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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

十日町高校時代


平成6(1994)年度〜8(1997)年度まで,十日町高校に勤務した。十日町市に転居したのだが,アパート住民とのトラブルで半年も経たないうちに六日町に出戻った。その当時も賃貸アパート事情はそれほどよく無く,十日町市内でも見つからず,結局六日町で一番初めに下宿した大家さんの家の隣にある一軒家を借りることになった。1人で3部屋+ダイニングキッチンのある一軒家である。独身だったからできたことかもしれない。しかし,住民トラブルのことを今から考えると,もうちょっと上手く対処することもできたと思うが,当時はやっぱり,「自分が正しい」と思い込んだら,「上手くやること」を考えず,意見を押しつけて対立していたような気がする。そういうことは学校での指導でも現れていた。

相変わらず部活動至上主義は持っていて,1年目はソフトテニス部に配属されたが,2年目は希望してテニス部に異動した。一応実績があったから希望が通ったのだとは思うが,うまく付き合ってくれた部員もいれば,そうではない部員もいた。部活動を引退してから,「いろんな部員の気持ちも考えてほしい」と言われたこともあった。上手く付き合ってくれた部員からのアドバイスだった。こっちの思い込みからの押しつけがまだまだ続いていたことが今となっては分かる。

クラス経営はどうだったのかというと,完全にまだ手探りで,私の指導方針がそのような「おしつけ」だったので,反発する生徒もいたし,受け入れて指示してくれる生徒もいた。完全に2極化していたような気もする。「アクが強かった」ということなんだろう。

学校を取り巻く雰囲気は,まだまだ寛容な時代で,教員集団も,それほどピリピリしていなかった。年に1回1泊2日の職員旅行はあったし,テスト期間中や放課後,スポーツ大会をやっていた。一度テスト期間中に体育館でグラウンドホッケーを習ったことがあった。ホッケーはあれ以来していないが,とても楽しかった。

そんなおっとりした時代だったが,「日の丸君が代問題」の渦中だった。なんだかんだあり,式の時に日の丸をステージ背面に貼り,君が代斉唱を管理職が強行するということが各地でおこなわれてきた時代だった。

大学進学希望者が多い高校だったが,何が何でも大学進学させなければ,という雰囲気もそれほどなかった。クラスで,あまり成績の良くない生徒の保護者と面談していたとき,こちらからの話としては,「もっと勉強時間を多くして,成績を良くして……」という内容ばかりを伝えていたと思うのだが,その子の母親からは「うちの子は,優しくて,小さい子の面倒をよく見てくれて,私はそれでいいと思うんです。」と言われたときに,はっと分かった。

人間として立派なのは,他のことなんか目もくれず,勉強だけに没頭して,成績を上げる人よりも,自分の家族のことを気づかって,他者に優しい人の方だ,と。

今まで自分は子どもをどういう大人に育てようとしていたのか?きっと「自分のように」勉強をして,大学に入って,定職について……という「周りの人の気持ちに気づかない,自分のことばかりを考えている大人」を作ろうとしていたのかもしれない。そんなことよりも身近な周りの人に対して自分の時間を割ける人間の方が立派なんだとわかった。

わかったと言っても,それを実行できているのかというと,それはまた別の話で,30年近くそんな風に生きていて,身についたものは簡単にははがれない。はがれないが,はがそうと意識をするようになったとは思う。

十日町高校時代の教え子に会うと,必ず言われるのは,「先生の『こころ』の授業だけは覚えています。」ということだ。国語の授業はかなり勝手にやらせてもらったので,「こころ」の授業で20時間ぐらい使っていたのだ。「読み研方式」を覚え,物語の授業は,これだ!と没頭し,自分で読み研方式「こころ」をアレンジし,プリントを用意し,がっつりやった気がする。

今から考えると,これもハマる生徒にはハマるが,そうではない生徒には飽き飽きした授業だったんだろうと思う。それでも,私の授業を10年以上経っても覚えていてくれるというのは,教師冥利に尽きるものだ。

六日町高校時代の「大学受験問題演習型授業」から,「言葉の機能着目型」で,物語を読み取る授業にちょっとずつシフトしてきたんだと思う。民間の研究会に出席するようになったのもこの頃からだ。

3年で転勤することになった。1年から勤めていた担任は,卒業を待たず,2年生で他の先生にバトンタッチすることになった。それはとても残念だったが,同僚と結婚することになったのだから,しかたがないことだ。