Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

美術館に次男と行く


中3の次男と新潟市立美術館に行った。天気もいいし,次男は珍しく部活動も塾もない日曜日だったので,どこかに出かけようと思ったのだが,手頃なイベントもないし,結局家から片道40分を歩いて,新潟市美術館に行った。

インポッシブル・アーキテクチャーということで,建てられなかった建築物の企画展があった。コンペに落ちたとか,予算が足りなかったとか,空想上の建築物とか,いろんな理由で実現しなかった(していない)建築物の設計図や模型が展示されている。新国立競技場のぽしゃった計画の模型もあった。

次男はそれほど興味を示していなかった。常設展は絵ばかりなのだったが,あんまりじっくり観ないで椅子に座っていた。

普通の中学生だから,美術館の絵をじっくり見入ることもないのはわかっている。しかし,中学時代に美術館に入って絵を見たことがあるという経験には意味があるのかな?と思った。私なんて中学時代に「館」と名の付いたものには,「水族館」くらいしか入ったことがなかったかもしれない。

新潟市立美術館は中学生以下は無料だ。その無料の意味は,「そういう経験をしておく」ということなんだろうなと思った。中学時代にわからななくても,絵を見た経験が,きっと大人になって,「美術館に行こう」という気を起こしてくれるだろう,という意味だ。それは「きっと中学生には分からないだろう」と思われる古典芸能を学校の芸術館紹介で見せたりすることにも通じるところがある。私にとって,能,狂言などは,50歳くらいになって,なんとなくその良さが分かってきた。

最近は何でも「すぐに言語化したり,数値化できるものがよいものだ。」という風潮がある。何でもかんでも「説明」できなければ,予算が削られる,世に認められないものとなっている。説明しても相手が納得できなければ「価値のないもの」とされる風潮がある。これって恐いことで,説明できない,納得させられないものは存在しなくてもいいということだ。

「ずっと後になって価値が分かる」というものが生まれてこないことになる。日本の古典文学なんて,そんな危機に陥っているのかもしれない。しかし,若い人に古典文学を「強制的にでも」学ばせる意味はある。それを学んだことで,学んだ後30年後に意味が分かるなんていうことはざらにあるということを,世の即時的利益優先主義者には分かってほしいというか,その人たちには分からないんだろうな,と思った。

家路への40分間,行きと同じように次男といろんな話をした。自分が死んだら,こういう風に葬ってね,なんて,美術館帰りだから話せたのかもしれない。次男は,自分はこういうのがいいな,なんて返してきた。不思議な会話になった。「5,000兆円手に入ったら,水上都市を造ろう」と次男が話題にしてきた。美術館であの展示を見なかったら,そんな話題は出なかったのは確実だ。