Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

「かもしれない」に縛られる

これは自分が高校・大学と卒業できたから言えるのかもしれない。でも、なんだかこんな状況では子どもたちの息が詰まってしまうんじゃないかな?

高校を卒業しないと仕事に就いてからまわりからとやかく言われるかもしれない。しかし、高校を卒業したからといって、幸せになれる保証はない。

大学に入学しないと、いい職に就けないかもしれない。しかし、大学に入ったからといって、幸せになれる保証はない。

なんだか、社会は学校の卒業に強く縛られて物事を考えているんだな。「卒業したかしないか」がそんなに重要なことなのか?

一個人としての見方は「卒業したからといって立派な人間とは限らない。中身だよ、中身。」なんて思っているんだろうけれど、「かといってまわりはそう見ないよ。」なんてことを言う。自分以外は「まわり」ということなのか。自分と同じ考えの「まわり」は存在しないのか?本当は自分は「まわり」と同じ考えなのではないか?

本音と建て前というのは十分に分かるけれど、なんだか縛られすぎじゃないのかなぁ?高卒、高校中退で、幸せに暮らしている事例というのはほとんどないのだろうか?そんなはずはないと思うのだが。

逆に、大卒で幸せに暮らしていない事例はたくさんピックアップできる。しかし、その事例は無視される。これもなぜか?

あまりにも「大学進学」「大学進学」といっているのには嫌気が差している。「○○専門学校は頭髪・服装規定が厳しくて、落ちてしまったからこの大学に来ました。」という事例を大学職員が驚きを持って紹介していた記事を読んだ。今やそんな時代なのだ。しかし、「専門学校進学は進学じゃない」と言う人がゴロゴロ掃いて捨てるほどいる。

むむむむ。

みんなが幸せになるためには、人をけ落としての進学競争をしていては、不可能なんだけれどなぁ。