Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

新潟中央高校時代

平成13(2011)年度〜平成27(2015)年度は,新潟中央高校に勤務した。転勤したての即担任,高校では,ほぼあり得ないことなんだけれど,新潟中央高校は,そういうことがあると昔から聞いていたので,覚悟はしていたし,結果,担任を持ててよかったと思う。

赴任した年の3月11日に東日本大震災が起こった。ちょうど前任校での合格発表の年だった。甚大な被害が襲い,その夜寝て,目覚めたときには「夢であってほしい」と思った。今後の私の人生はこの被害から復興するために教育をおこなおうと決意した。今もその決意は存続しているか?

赴任してから3カ月は休みがなかった。部活動,補習など新任者にあてがわれ,部活動顧問全員が新任者であり,なぜか県大会の主幹校でもあった。大学進学至上主義が一部管理職と主幹教師に浸透しており,私の授業への締めつけ,圧力,批判などがあり,こんな状態で仕事をし続けていたら,鬱になっていくんだろうなと本気で思うようになった。

自転車通勤をするようになったり,激務からか,1カ月2㎏体重が減っていった。このままでは自分の体がなくなるのでは?と思ったが,人間とはよくできているもので,ある程度で踏みとどまった。

救われたのは生徒たちがとても気心のいい人たちだったということ。こちらの指示に的確に反応してくれて,ダメなものはダメと言ってくれ,担任を持ったからこそ,こういう関係を築けたのだと思った。

大学進学至上主義は,きっともっと前からあったのだろうけれど,渦中にいきなり放り込まれたこともあり,対応ができなかった。というか,異常に反発してしまった。学校5日制の補填としておこなわれる土曜講習,退職間際とったアンケートの中では最も生徒に「効果がない」と回答されたものだった。たまの土曜に午前中,問題演習をするだけ。「5日制に対応していますよ。」とのアリバイ作りをしているだけ。「土曜講習に出ない人は大学進学を希望しない人だ。」との半脅し文句で講習に参加させていた。そして効果を実感させていない。結果にコミットしていないのだ。現在はそれらの反省で,問題演習だけではなく,進路講演会やワークショップなど,いろんな活動をしていると聞く。あの時は過渡期だったんだろうと思う。

国語科主任が漢字ばかり配られたプリントを学年全員分刷って配布せよという。なんだと思ったら,センター試験の漢文の問題で問われやすい漢字だという。そんなのを時間をかけて覚えて,1,2点上がったからといって,何になるんだろう?と思う。しかしその国語科主任は「その1,2点が大切なんだ,1,2点で合否が決まる」と本気で思っていたらしい。そんなことよりも,将来のことを語るとか,大学生活の面白さを語るとか,そっちの方が有効なんじゃないだろうか?「目の前の1,2点を取る=将来が約束される」という短絡的な思考回路が教育界に蔓延していた時代だったのかもしれない。

内田樹先生は次のようにいう

僕が大学に在職していた終わりの頃には「質保証」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」というような製造業の言葉づかいがふつうに教育活動について言われるようになりました。缶詰を作るようなつもりで教育活動が行われている。だから、規格を厳守する、効率を高める、トップダウン・マネジメントを徹底させるというようなことが1990年代から当たり前のように行われるようになりました。
 この転換によって、「子どもたちのどのような潜在可能性が、いつ、どういうかたちで開花するかは予見不能である」という農作業においては「当たり前」だったことが「非常識」になりました。「どんな結果が出るか分からないので、暖かい目で子どもたちの成長を見守る」という教師は「工程管理ができていない」無能な教師だということになった。それよりも、早い段階で、どの種子からどんな果実が得られるかを的確に予見することが教師の仕事になった。「何が生まれるかわからない種子」や「収量が少なそうな種子」や「弱い種子」は「バグ」としてはじかれる。品質と収量が予見可能な種子にだけ水と肥料をやる。例の「選択と集中」です。

『善く死ぬための身体論』のまえがき 2019-04-15 lundi

学校教育が子どもの成長を「待てなく」なった時代なのだと思う。卒業時に「目に見える結果」を出せなければ,失敗とみなされる。失敗かどうかは本人が決めることなのに。卒業後,数年経って「新潟中央高校に通ってよかった」と思ってくれているかどうか。そこが問題なのだが,「国公立大学に○人進学したから成功だ(失敗だ)」と本気で思っている「製造者」が教育現場にはたくさんいる。

そんな職場でも,同志はたくさんおり,志を同じくして(傷をなめ合いながら)働けたので,何とかやっていけた(「同志」の別名「被害者の会」)。また,その時のことをネタに本を1冊書けたので,今となってはいい経験だとも思う。また,何度も言うけれど,生徒たちがとても心意気のいい子たちばかりで,もちろん反発をしてくる人もいたけれど,きちんと「正式に」反発をしてくるし,私のことを「同志」と呼んでくれる人もいたりして,生徒たちに救われたところもあった。

5年目に大学教員募集の話があって,応募したわけなのだが,「このままでは自分が自分でいられなくなるかもしれない。」と思ったことも応募の要因だったのかもしれない。工業製品を作るのではなく,人間が成長する手助けをする仕事に関わる人を育てていきたいと思ったのだった。

こんな感じで自分の高校教師時代を書くことで,平成を振り返ってみた。なんとか平成のうちに書き終えた。