Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

これからの道徳教育


今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」では,道徳を扱った。学習指導要領解説で「道徳科の目標」を読んだのだが,よくわからない点,腑に落ちない点が満載だった。

内容を捉える「四つの視点」として「D 主として生命や自然,崇高なものとの関わりにかんすること」の「崇高」に引っかかってしまった。「崇高」って,何が崇高なんだろうというところと,「これは崇高なもの」と権力者が決めていいのだろうか?

もちろん,私は自然に対して畏敬の念を抱いているし,崇高だと感じている。また,人間の力を超えた何かがあるのではないか?と薄ぼんやりと信じている。「怪異」はいる(少なくとも人間の心の中には)と信じている。きっと学習指導要領では,自然を「崇高」と捉えているのだろうけれど,それだけではない。

もしかしたら,ある特定の人を「崇高」と判断させる余地を残しているのではないか?と危惧してしまう。崇高かどうかは権威者に決められたくない。個人的に思うもの,信じるもの,感じるものだ。それが引っかかったというか,気に食わないところだった。


学習指導要領や解説には「道徳的見方・考え方」という表現はない。「多面的・多角的見方や考え方」という表現がある。それが道徳で身に付けるべき「見方・考え方」なのだろうと読み取った。「多面的・多角的」が頻繁に出現しているにもかかわらず,引っかかった部分があった。

四つの視点の「B 主として人との関わりに関すること」の[友情,信頼]で,「異性についての理解を求め」と書いてある。理解を深めるのは異性だけなのか?その前の表記には「友情の尊さ」とあるから,「異性」はきっと「恋愛対象としての異性」という踏まえるのだろうと推測される。

同性に対して恋愛感情を抱いた場合の配慮のカケラがない。「多面的・多角的」に反するのではないか?LGBTへの配慮をしていないというのは,それに反対する権力者への忖度なのか?そこまで書くと文句が来るのだろうか?だったら,「異性」なんて語は排除すればいいだけのことだ。

手元にこの指導要領に基づけた教科書がなかったため,旧指導要領に基づいた中学校教科をめくると,「異性に好意を抱くのは普通のことです」という文言が現れる。これを見て,「自分は異性に対して好意を抱かず,同性に対して好意を抱いているから普通じゃないのか。」と感じる生徒はいるはずだ。

同じように,「友達」にも,「友達がいて当たり前」,「友達はいた方がいい」というバイアスが感じられる。「本当の友達」とか,「親友」という学校で押しつけられる定義に苦しめられる子どもは多い。そんなの,自分で決めることじゃないし,誰からも決められることじゃない。自分で友達なのか,知人なのか,親友なのか,本当の友達なのか,線引きなんかできないし,分けのわからないまま付き合って,そのまま大人になっていく。「親友」と思っていたが,成長して全くの疎遠になってしまう人もいる。「親友だね」と互いに確認し合っていることもある。こんなの「トモダチ幻想」だ。

「みんな仲良く」という標語(名言化されていたり,不文律であったり)に苦しめられている。そんなのやめて,「いろんな付き合い方があるけれど,なるべく折り合いを付けてやっていこう」という方が道徳教育の目標であるべきだ。

最後にAIのことを持ち出した。AIに道徳教育を施すことはできるのか?AIに対する道徳的な接し方は何なのか?

というのも,人工知能学会の倫理指針の最終項以下の記述がある。
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9 (人工知能への倫理遵守の要請)人工知能が社会の構成員またはそれに準じるものとなるためには,上に定めた人工知能学会員と同等に倫理指針を遵守できなければならない。
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とっても恐い。人工知能に人格を認める記述であるし,何もしなければ遵守できないと思われるから,規定が設けられている。

遵守するためには道徳が必要なのではないか?ということは,行く末は人工知能にも道徳観が備わるということなんだろうか?知能だけではなく知性も持つようになるのか?

こういう時代の道徳教育,人間以外で人格をもつものに対する道徳的振る舞いまたは,人間以外で人格を持つものからへの道徳的振る舞いについて考えなければならないことは,未来の道徳教育に課せられている。