Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

自分で分かるということ

山月記」を「グループ。よみ」させている。「グループ。よみ」は、数人のグループで、句点(。)が来たら次の人に交代する単元の導入時に私がおこなっているものだ。単に「。よみ」をグループでおこなうというそれだけのものである。

漢字の読みが分からない場合、まわりに教えてもらったり、みんなで国語辞典で調べたりしてなんとか読めるようにする。しかし、それでも分からない場合、質問してくれば私が黒板に書く。

そこでのやりとりを聞いていると、漢字の読みの確認というのは、非常に高い技能が必要なんだと思う。今まで自分(たち)でそれをしてこなかったのか、「辞書にないからわかりません」と言ってきた語で、辞書に載っているものがほとんどだ。

「江南尉」が出たとして、「尉」が「い」らしいと分かるのだが、不明確なとき、辞書を引いてそれが載っていれば「い」だと分かる。しかし、「江南尉」で辞書を引く。「江南」は地名だから辞書には載っていない。だから「尉」の読みの確認ができない。

つまり、語を分解して辞書を引くという技能(発想?)がまだできていないのだ。

「潔く」と出てきた場合、「いさぎよ」と漢字を読むのかな?というアタリはつくが、辞書には「潔く」では載っていない。終止形にして「潔い」としなければならない。終止形を見つけるという技能(発想?)がまだできないのだ。載っていないから確信を持って「いさぎよく」と読めない。「分からない」になってしまう。

まだまだいろんな技能が必要になってくるのだが、こう考えると、自分で漢字の読みを確認するというのは、難しいものだと言うことができる。言葉により、千差万別のやり方がある。そしてそのやり方はいちいち教えられてくるものではない。自分で何とかして身につけてきたものだ。(少なくとも私は教えられた覚えがない。もしくは教えてもらったこと自体を忘れたのか?)

今までそれら自分でしていなかった人は、いつまでたっても身につかない。しかし、一度身につけてしまうと、いとも簡単にできる。自転車運転のようなものだ。自転車の後ろにずーっと乗っけてもらっても、自分で自転車はこげないように、読みを辞書で確認する技能は、ハナっから漢字の読みを教師が提示した場合は絶対に身につかない。

時間はかかるが、こういう機会を持てなかった子どもには、大人になるまでにそういう機会を作る必要があると感じた。