鎌倉幕府は何県?」でググってみると上記ページがトップに出た(私の環境では)。
2012年の記事なのだけれど、トップヒットがこんな記事で、それを読んだ学生さんたちは、何を感じるのだろう?
はてなブログだと、たまに「今週のアクセス数が100を超えました」と知らせてくれる。
だいたいそういう時は、誰かが以下のページにアクセスしている。
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きっと、学生が鎌倉幕府のことについて調べているのだと思うけれど、
「鎌倉幕府は何県?」でググってみると上記ページがトップに出た(私の環境では)。
2012年の記事なのだけれど、トップヒットがこんな記事で、それを読んだ学生さんたちは、何を感じるのだろう?
1泊2日の出張で講演を頼まれ、ナスパニューオータニに宿泊した。もちろん宿泊代も出してもらえるし、夕食代も出してもらった。普通は宴会もあるのだが、コロナ禍なので、宴会(食事会)は遠慮させてもらった。夕食はバイキング形式だった。1人でバイキングというのはちょっと寂しいので、早々に引き上げてしまった。
調べたら、ここのサウナは評判がいい。期待して行ったらとても清潔で、広い。広く、普通なら、16人程度入れるのだが、コロナ禍で定員3名と決められていた。いや、それは厳しすぎないか?と思ってしまったが、私のタイミングでは満杯になっていたときは無かったので、待たされることはなかった。平日夜の普通は夕食時間帯だったからだろう。
90℃に到達しない温度だが、十分に汗が出てくるサウナだった。
最近はサウナタイマーを見ることはなくなった。以前は「12分たつまで我慢しよう」と思ってタイマーをにらんでいたのだが、熱ければ出る。まだだったら座っているというように、自分の体に向き合うようになって来た。そうするようになったからといって、必ずととのうわけでもないのだけれど。それでも、サウナぐらいは、自分の感覚をもとに楽しみたい。ととのおうが、ととのうまいが、最近はどうでもよくなってきた。
ベランダと呼ぶべき外気浴スペースがあり、椅子が2脚ぐらいしかない。これもコロナ対策だろうか?椅子待ち列が発生したときもあったかも。そこからの眺めは、山の風景で、緑の中に道しか無いものだ。雲が速く流れて、ちょっとどんよりしていて、もうちょっと風があったらよかったかも。
日帰りで1,100円で入れるのだが、ここだったらコロナ禍制限が無くなったらまた来てもいいかな?と思えるところだ。何せ、サウナにテレビが無いところがよい。オルゴールがうっすらかかっていたかな?新潟県内で一番いいサウナだったかも。コロナ禍制限がないか、客がほぼいなかったらという条件が付くけれど。
今日のととのい度→1 ☆★★★★
新潟県教委の事業「アカデミックインターンシップ」に講座を開設した。こんなマイナーなテーマにもかかわらず、3名の生徒さんが参加してくれた。柏崎市内の高校の所属で、3人とも電車とバスを乗り継いでやって来てくれた。
テーマの「デジタルシチズンシップ」については、Nissyの解説があると思うので、説明はそちらに譲るが、どうしてこの講座を選んだのか?という質問に関しては、自分は理系に進む予定なのだが、理系の分野の講座を選ぶよりも、普段学んでいない内容にこの夏休み期間に触れてみたかったというとても意識の高いものだった。素晴らしい。
講座の内容だが、午前は、自分がネット記事の記者になり、クリック、シェアをしてもらうタイトルと見出しを作ることによって、どういうものを「読みたい」と思うのか、「読みたいと思わせる記事」には、どのような意図と工夫が織り込まれているのかを考えるというものだ。
これは、国語の授業であるような「簡潔で伝わりやすい文章を書こう」というものとは少し違う。「読みたい」、「クリックしたい」と思わせるためには、どういうテクニックが駆使されているのか?ということをと知るのが目標である。
講座では、用意した時間では、十分に書けない生徒さんもいて、考察の時間があまり取れなかったのが残念だったが、
記述が途中で終わっていて、続きを読みたいと思うものに「いいね」をつけた
という意見が出た。しかし、見出しとリード文を作るときには、「記事全てを簡潔な文章にするのが難しかった」という意見もあったりして、読み手と書き手の意識の違い(ズレ)が出たのが面白かった。
午後の演習は、新型コロナウイルス感染症やワクチンに関する「噂」、「デマ」の真偽を見極めるというものだ。
私が学術研究におけるエビデンスの「正しさ」、「信頼度」というのを検定における「有意差」に着目してレクチャーした後、生徒さん達は、こちらで用意した「生物基礎」の教科書*1や、インターネットの情報を基に、真偽を論ずる。
A ワクチン接種で新型コロナに感染する
B mRNA ワクチンで遺伝子が操作される
C 接種でマイクロチップを埋め込まれて追跡される D 接種して効き目が出るのは翌日からである
E ワクチンを打っても新型コロナに感染する
F ワクチンで不妊になる
G ワクチンの副作用で高熱が出る
H ワクチンを打った腕に磁石がくっつく
I 接種は 1 回でも効果がある
J 妊婦が接種すると流産する
それぞれが1つを選び、ホワイトボードに意見、根拠等を書いて発表をした。生徒さん達は、「ワクチンとは」、「RNAとは」などという「正攻法」で論じていた*2。
考察は、主にソース(情報源)の真偽について突っ込む形で行われた。ある医院の医師のwebページからの引用を持って来た論に対して、その医師の論のソースは書かれているの?とか、教科書に書かれてあるからといって、そのまま信じていいのかどうか、ということを論じた。
ネット社会で様々な情報が得られる現代、その真偽はどうやって見極めればいいのだろうか?ということを最後に対話的に考えてみた。
信じる、信じないには様々な要因がからんできて、「その人が言っているから信じる/信じない」という部分が大きかったりするのだが、どうして「その人」なのか?それはエビデンスによって、確かめたわけでは無く、直観によってそう受けとってしまう部分が大きい。じゃあ、どうしてその直観は生まれるのか?その直観自体は信じられるのか?ということになる。
個人が今まで生きてきた中で得られた知識、経験、感覚によって「直観」が生まれる。それが正しい場合もあれば、正しくない場合もある。結局は「気をつける」というところに収束しそうなのだが、どうすれば「気をつける」ことができるのか。ここが問題だ。
まとめの対話の時間も30分弱しか取れずに、検討はまとまらないものになり、もやもやしたものになったが、この「分からなさ」を楽しむ、というのが、今回の目標の1つとして設定していたので、それでも良かったのか?と思う。
生徒さん3人は、とても聡明で、探究心が強く、対話しているととても楽しかった。とても興味深い経験を作ってくれ、手伝ってくれた県教委と本学事務の方々に感謝したい。
2021年 日本 スタジオ地図
「未来のミライ」に続き、次男とカミさんと観に行った。細田守作品は、家族で見にいくことが多い。
「サマーウォーズ」からさらに発展したインターネット世界を描いている。「サマーウォーズ」では、ガラケーを使い、Ozの世界が現実世界の生活とリンクしていたが、「竜とそばかすの姫」の世界では、「異世界(U)」を現実世界の人間が演じているという設定。こっちの方が、今のネット社会を反映しているような気もする。
細田監督が各所メディアで話しているのだが、「U」の世界は完全にディズニーアニメのタッチだった。個人的にはディズニーアニメよりも綺麗に描かれていると思う。また、手塚治虫アニメへのオマージュもあると思うのだけれど、共感してくれるひとはいるかな?
今のアニメの背景の描き方で、写真をそのままCG化している場面がどんどん多くなっていて、「写真と同じじゃん」と感じることが多かったけれど、細田アニメは、随所手書き感を残しているのが面白い。特に告白のシーンとか、ギャグマンガタッチになったりする。そういうのが好きだ。
もう一つのテーマが、「歌の力」だ。コロナ禍で人を大勢集めてのコンサートができない。スポーツ観戦も制限がかかり、声を出すということができない中、この映画を観て、大勢の人が歌を聞くということが懐かしく感じられ、大勢の人と歌を聞くということも疑似体験できた。
主人公「鈴」、「ベル」の声優、中村佳穂は、ミュージシャンといういうことだが、今までの細田作品のヒロインっぽい演技もできて、抜群の歌唱力で、とてもよかった。ただただ、鈴のお父さんがかわいそうでしょうがなかった。
残り回数が少ない「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」だが、今日の題材はまたしても「英語科教育」となった。その時の話題の概要をまとめておく。
英語科教育でいつも話題になるのが、
AI機械翻訳の精度がどんどん上がって行き、文法的な間違いが無くなった場合、英語教育は存在し得るのか?
というものだ。
現時点では機械翻訳は完璧ではないから、こういう英語科教育が必要、ということは言える。しかし、5年後きっとAIの進化(学習)により、日本人が約10年間の英語授業で身につく力をはるかに超えた翻訳精度は得られると想像できる。つまり、スマホがあれば(もしかしたら、それが無くとも)英語を喋る人と日常的な会話ができるということになる。
英検○級や、TOEIC ○点を目指そうとしている文科省は、英語教育の何に意味を見いだしていけるのだろうか?
そうなのかもしれない。5年後でもそれは考えられる。しかし、現在の英語科教育は、「微妙なニュアンス」を理解することを目標としているのだろうか?そんな英語力を持っているのは、ほんの一握りの人たちであって、高校を卒業した人にそんなところまで求めているとは思えない。「日常会話レベル」がいいところだろう。
コミュニケーションを取るためには、「微妙なニュアンス」を理解できないとできないわけではなく、「コミュニケーションを取ろう」という気持ちがあればいいだけである。カタコトの日本語で話しかけられた外国人とコミュニケーションは十分にとれる。
英語の授業では、日本語を英語に変換する脳内の働きを促すことになる。この変換システムを育てられるというのだ。これはなんだか一理あるような気がした。機械翻訳を使えば、それは全く使われないし、育たない。しかし、この「変換システム」って何なんだろう。私もたまに英語翻訳、または英文の日本語翻訳をするときがあるが、脳内でどんな働きをしているかは、ブラックボックスで分からない。
自分の使っていない言語について(言語で)考える、というのは、「頭の体操」のようで、普段使っていない部分を働かせるため、頭脳にとってはいいような気もする。
ここらの研究を検索したときもあったのだが、あまり理解できるものは見つからなかった。また更に調べてみることにしよう。
古典はどうして日本人が必修で学んでいるのか?小学校の国語か教科書から掲載されている。
英語の学習と似ているのは、
普段使っていない言語を習得する
ということだ。古典なんて現代語訳を読めばいいと考えている人もいるが、それは全く違う。それだったら古典を学ぶ意義はほぼない。現代語訳しなくてもいい文章を読めば事足りる。
普段使っていない言語を学ぶことで、
その言語で表現されているソースに直接アクセスできる
のだ。
更に先と、いろいろあるのだが、「ここまでで十分だ」という線引きはできない。なるべく昔のソースにアクセスできればいいのだろうけれど、あまり昔すぎると専門家とならなければできないものもある。
しかし、古典を学ぶことにより、その人の興味関心と努力により7以前ものにだってアクセスできるようになる。ソースに直接アクセスできるということは、ソースと自分の間に何も挟まないことである。何も挟まないことにより「信用できる情報」となり得る。
自分の生活圏の外のソースに直接アクセスできる能力というのは、程度の差はあっても国民全員に持っていて欲しいものだ、というのが、文科省の考えだし、私もそう思う。
ソースに直接アクセスできることにより、正確な情報を得られることができるし、「表現したかった本来のニュアンス」をアクセスした人が受けとることができる。枕草子の冒頭部のどんな現代語訳を読んでも、原文を読んだときに比べて「いいなぁ。」と感じたことはない。
以前、別の大学の国際理解を学んでいる学科で講演したとき、「英語教育は何のために必要?」という問いに、ある学生が「アメリカに欺されないため」と答えてくれた。とってもクリティカルな答えだった。つまり、ソースに直接アクセスできることによって、その情報の真偽を判断することができる。
トランプ元大統領のあるツイートを翻訳して日本のニュースとして話題に挙げていたのだが、その翻訳が全く間違っていたということがあった。日本の各メディアはその翻訳を全く疑いもせず掲載し、話題にしていたのだが、ソースに直接アクセスできる力や意欲があったら、そんなことは起こらなかっただろう。
誰かが仲介することにより、そこに思考停止が起こってしまう。その翻訳が正しいのかどうか、ソースに直接アクセスできる力がなければ、検証ができない。「古典なんて現代語訳でいい」とか、「英語なんて機械翻訳でいい」と考えている人は、そういう人だ。
ソースに直接アクセスできる力はみんなが持っている必要がある。特定の人が特別な力を持つだけではダメで、「知りたいな」と思うときに、辞書や何かのちょっとの手助けにより、ソースの情報を直接読み取ることができる力を持つことにより、みんなが「知る」という権利を行使することができる。
これは、民主主義の根幹を支えるもので、ある特定の人しか情報の入手方法が分からず、ある特定の人しかそのソースを解読できず、ある特定の人しか情報を手に入れられない世では、民主社会は作れない。入手方法を知らされず、入手できたとしてもそれが理解できないのでは、政府を監視できない。
それは「識字」にも繋がってくる。字が読めるということは、日常生活の「生きていく」ということに直接関わる必要な能力だが、字が読めることによって、教養を広げることでもある。教養を広げることは、特定の人にだけ必要なことではない。みんなにとって必要なことだ。
英語教育は、日本人にとって日本文化の「外」にあるものを知るという「教養」を広げるために必要なことであり、古典を学ぶことは、「今」ではない「昔」にあるものを知るという「教養」を広げるために必要なことだ。
教養を広げることも、学校教育では必要なことだが、いつ頃からか、生活に直結することしか重きを置かれない風潮が蔓延しだした。生活に直結することを最重要と考える人は、ベイシックインカム制度が敷かれたら、一部の優秀なエリートだけが頑張って仕事をして、その他は「何も学ばなくていい」とでも言うのだろうか*1?
- 英語でコミュニケーションが取れる→街に英語母語の人は見かけませんが?
- 英語で外国人に日本文化を説明する→そんな機会、現実にあるの?
- 海外旅行に行ったときに、便利でしょ?→私が行きたいのは中国ですが?
- いつか、英語が必要になったときに使える→「いつか」はいつなの?
こんな児童・生徒の問いに答えられる英語科授業が、意味のある授業なんだと思う。「入試のため」、「いつかのため」以外の問いに答える準備は必要だ。
もちろん、古典教育も同じように突きつけられている問題だ。
しして、「歴史教育」は、なぜ、こんな問題をあまり突きつけられないのか、不思議だなぁということで、この授業は終わった。
*1:極論?
学部生のTさんは、「学校教育における固定観念」について研究している。個人ゼミの最中、「『常識的』なことを知らないと、恥ずかしい」という話題になった。
「どうして恥ずかしいのだろう?」と問うてみた。
だって、知らないと恥だから。みんなが知っていることを知らないと恥ずかしいから。
「豊臣秀吉を知らないと恥ずかしいのだろうか?」
日本人だったら、豊臣秀吉を知らないと「そんなのも知らないの?」と言われるということは想像に難くない。しかし、外国人だったらきっと言われない。なぜか?「義務教育の社会科の教科書に載っていて、ほぼ全国民が学校で学んでいる知識だから」と想定してみる。
日本人にとって豊臣秀吉は、何度もドラマになり、映画になり、マンガになり、立身出世譚が有名な英雄(?)であるが、じゃあ、韓国人にとっては、どうなのか?韓国人にとって豊臣秀吉は過去の侵略者であり、英雄でも何でも無い。豊臣秀吉が朝鮮半島でおこなったことの詳細は日本の教科書にはあまり掲載されていない。そのことを知らなくても、日本においては「そんなのも知らないの?」とは馬鹿にされない。
ここに、何かの意図を感じてしまう。
「義務教育時に学校で習ったこと」は、選ばれた知識であり、「そんなことは必要無い」「そんなことは身に付けない方がいい」「身に付けてもらいたくない」というものは学校で扱われない。選別の末、与えられた知識を知らないと「そんなのも知らないの?」とされてしまう。
非常に嫌な言葉を使うと、「洗脳」されているといってもいい。
つまり、「そんなのも知らないの?」という側は、ある権力に押しつけられた「常識」を素直に受けとって、権力側のプロパガンダに加担していると言っていい。(大げさすぎる?)
アインシュタインの言葉
Never memorize what you can look up in books.
「本で見つけられることは、覚えておかなくてもよい」As quoted in "Recording the Experience" (10 June 2004) at The Library of Congress
http://www.arielspeaks.com/Philosophy/Albert_Einstein_Quotes.html
今や、インターネットで「そんなのも知らないの?」と言われているものは、簡単に取り出せるようになった。歴史上の人物や、漢字の読みや、計算式も写真で映せばスマホが計算してくれるようになっている。自動翻訳で全く触れたことが無い言語を喋る人とのコミュニケーションもある程度取れるようになっている。
「そんなものも知らないの?」ということに対して「恥」と思うと、知っているフリをする。知っているフリをすると、そこで尋ねられない。調べられない。「分からない」と思ったときに、尋ねたり、調べたりすることで、身につく。知っているフリをしたら、後から調べるということはあんまりしないだろう。
「覚えておくこと」に価値があったのは、今のようにインターネットですぐに調べることができなかった時代、知識を多く頭脳に蓄えておけば、図書館に行ってたくさんの本の中から必要な情報を時間をかけて見つけ出すというコストがかからないからだ。
「分からない」と感じ、その分からなさをすぐに解消しようということに価値が出てくる。つまり、過去に得た知識には価値がなく、今、解明しようという意識に価値が出てくるはずだ。「分からなくてもそのままにしておく」ではダメだが、「今それを知り、その知った知識と今の話題を結びつける」ことで、知識と知識が結びつき「深い学び」に繋がっていく。
「知りたい」と思うときに「知る」ということが、いかに大切か、ということだ。
全国の学校の教室にはWi-Fiが配備されたのだが、何のためなのかまだ分かっていない学校も多い。上記の「知らない」ということに対して即座に「知ろう」とすることができる環境があるのに、学校側がWi-Fi使用制限をしたり、学校の端末は全生徒分は無いし、個人のスマホ使用禁止、となると、検索できる知識は手持ちの本の中か、教師の頭の中にしか無い。
「先生、これはなんですか?」と聞いても、「自分で考えなさい」と、スマホで調べれば分かることを「考えなさい」と言うのは、教師の優位性を保とうとしているとしか思えない。個人端末Wi-Fi接続禁止、放課後までスマホ使用禁止をしているということは、今の世で情報遮断、情報統制をしているどこかの政府の政策と全く同じでは無いのか?
もちろん、知識が多いということに超したことはない。わからない語をいちいちネットで調べなくてもいいし、クリエイティブなことは、分かっていることを頭の中で組み合わせて表出されるからだ。さっき知ったことをすぐにクリエイティブなことには使えない。
今の世で、採用、合格しやすいのは、ペーパーテストで高い点数を取ったものである。ペーパーテストでは、ほとんどがその人が持ち得ている知識しか測っていない(測れない)。どうして知識が多い人の方が、採用、合格しやすいのか?
知識が多い←長時間「勉強」した結果←根気がある、素行がいい、「やれ」と言われたことをやる人
という図式で、「根気がある、素行がいい人、「やれ」と言われたことをやる人」を多く集めたい、という考えがあるのかもしれない*1。しかしこれらには全く因果関係は無い。しかも、これから必要とされている、クリエイティブなことを生み出す人を見つけることはできない。
「きっとテストの点数が高い人は、他の能力も高いんだろう」という思い込みで選別されているのだが、だんだんそれも「ウソ」であることが分かってきた。
どうせ人間はそのうち忘れる。忘れることができるのが、人間の有能である所以だ、なんていう人もいるが、「忘れる」前提で、どうすればよいのか?を考える必要がある。
数週間後のミーティングのスケジュールを忘れずに、そのミーティングに参加する
月に1回ある、特売日に忘れずに買い物に出かける
今日知り合った人の名前と顔を数ヶ月後に思い出し、その人の声をかける
ためにはどうすればいいのだろうか?
これらの特徴は、そのタイミングまでは忘れていいということだ。ずーっと覚えていなくてもいい。これらはICTを使えば、楽にできる。リマインダーというヤツだ。リマインダーをかける操作、工夫があれば、そのタイミングまで忘れてよい。もっとも、リマインダーをかけること自体を忘れていたらお手上げだが、人間は「常時すること」は結構忘れないものだ。
「思い出すために何をするか?」という工夫ができる力が必要となってくるはずだ。ずーっと蓄積して、もしかしたら一生使わないかもしれない知識にそれほど価値を感じない。
今のペーパーテストで「主体的・対話的で深い学び」は測れない。「主体的学び」も「対話的学び」も「深い学び」のどれも測れない。それでもペーパーテストを続けますか?と言いたくなる。ペーパーテストに固執する限り、上記学びの生起は放棄しているといってもいい。
必要とも思えない知識を短期間に脳内メモリに詰め込み、短期間で吐き出し、消失させることに重きを置き、それをくり返していけば、学校自体が見捨てられる。
こんなことをゼミ生と対話して考えることができた。対話的学びがここで生起されていると実感できる。
*1:暴論かな?
今期はかなり数多くのアニメを見続けたと思う。コロナが少々治まり、新作もたくさん出て、それでも名作の再放送も多かったので、たくさんの作品を観ていた。Amazon Prime Videoでも観て、DVDも借りて観ていた。よく観ていたなぁと思う。
今期観ていたアニメは、Notionにまとめた。
一番次回作を楽しみにして観ていたアニメは、「Vivy」だった。AIが進んだ世の中で、AIは「使命」を果たすという一点において働いており、平和な世の中を作るには、人間を絶滅させるしかないという結論を下した。その結果を覆すべく、未来からきたAIロボットの「マツモト」が「歌で人を幸せにする」という使命を持った歌姫AIの「Vivy」とともに、シンギュラリティポイントにおいて「未来」を変える仕事をするというもの。
「ターミネーター」のような話だが、絵も音楽も綺麗で、AIや人間の葛藤も描かれている複雑な話だった。
AIの下した判断に盲目的に従いつつある今、今後AIとどう共存していくのかも考えさせられるものだった。