Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

音読すること

音読することは曖昧さが許されない行為である。

日本語を黙読する場合では、音読できなくても、漢字によって意味が理解できることがほとんどで、私の場合読書している数%弱は読めない漢字があり、そのままにしている。そのままにしていても、何ら問題はない。そのうちその読めない漢字が何度か出てきて、たまにルビが振ってある。そこで読めるようになった漢字は多い。「躓く」なんてのがそうだ。

授業で音読をする場合、あいまいにはできない(はずだ)。読めなければ「読めない」と自分で分かるからだ。しかし「読めた」と自分で思う(または無理に勘違いする)場合もある。

熟語の場合多くが《音読み》+《音読み》なのだが、《訓読み》+《音読み》で読めたと思う子どもが多い。こういうことって、子どもたちはどこで身につけていくのだろうか?考えてみれば、《音読み》と《訓読み》の違いって、どうやってわかるんだろう?大抵は送り仮名があるかどうかで判別できるが、《音読み》+「する」なんていう場合、「する」が送り仮名かどうかなんて、なかなか判別できない。結局「慣れ」としか言いようがない。

と、いろいろ書いてきたが、音読するには、かなり高度な能力や技術があるということだ。しかもその技術は一朝一夕に修得できるものではない。しかしそれらを身につけていない子どもが多いので、授業で修得のきっかけを作るしかない。

昔から音読は大事だとは何となく思っていたが、だんだんその大事さが分かるようになってきた。(遅いか?)