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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

マジカル・ガール 聖なる鹿殺し


立て続けに陰々滅々とする映画をDVDで視聴してしまった。観た後,結構ダメージが大きくぐったりした日々が何日か続いた。

「マジカル・ガール」は,娘が余命幾ばくもないと知った父親が,娘の憧れである「マジカル・ガール」のコスチュームをなんとか落札したいと思い,どんどん予想もできない展開になるという話。


「聖なる鹿殺し」は,父親がやってしまったミスの責任を被害者が求め,家族がどんどん窮地に追い込まれるという話。

どちらも,「分けが分からないけれど,すっごくいやな感じ」を受けた。いろんなところの辻褄を合わせようとするのだが,映画の中では説明されていない部分も多く,これは誰?どうしてこうなるの?ということが続き,いつか説明があるのかな?と我慢して観ていくと,回収されないまま「え?終わり?」と何の救いもなく終わる。

我慢できずネット検索して,「ネタバレ」を読んでしまう。そこにはいろいろ書かれてあり,「ああ,そうなのか。」と納得できる部分もあった。

しかし,それを読んで,果たしてこの映画の見方はこれでいいのか?と反省してしまった。映画監督のインタビューで,「わざと説明を省くことで,観ている人に想像してもらいたい。」という表現があった。

そうか,「分けが分からないこと」を「分けが分からないこと」として,そのまま受けとって,そのまま感じ続けてもらうことが監督の意図だったのか。

「意味を教えてもらうこと」というのは,「意味を自分で見つけていないこと」であり,映画自体をちゃんと観ていない,映画自体をちゃんと感じていないことなのかと反省した。意味は自分で見つけるものであり,教えてもらうことではない。教えてもらって辻褄が合って,納得するけれど,納得した時点で感じたことは薄らいでしまう。あのいやな感じは「種明かし」されることで,薄らいでしまう。それはその作品の「意図」とは違うものになるだろう。

国語教師をやっていると何でも意味を明らかにするような教え方をしてしまい,文学作品も,映画作品も,そのように「解説」してしまうが,本来の意味で文学作品を「味わう」ことには繋がらないのだと思った。

今後一切「意味を教えてもらう」ことはしないと誓う。