Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

グループ学習の必要性

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本日学部2年生ゼミで、「グループ学習の必要性」って何だ?という話題になった。「模擬授業でも、当たり前のようにグループ学習を入れるけれど、グループじゃなくてもいい場合があるよね。グループ学習が本当に効果がある時って、どういうときだろう?」をディスカッションした。

機材が無いとき

例えば実験の機材が学習者人数分用意できない場合は、グループ学習が必要になる。経済的に節約できるという効果がある。

時間が無いとき

例えば、歴史新聞を作るとき、グループで1つ作らせる。そうすると仕事の割り振りをして時間を節約することができる。しかし、理想的には1人がいろんな記事を考え、1つの新聞を作った方が、その人の学習にはなる。仕事の分担が起こると、全てを学ぶこと無く成果物を完成させてしまうというデメリットが起こる。

発表相手を確保したいとき

スピーキングの相手を確保する。発表の相手を確保するというときに、グループを決めた方が活動相手をわざわざ探さなくても良くなる。「近くの適当な相手に説明して」という指示の場合、全員が説明しているかどうかを1人の教師が把握することはとても困難だ。その場合グループを決め、グループ単位で活動しているかどうかを把握すると、全員の活動を見とることができる。これは学習者側の「発表相手を見つける」というちょっとの労力の節約と、教師側の全体把握の労力の節約になる。時間と労力の節約のためであり、学びが効果的かどうかはあまり関係ない。

コミュニケーション力を訓練したいとき

「好きな自分が選んだ人とディスカッションして」という指示の場合、多くが、自分が話しやすい人を選んだり、積極的に選ぼうとしない人同士で集まることなる。話しやすい人とは、ディスカッションは気心を知っている予想どおりの内容になるし、積極的に選ぼうとしない人同士では、ディスカッションは盛り上がらない。グループを決められることになり、そこら辺が緩和され、馴染んでいない人とのディスカッションを行い、「気心が知れていない人」との訓練を全員することとなる。しかし、これはコミュニケーション力の訓練であり、その教科の授業で無ければならないということでは無い。

緊張感を確保したいとき

自分1人だったら、「この程度でいいか」と学習がお座なりになる可能性が高いが、他人がいると、「自分だけいい加減じゃだめだ」という緊張感が増して、しっかりと課題を考えようという気持ちになるという意見が出た。そうすることで課題のクオリティが上がっていくという。今回模擬授業をグループで考えて、それを実感したというのだ。1人での模擬授業だったら、その結果の責任は、自分で引き受ければいいのだが、グループで行うと自分の失敗やなまけが、全員の責任となってしまう。そのため緊張感をもって取り組めたというのだ。

これは、グループ学習がいい面で働いているのだろう。逆に、「自分は何もしなくても他の人がやってくれるからいいや」というケースも起こりうる。Zoom授業での20人でのブレイクアウトセッションでは、常時それが起こっているそうだ。いやいや、そんな大人数のブレイクアウトセッション、私でもイヤだなぁ。じゃあ、最適なグループ人数って何人なんだろう?という話にもなった。

もう始まっているゲームに入りたい(入らせたい)とき

上記「緊張感を確保したいとき」と似ているのだが、4人グループで、3人が取り組んでいた場合、残りの1人が例えば前時欠席なんかしていた場合、その学習に入り込みやすい。これがグループ学習では無かった場合、欠席していた人は、ぽつねんと取り残された状態で過ごすことになる。しかし、グループだったら、その学習に乗りやすいのではないか?欠席では無くても、授業の前半眠くてぼーっとしていたが、他の人たちが乗り気でやっていれば、途中からでも入り込みやすくなる、というか、自分一人だけ何もしないというのは、場の雰囲気で許されないと感じる場合は多い。もちろん、そんなの意に介さずに過ごせる強者もいるにはいるが、それに毎時間耐えられる強者はあまりいないのではないか?

大切なのは、「意味」をわかって行うこと

模擬授業を作らせると、必ずグループにならせて交流させようとするのだが、本当にそこにグループ学習の意味を見いだしているか?と問いかけたい。グループでは効果的ではなく、むしろ、デメリットしか生まれない「グループ学習」もある。そんなことにも気づきだしたゼミ生たち、今後が楽しみだと思った。

リトル・フォレスト 夏・秋


www.youtube.com

2014年 日本 Amazon Prime Video視聴

なんだろう?と思ってたまたま観てみたが、とてもいい雰囲気の映画。東北の自然の中で暮らす1人の女性(橋本愛)が自分の食べるものを育て、採り、その食材をもとにとっても美味しそうなものを作って食べる映画。NHKのドキュメンタリー番組のような雰囲気。春夏秋冬1本ずつの映画だそうだが、夏編と秋編をセットで流している。

その中で主人公の後輩で主人公と同じ山間の小さな村、小森にUターンしてきた男が話す言葉が心に刺さった。

自分自身の体でさ、実際にやったことと、その中で感じたこと考えたこと、自分の責任で話せるのってそのぐらいだろ?

www.pintscope.comより。

この仕事をしていると、他人の言葉、他人の研究、他人の成果を集めなければ、やっていけないことがあるが、いかにも自分の言葉、自分の成果という口調になりがちだ。他人の言葉でありながら、自分の体で実際にやったこと、その中で感じたこととリンクできなければ、語っても伝わらないのだろう、と、ハッとしてしまった。

それにしてもいい映画だった。

雪かき仕事

「シリーズ・道徳を考える① 道徳ってなに? 内田樹著 こどもくらぶ編」を読んだ。ずいぶん前に手に入れていたんだけれど、いつでも読めると思って読んでいなかった。

今まで読んだどの道徳の教科書のエピソードより、納得できた。納得できたというか、「そういうことって日常的にあるよね」と思えて、それでいて「最善の答え」を出すのがとても難しいエピソードだった。哲学だった。
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この本の中で「たいせつ」と書かれているのは、「雪かき仕事」だ。誰かがやらなければならない(やったほうがいい)お金をもらえない仕事を誰がやるか?(簡単な例では、廊下に落ちていたごみを拾って捨てること。)昔、冬はバスで通勤していた頃、横断歩道のところにスコップが1台設置してあって、「思いやりのひとかき運動」というのを見かけたことがある。待っているときに、ちょっとだけ雪をのけて、他の人が歩きやすいようにしよう、というもの。それを「○○運動」じゃなくてもするっていうこと。

社会ではそれを誰かがやっているのだが、それをやってもその人には「得」にはならない。お金がもらえるわけでもない。でも、それを見つけてそれをやるかどうかは、その人にかかっている。「得」にならないから誰もやらなかったら、社会はちょっと生きにくくなる。「得」だけを考えて、「得」になると思えることしかやらないんだったらちょっとぎすぎすしてくる。

「得」にならない、むしろ「持ち出し」が多いことをやれるかどうかだし、やらないからといって非難されるのはおかしい。やったからといって賞賛されないかもしれない。そんな「雪かき仕事」で社会は回っている。ということが主として書かれていた。

とても大きい例として、タイタニック号の沈没が挙げられていた。そこで救命ボートに乗らず、他の人に譲って死んだ人、この人は「この人を助けることは自分の得になるから」なんて一切考えていない(むしろ「損」である)が、そういう行動が取れる。どうしてそういう行動が取れたんだろう?という投げかけがある。

物事を「得」、「損」だけで捉える人ばかりでは社会は回っていかないという話。ランキング上位を目指す人だけではなく、雪かき仕事ができる人も育てる必要がある。

夏の講座ラッシュが終了

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学校現場の夏休みに合わせて毎年講座講師に呼ばれるのだが、大学に登録する出前講座(講師料無料)の条件をちょっと変えたので、今年はあまり呼ばれなくなった。そんな中でも講師として招へいしてくれたものや、自分から開いた講座が合計で5つあり、本日終了した。

アカデミックインターンシップ(於:本学 7月28日(水))

新潟県教育委員会主催の、高校生対象大学等講義体験。本当は大学の先にある社会の課題を意識してもらおうという目的のようだが、私はゼミ生と「デジタルシチズンシップ」をテーマに行った。参加者3名。
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当初はそれぞれのデジタル上の情報発信をどう受けとるかを考察しようと10名以上の講座を想定していて、開講しないことも考えたのだが、せっかくこんなマイナーなテーマを選んでくれらのだから、ということで開講した。開講してよかった。高校生の屈託のない生の意見を聞くことのなんと貴重なことよ。そうか、こういう講座には、こんな意味があったのか。

高校生とのディスカッションは面白い。

新潟県私学中学校高等学校教育研修会(於:ナスパニューオータニ 8月17日(火)〜18日(水))

今春に依頼があり、高校国語の先生方に対して、ICT活用授業や、新教育課程、協同学習などについての実践発表へのコメントをしてくれという話だったので、引き受けた。その後、70分程度のテーマに関する講演もしてくれと追加注文があり、引き受けた。

講演の依頼があると、それに関していろいろ調べるので、自分の研究になる。ICT活用授業は知識定着に効果があるという研究はあるのだが、「どうして」効果があるのかの実証的データがほとんどないことを知ったり、ICT活用授業のどの要素が効果に影響しているのか?ということもあまりいわれていないので、自分で本を読みあさってリストアップしたりした。

初日の私の講演は午後からなのだが、午前中から呼ばれて、何があるのかな?と思ったら、お昼も出してくれたり、全体講演を聴いたりすることができた。午後の講演では、上記の私がまとめたことを話したり、iPadも持ち込んで、ICT導入による国語科授業デザインを体験してもらえた。これは、アカデミックインターンシップで行った「デジタル上の情報発信をどう受けとるか」を体験してもらうプログラムを流用できた。各講座は繋がっているんだと思った。(二番煎じ?)

2日目は、3名の先生が、ご自分の授業実践を発表してくれた。「ICT導入」が先行事項にあり、どのように奮闘して効果的な実践に持っていったかを熱く語ってくれた。どの先生も御自身の受け持った生徒たちの反応を笑顔で語ってくれて、「こんなに素晴らしいでしょう?」と自慢しているようでもあり、それこそがこの研修会の大きな意味なんだと思った。発表はどんどん伸び、私は10分間で3つの実践報告にコメントをしなければならなかった。

去年は中止だったようだが、毎年開催し、全国大会もあると言うことを始めて知り、新潟の私学はこの湯沢で毎夏熱い研修が繰り広げられているのかと驚いた。

ナスパニューオータニの風呂とサウナは最高だった。
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新潟県直江津中等教育学校 大学講義体験講座 群読(於:レインボーセンター 8月20日(金))

初めは「出前講座」としてアポを取ってきてくれたのだが、その計画があまりにも長時間であるので、ちょっと引き受けかねると返答したら、「出前講座」ではなく、講演依頼として依頼してきてくれた。

午前2時間、午後2時間の入れ替え制群読講座は、かなりの体力を消耗した。最近の私の群読講座は「俳句ラップ群読」だ。

俳句の群読を作るのだが、これを作るのに俳句の表現そのものではなく、その俳句に表現されている背景や思いを考え、しかもそれを「ライム(韻)」に合わせて作るというかなり高度なのだが、表現してぴったりはまるとめちゃくちゃ気持ちいい群読となる。これが高校生たちにぴったりはまる。

ラップは知っているが、ラップを口にしたこともないし、作ったこともないという高校生がほとんど(私もそう)だが、こういう機会で作ってみると熱中してしまうらしい。俳句ラップ群読は、この講座の終盤部に設定するのだが、私が作ったラップビートをスピーカーでずーっとかけていると、どんどん頭の中がラップ脳になっていくことが分かる。

それでも、こういう授業って、こういう講座でしかできないんだろうな。普通の高校の授業じゃ無理なのかな?でも導入して欲しいな、と、切に思う。「ライム(韻)」を意識した国語の授業って、皆無だ。漢詩で韻のルールを覚えるだけで、それを体感することもない。ましてや自分で韻をつくり出すことなんてしない。表現無くして何が理解だ!と訴えたい。

参加した生徒さん達にGoogleフォームで答えてもらったアンケートだが、ラップをやってみて楽しかったというのと、ビートに合わせて声を発するというのが、予想以上に好評だった。

長野県教育委員会上越教育大学教職大学院との連携講座(長野講座) (オンライン 8月26日(木))

当初は長野県総合教育センターで行う予定だったのだが、約3週間前に長野県では対面の研修会が禁止となり、オンラインで行うこととなった。

演習で、グループワークを考えていたのだが、どうやればそれが実現するか?と担当のセンター職員と相談していたら、GoogleClassRoomが使えるので、それぞれにアカウントを割り振り、Zoomで行えるということだった。GoogleClassRoomを使えるのは、ありがたいと思い、今までテキストベースで作っていた内容をGoogleClassRoomのクラス内に作って行った。

先に示した「デジタル上の情報発信をどう受けとるか」のプログラムをもとに、その活動で「対話」はどのように起こっているのか?を考えてもらうのをテーマとした。「会話」と「対話」は違う、話し合わせれば「対話的学び」ができるわけじゃないということを分かってもらいたかった。

しかしトラブル大発生。全員Zoomには入れているのだが、GoogleClassRoomに入ることができない。教委配布の端末によって、アカウントを受け付けないものがあるということが分かった。GoogleClassRoomに入らせることで、Zoom内世界はその対応に追われて、もう既に正常にアクセスできている人を置いてきぼりにしてしまう。大反省である。

Zoomにヘルプのためのブレイクアウトルームを作り、その人をそこに移動させて、そこだけでアクセス方法の指示を取ればよかったと、担当のセンター職員と後になって反省をした。

そしてそんなことで時間が経過してしまったので、メインイベントである、「各自が対話的デジタル授業デザインを作る」は、話し合いだけで終わり、実際それをみんなに体験してもらうことはできなかった。対面だったら、Chromebookが用意されていて、絶対にそんなトラブルはなかったんだよなぁと、後悔先に立たず。

しかし、これからリモート研修が続くのかもしれない。こういう経験を次に活かそうと、担当職員のT先生と傷をなめ合った。

静岡県立F高等学校職員(有志)研修会(合同ゼミ)(オンライン 8月27日(金))

当初の予定は静岡から上越教育大学にいらしてもらって、うちのゼミとの合同ゼミを行う予定だったのだが、オリンピック後、急速にコロナ禍がひどくなったので、やむなく中止とし、オンライン研修とした。

うちのゼミからはNissyが来週から行うデジタルシチズンシップ授業デザインをF高校の先生に見てもらい、現場の高校生は実際にその課題をどう捉えるか?というアドバイスをいただいた。ほぼ初対面なのだが、どんどん意見をいただき、本当にありがたかった。授業経験がまだまだ少ないNissyには、有益な情報ばかりだったと思う。「その言葉の使い方で高校生はどうイメージをするか?」とか、「1時間でおこなおうと思っているその2つの課題は、各1時間使ってやるべきだ」とか、Nissyにとって、机上では想定できなかったアドバイスをいただき、月曜日の授業実践に活かしてくれただろう。

F高校からは、来年度から始まる新教育課程で変わる評価の仕方の話題を提供してもらった。高校でも観点別評価をしなければならない。今、ほとんどの高校では、指導要録では5段階の数値による評価がされ、各学期ごとは100段階の数値による評価がされている。それを来年度から観点別に評価(A〜C)をし、それをもとに各教科で評価をすることになった。

って、これって、義務では今までも普通にやっていたことじゃないの?というツッコミを入れたいのだが、高校でこんなことが導入されるということは、「高校のこれまでの評価の仕方はダメだよ」というメッセージだ。F高校では、毎学期評価に関する研修会を開き、「知識・技能」、「関心・理解・表現」、「主体性」とは何か、それぞれの関係などを考えてきたということだ。きっとそんな学校は稀なんだと思う。

ほとんどの高校ではきっとそういう解釈は「とりあえず」放っておかれ、ペーパーテストで行っているものを、どのようにその3つに割り振るか?としか考えていないんだろうと容易に想像できる。いやいや、ペーパーテストでは、「主体性」なんて評価できないよ、というツッコミは無視されるんだろう。ペーパーテストだけで評価をしているから、この改革になったんじゃないの?

なんていう話をあーだ、こーだやりとりして、あっという間に時間が来てしまった。

Zoomでも、こんな楽しい会ができる。実際に来てくれたら、飲み会は盛り上がっただろうな、と、とても残念だった。今後定期的にこんな会を開こうという話になった。

上越教育大学附属中学校わくわく大学デー(於:上越教育大学 8月30日(月))

コロナ禍で実施が危ぶまれたが、対面で実施できることになった。5年前に群読講座を行ったのだが、今回は、最近の研究対象「デジタルシチズンシップをどう身に付けるか」だ

午前、午後の講座各5名の中学生がこの講座を選んでくれた。こんなマイナーなわかりにくい講座を選んでくれるのは、きっと聡明なお子さんたちなのだろう、との期待で実施した。

「デジタルシチズンシップとは」のレクチャー後、いつもの「どんな情報を信じるのか?」ワークショップを行う。各講座4名という少人数だったので、私が作ったあおり記事、以前の講座で「いいね」が多く付いた記事をそれぞれ1つずつ加え、1記事につき4投稿で「いいね」を付けさせた。

1つの講座では、私のあおり記事に「いいね」が集まった。他では、受講者の記事に「いいね」が付いた。「いいね」を付けた意図と投稿の意図をそれぞれ話してもらって、「意図」を互いに感じてもらった。この演習と「デジタルシチズンシップ」を結びつけるものがちょっと弱いなぁと、まだまだ修正が必要だと感じた。

最後のディスカッションでは、「恐いもの・こと」の話題にし、どうして「恐い」のか?それは、その存在を「信じているから」というように導き、なぜ、「無いといわれているのにその存在を信じているのか?」という話題に持っていったのだが、結構難しかったようで、話題がつまってしまった。

「自分の思いは存在する」から「私は存在する」という人間存在の話題になったり、学者が調査している教科書内容より、行政が集計したデータの方が信じられるという話題も出たりして、結構ディープな時間帯もあった。中学生ながら歯ごたえのあるディスカッションだった。

しかし、パッケージとしてのこのプログラムは、改善の余地がまだまだあると反省した。

教養としての英語科教育

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残り回数が少ない「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」だが、今日の題材はまたしても「英語科教育」となった。その時の話題の概要をまとめておく。

英語科教育でいつも話題になるのが、

AI機械翻訳の精度がどんどん上がって行き、文法的な間違いが無くなった場合、英語教育は存在し得るのか?

というものだ。

現時点では機械翻訳は完璧ではないから、こういう英語科教育が必要、ということは言える。しかし、5年後きっとAIの進化(学習)により、日本人が約10年間の英語授業で身につく力をはるかに超えた翻訳精度は得られると想像できる。つまり、スマホがあれば(もしかしたら、それが無くとも)英語を喋る人と日常的な会話ができるということになる。

英検○級や、TOEIC ○点を目指そうとしている文科省は、英語教育の何に意味を見いだしていけるのだろうか?

機械翻訳では微妙なニュアンスが分からないから……

そうなのかもしれない。5年後でもそれは考えられる。しかし、現在の英語科教育は、「微妙なニュアンス」を理解することを目標としているのだろうか?そんな英語力を持っているのは、ほんの一握りの人たちであって、高校を卒業した人にそんなところまで求めているとは思えない。「日常会話レベル」がいいところだろう。

コミュニケーションを取るためには、「微妙なニュアンス」を理解できないとできないわけではなく、「コミュニケーションを取ろう」という気持ちがあればいいだけである。カタコトの日本語で話しかけられた外国人とコミュニケーションは十分にとれる。

脳内外国語変換システムが大事

英語の授業では、日本語を英語に変換する脳内の働きを促すことになる。この変換システムを育てられるというのだ。これはなんだか一理あるような気がした。機械翻訳を使えば、それは全く使われないし、育たない。しかし、この「変換システム」って何なんだろう。私もたまに英語翻訳、または英文の日本語翻訳をするときがあるが、脳内でどんな働きをしているかは、ブラックボックスで分からない。

自分の使っていない言語について(言語で)考える、というのは、「頭の体操」のようで、普段使っていない部分を働かせるため、頭脳にとってはいいような気もする。

ここらの研究を検索したときもあったのだが、あまり理解できるものは見つからなかった。また更に調べてみることにしよう。

古典教育は 英語科教育と似ている

古典はどうして日本人が必修で学んでいるのか?小学校の国語か教科書から掲載されている。

英語の学習と似ているのは、

普段使っていない言語を習得する

ということだ。古典なんて現代語訳を読めばいいと考えている人もいるが、それは全く違う。それだったら古典を学ぶ意義はほぼない。現代語訳しなくてもいい文章を読めば事足りる。

普段使っていない言語を学ぶことで、

その言語で表現されているソースに直接アクセスできる

のだ。

日本人はどこまで遡ってソースにアクセスできるのか?

  1. 自分の同年代の人としか意思疎通ができない
  2. 自分の親、祖父母世代までとしか意思疎通ができない
  3. 明治時代に文語で書かれた文章を読める
  4. 江戸時代の文章を読める
  5. 室町時代の文章を読める
  6. 平安時代の草書体を読める
  7. 奈良時代の万葉仮名を読める

更に先と、いろいろあるのだが、「ここまでで十分だ」という線引きはできない。なるべく昔のソースにアクセスできればいいのだろうけれど、あまり昔すぎると専門家とならなければできないものもある。

しかし、古典を学ぶことにより、その人の興味関心と努力により7以前ものにだってアクセスできるようになる。ソースに直接アクセスできるということは、ソースと自分の間に何も挟まないことである。何も挟まないことにより「信用できる情報」となり得る。

自分の生活圏の外のソースに直接アクセスできる能力というのは、程度の差はあっても国民全員に持っていて欲しいものだ、というのが、文科省の考えだし、私もそう思う。

ソースに直接アクセスできることにより、正確な情報を得られることができるし、「表現したかった本来のニュアンス」をアクセスした人が受けとることができる。枕草子の冒頭部のどんな現代語訳を読んでも、原文を読んだときに比べて「いいなぁ。」と感じたことはない。

誰かが仲介することによる弊害

以前、別の大学の国際理解を学んでいる学科で講演したとき、「英語教育は何のために必要?」という問いに、ある学生が「アメリカに欺されないため」と答えてくれた。とってもクリティカルな答えだった。つまり、ソースに直接アクセスできることによって、その情報の真偽を判断することができる。

トランプ元大統領のあるツイートを翻訳して日本のニュースとして話題に挙げていたのだが、その翻訳が全く間違っていたということがあった。日本の各メディアはその翻訳を全く疑いもせず掲載し、話題にしていたのだが、ソースに直接アクセスできる力や意欲があったら、そんなことは起こらなかっただろう。

誰かが仲介することにより、そこに思考停止が起こってしまう。その翻訳が正しいのかどうか、ソースに直接アクセスできる力がなければ、検証ができない。「古典なんて現代語訳でいい」とか、「英語なんて機械翻訳でいい」と考えている人は、そういう人だ。

みんながちょっとずつでも力を持っていることの重要性

ソースに直接アクセスできる力はみんなが持っている必要がある。特定の人が特別な力を持つだけではダメで、「知りたいな」と思うときに、辞書や何かのちょっとの手助けにより、ソースの情報を直接読み取ることができる力を持つことにより、みんなが「知る」という権利を行使することができる。

これは、民主主義の根幹を支えるもので、ある特定の人しか情報の入手方法が分からず、ある特定の人しかそのソースを解読できず、ある特定の人しか情報を手に入れられない世では、民主社会は作れない。入手方法を知らされず、入手できたとしてもそれが理解できないのでは、政府を監視できない。

それは「識字」にも繋がってくる。字が読めるということは、日常生活の「生きていく」ということに直接関わる必要な能力だが、字が読めることによって、教養を広げることでもある。教養を広げることは、特定の人にだけ必要なことではない。みんなにとって必要なことだ。

英語教育は、日本人にとって日本文化の「外」にあるものを知るという「教養」を広げるために必要なことであり、古典を学ぶことは、「今」ではない「昔」にあるものを知るという「教養」を広げるために必要なことだ。

教養を広げることも、学校教育では必要なことだが、いつ頃からか、生活に直結することしか重きを置かれない風潮が蔓延しだした。生活に直結することを最重要と考える人は、ベイシックインカム制度が敷かれたら、一部の優秀なエリートだけが頑張って仕事をして、その他は「何も学ばなくていい」とでも言うのだろうか*1

教養としての英語教育

  • 英語でコミュニケーションが取れる→街に英語母語の人は見かけませんが?
  • 英語で外国人に日本文化を説明する→そんな機会、現実にあるの?
  • 海外旅行に行ったときに、便利でしょ?→私が行きたいのは中国ですが?
  • いつか、英語が必要になったときに使える→「いつか」はいつなの?

こんな児童・生徒の問いに答えられる英語科授業が、意味のある授業なんだと思う。「入試のため」、「いつかのため」以外の問いに答える準備は必要だ。

もちろん、古典教育も同じように突きつけられている問題だ。

しして、「歴史教育」は、なぜ、こんな問題をあまり突きつけられないのか、不思議だなぁということで、この授業は終わった。

*1:極論?

「そんなのも知らないの?」となぜバカにされるのか?

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学部生のTさんは、「学校教育における固定観念」について研究している。個人ゼミの最中、「『常識的』なことを知らないと、恥ずかしい」という話題になった。

どうして「恥ずかしい」のか?

「どうして恥ずかしいのだろう?」と問うてみた。

だって、知らないと恥だから。みんなが知っていることを知らないと恥ずかしいから。

豊臣秀吉を知らないと恥ずかしいのだろうか?」

日本人だったら、豊臣秀吉を知らないと「そんなのも知らないの?」と言われるということは想像に難くない。しかし、外国人だったらきっと言われない。なぜか?「義務教育の社会科の教科書に載っていて、ほぼ全国民が学校で学んでいる知識だから」と想定してみる。

豊臣秀吉の全てを知っているわけではない

日本人にとって豊臣秀吉は、何度もドラマになり、映画になり、マンガになり、立身出世譚が有名な英雄(?)であるが、じゃあ、韓国人にとっては、どうなのか?韓国人にとって豊臣秀吉は過去の侵略者であり、英雄でも何でも無い。豊臣秀吉朝鮮半島でおこなったことの詳細は日本の教科書にはあまり掲載されていない。そのことを知らなくても、日本においては「そんなのも知らないの?」とは馬鹿にされない。

ここに、何かの意図を感じてしまう。

知っておいてほしいことと知らなくてもいいことの選別がされている

「義務教育時に学校で習ったこと」は、選ばれた知識であり、「そんなことは必要無い」「そんなことは身に付けない方がいい」「身に付けてもらいたくない」というものは学校で扱われない。選別の末、与えられた知識を知らないと「そんなのも知らないの?」とされてしまう。

非常に嫌な言葉を使うと、「洗脳」されているといってもいい。

つまり、「そんなのも知らないの?」という側は、ある権力に押しつけられた「常識」を素直に受けとって、権力側のプロパガンダに加担していると言っていい。(大げさすぎる?)

実は「知っていること」はたいしたことが無いのでは?

アインシュタインの言葉

Never memorize what you can look up in books.
「本で見つけられることは、覚えておかなくてもよい」

As quoted in "Recording the Experience" (10 June 2004) at The Library of Congress
http://www.arielspeaks.com/Philosophy/Albert_Einstein_Quotes.html

今や、インターネットで「そんなのも知らないの?」と言われているものは、簡単に取り出せるようになった。歴史上の人物や、漢字の読みや、計算式も写真で映せばスマホが計算してくれるようになっている。自動翻訳で全く触れたことが無い言語を喋る人とのコミュニケーションもある程度取れるようになっている。

「そんなものも知らないの?」ということに対して「恥」と思うと、知っているフリをする。知っているフリをすると、そこで尋ねられない。調べられない。「分からない」と思ったときに、尋ねたり、調べたりすることで、身につく。知っているフリをしたら、後から調べるということはあんまりしないだろう。

「覚えておくこと」に価値があったのは、今のようにインターネットですぐに調べることができなかった時代、知識を多く頭脳に蓄えておけば、図書館に行ってたくさんの本の中から必要な情報を時間をかけて見つけ出すというコストがかからないからだ。

「知らない」ということに価値がある?

「分からない」と感じ、その分からなさをすぐに解消しようということに価値が出てくる。つまり、過去に得た知識には価値がなく、今、解明しようという意識に価値が出てくるはずだ。「分からなくてもそのままにしておく」ではダメだが、「今それを知り、その知った知識と今の話題を結びつける」ことで、知識と知識が結びつき「深い学び」に繋がっていく。

「知りたい」と思うときに「知る」ということが、いかに大切か、ということだ。

その流れに逆行する「スマホ禁止」

全国の学校の教室にはWi-Fiが配備されたのだが、何のためなのかまだ分かっていない学校も多い。上記の「知らない」ということに対して即座に「知ろう」とすることができる環境があるのに、学校側がWi-Fi使用制限をしたり、学校の端末は全生徒分は無いし、個人のスマホ使用禁止、となると、検索できる知識は手持ちの本の中か、教師の頭の中にしか無い。

「先生、これはなんですか?」と聞いても、「自分で考えなさい」と、スマホで調べれば分かることを「考えなさい」と言うのは、教師の優位性を保とうとしているとしか思えない。個人端末Wi-Fi接続禁止、放課後までスマホ使用禁止をしているということは、今の世で情報遮断、情報統制をしているどこかの政府の政策と全く同じでは無いのか?

知識が多いということ

もちろん、知識が多いということに超したことはない。わからない語をいちいちネットで調べなくてもいいし、クリエイティブなことは、分かっていることを頭の中で組み合わせて表出されるからだ。さっき知ったことをすぐにクリエイティブなことには使えない。

今の世で、採用、合格しやすいのは、ペーパーテストで高い点数を取ったものである。ペーパーテストでは、ほとんどがその人が持ち得ている知識しか測っていない(測れない)。どうして知識が多い人の方が、採用、合格しやすいのか?

知識が多い←長時間「勉強」した結果←根気がある、素行がいい、「やれ」と言われたことをやる人

という図式で、「根気がある、素行がいい人、「やれ」と言われたことをやる人」を多く集めたい、という考えがあるのかもしれない*1。しかしこれらには全く因果関係は無い。しかも、これから必要とされている、クリエイティブなことを生み出す人を見つけることはできない。

「きっとテストの点数が高い人は、他の能力も高いんだろう」という思い込みで選別されているのだが、だんだんそれも「ウソ」であることが分かってきた。

「知識」に関して、これから必要な力

どうせ人間はそのうち忘れる。忘れることができるのが、人間の有能である所以だ、なんていう人もいるが、「忘れる」前提で、どうすればよいのか?を考える必要がある。

数週間後のミーティングのスケジュールを忘れずに、そのミーティングに参加する
月に1回ある、特売日に忘れずに買い物に出かける
今日知り合った人の名前と顔を数ヶ月後に思い出し、その人の声をかける

ためにはどうすればいいのだろうか?

これらの特徴は、そのタイミングまでは忘れていいということだ。ずーっと覚えていなくてもいい。これらはICTを使えば、楽にできる。リマインダーというヤツだ。リマインダーをかける操作、工夫があれば、そのタイミングまで忘れてよい。もっとも、リマインダーをかけること自体を忘れていたらお手上げだが、人間は「常時すること」は結構忘れないものだ。

「思い出すために何をするか?」という工夫ができる力が必要となってくるはずだ。ずーっと蓄積して、もしかしたら一生使わないかもしれない知識にそれほど価値を感じない。

知識量を測るテストよりも、技術、協働、創造性を評価する

今のペーパーテストで「主体的・対話的で深い学び」は測れない。「主体的学び」も「対話的学び」も「深い学び」のどれも測れない。それでもペーパーテストを続けますか?と言いたくなる。ペーパーテストに固執する限り、上記学びの生起は放棄しているといってもいい。

必要とも思えない知識を短期間に脳内メモリに詰め込み、短期間で吐き出し、消失させることに重きを置き、それをくり返していけば、学校自体が見捨てられる。



こんなことをゼミ生と対話して考えることができた。対話的学びがここで生起されていると実感できる。

*1:暴論かな?

詩の授業デザインの作り方〜一つのメルヘン〜

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私の研究室の学生が、7月に連携校でとりあえず2時間授業をさせてもらえることになった。国語で2時間、教科書を使ってとなると、分野が絞られる。俳句、短歌、詩などの文字が少なめのものだろう。作文などの国語表現のようなものもできるかもしれないが、「教材の解釈→授業デザイン作成」という過程を経験してもらいたいので、詩を扱うことにした。

文学の授業は、「書かれていないことも読み取る」

国語科授業の目標は、シンプルにいうと、説明文の授業は、「書かれてあることを読み取る」、文学の授業は「書かれていないことも読み取る」ということを先輩に学んだ。文学の授業の目標の中に「も」が入っていることがミソである。

とかく文学作品を取り扱った授業では、「自由に読む」として、「そう読み取る必然性」を一切無視して、教材からどんどん離れていく授業をするものもあるし、書かれてあることしか読み取らせず、その他は用意した資料から読み取らせるような授業をしているものを多く見かける。

文学は個人的なもの

優れた文学作品の中には、それを読んだ人が、「この作品は自分のために書かれている」、「どうして作者は誰にも明かしていない自分の内面をこのように的確に書いているんだろう?」と思わせるものがある。「自分の物語だ」と感じるものだ。文学作品の読み取りにはそのような読み取りが許されているし、文学作品をそのように読めるようになることで、人生が豊かになる。それを養うことも国語科教育の役割だろう。

かといって、「荒唐無稽に思いついたとおりに文脈を無視して感じた印象を言い合う」ような場を設けても、国語科授業にはならないと思う。ある程度の方向性を示し、その流れで自由に読み取るようにしていくのが文学の国語科授業デザインである。

イメージとしてはスキーのジャンプだ。ジャンプ台の方向を南に作るのか、北に作るのか、ノーマルヒルなのか、ラージヒルなのか、ある程度ジャンプ台のデザインを作り、それを滑走した後のジャンプは、ジャンパーの自由だ*1。ジャンプの先が「個人の読み取り」ということになる*2

読み取りの裁量は読者の権利

定期テスト」が頭から離れない国語教師は、「そんな授業をして、テストはどうするんだ?」と考え、作家論を元にした空欄補充の授業をする。読み取りの裁量なんて全く認めない。そしてそういう授業を押しつけられ続けた学習者は、国語科授業において「文学は個人的なもの」なんていうことは思いも付かず、唯一の正解を求め、教師が何を答えさせようかということを探るように授業に臨む。

こんな雰囲気では「主体的・対話的で深い学び」なんて望むべくもない。

だから、学習者から今までの固定観念をとっぱらう必要がある。数時間でそれが可能だとは思えないので、根気よくくり返して行かなければならないだろう。

作品は誰のもの?

また、ネットを漁ると、これは中原中也の人生を描いたものだ、とか、死の世界だ、とか、いろいろ書いてあるのだが、どれを読んでも私にはピンと来ない。作家の生涯をこの詩に当てはめて読み取る方法もあることにはあるが、だからといってそれが唯一の解では無い。そんなことが全てだとしたら、作者が分からない作品はどうやって読み取ればいいのだ?

作品は発表された時点で作者のものではなくなり、読者のものになる、というのが私の解釈だ。「作者はこういう意図で作った」からどうだっていうのだ?そう読み取れなかったら、それまでだ。「教師が何を答えさせようとしているのか当て合戦」の授業をしている人は、作者の意図を当てる授業の方がしっくりくるのだろう。

具体表現→抽象化→具体的事例に当てはめる(文学の一つの授業デザイン)

個人的な読み取りをするということは、各人の個人的感覚、経験に当てはめてその作品を捉えられるかどうか、ということだ。それは訓練を必要とする。文学作品の表面的なストーリーを追うというのは、評論文の読み取りと同じで、言葉をある程度学んでいれば、自動でできる(というか、言葉を学ぶということは、そういうことだ)。

それは外国語を学んでいけば、ある程度簡単な物語のストーリーを追えるようになるということだ。

しかし、文学作品は、それだけではない。いわゆる「この表現の裏に隠されているものは?」を読み取れてこそ、その作品を理解できたということになる。そのためには「抽象化」できるかどうかが必要だ。

例えば、中原中也「一つのメルヘン」の構造を超単純に示すと、

第1、2連(起・承):固定されているもの
第3連(転):きっかけ(蝶)
第4連(結):流動する

と捉えることができる。「今まで動かなかったものが、何かのきっかけで動き出す」というものだ。授業ではまずこれをつかませることになる。これが「ジャンプ台」となる。
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各表現から超単純なストーリーを捉え(抽象化)、その後、個人の感覚、経験などにもとづいて、自分のストーリーに当てはめる(具体事例に当てはめる)という活動に繋げる。

この授業デザインの大枠を抑えておけば、ジャンプまでに導くジャンプ台をどう整備するか、学習者の現状に合わせて考えて行けば良い。

まとめの問い

抽象化されたストーリーを捉えれば、それをもとに細部を読み取っていくこともできる。「硅石」、「石」、「陽」など、それだけを読み取ろうとすると難しいが、抽象化されたストーリーに合わせて考えて行けば、何とか解釈ができてくる。

最後のまとめの問いとして

あなたにとっての「蝶」とはなんですか?

というもので十分だろう。この詩を捉えられた学習者は、抽象化されたストーリーに合わせて「蝶」を説明するだろうし、個人的な読みができた人は、自分の経験をもとに書けるだろうし、この問いの解答で、どう読み取れたのかを評価できる。

*1:ほとんどのジャンパーは遠くに飛ぶことを目指すのだが

*2:それに対して「評論文」の読み取りは、登山道に階段が付けられていて、そこを一歩一歩歩かせるイメージ