内田樹のブログで、そのような記事が書かれていた。内田樹は、「これってこういうことなんじゃないかな?」という超感覚的な思いつきを論理的に書いてくれるから「そうそう、そうだよね。」と頷けるものが多い。
記事の内容を簡単にいうと、言葉で表現することが先で、著者の「言いたいこと」は後から「発生」してくるというのだ。つまり、著者が言いたかったことは言葉での表現とは別のところにある可能性は大である。
「作者は何がいいたいのか?」というのはもっとも頻繁に提示される問いのかたちだが、私はこの問いにどんな意味があるのかいまだによくわからない。
私自身の書いたものは現代文の入試問題に多く採用されている。
問題用紙が送られてくるので、たまにそれを読む。
そして、「作者は何がいいたいのか?」という問いの前でそのつど立ちつくす。
いくつかの選択肢があり、そのほとんどは誤答なのであるが、にもかかわらず私は遅疑なく選択することができない。
「私はいったい何が言いたかったのか?」
改めて考えると、私にもよくわからないからである。
例えば、「著者が言いたいことを○字で表せ」という問いは、著者に対して失礼だ。著者は○字で表せないから(表したくないから)○字の何十倍もの字数を費やして書いているのであって、○字で表せるはずは無いからだ。
とは言っても、○字で表せるのに、こねくり回してだらだら書いている文章は教科書に多いのも事実だ。実際に○字で表せる。
ということで、教科書の「評論」は、悪文を選んで載せているということの証明でした(ホントか?)。悪文を選んで載せてもいいけれど、「悪文だ」と示さないと、子どもたちは教科書に載っている悪文のような文章を書くようになるよ。