Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

セデック・バレ


GYAOで、15日まで無料だったので、前後編2本立てを2週に分けて観た。数年前に新潟市のシネウインドで公開されていたのだが、見逃してしまった。今回無料で視聴できたのでラッキーだった。

日清戦争後、日本が台湾を併合したのだが、山中に住むセデック族が抗日運動をくり返した姿を描いている。

セデック族は、同族同士で「神聖な狩り場」を自分たちの部族のものにしようと争う。相手の部族の戦士の首を狩ることで、一人前と認められ、大人になる。そうなると、死んだら虹の橋を渡り、あの世で敵対した部族と仲良く暮らせるという言い伝えがある。

こういう考えを持っているから、自分の狩り場が日本軍に荒らされることを毛嫌いするし、命をかけて守ろうとする。そしてそのためになら相手の首を狩ることを厭うことは無い。

最大の抗日暴動として「霧社事件」がある。日本人の子どもたちの運動会として霧社という地に日本人がほとんど集まるのだが、セデック族が連携して計画的に妊婦以外の日本人を皆殺しにするのだ。

映画はとても壮絶なものだった。R+15指定だ。日本のしたこと、セデック族のしたこと、それぞれの立場からの見方で、どのようにも判断できる。しかし私はこの映画を見て、「信じているもの」について考えさせられた。

今の日本人の見方として、当時のセデック族の考え方、「狩り場を守るためなら、他の部族の人間を殺してもしょうがない。むしろ、殺すことで英雄となり、英雄となったら死んだ後しあわせになれる。」というものは、信じられないことだろう。そんなことをしなくても狩り場を共有することは可能だし、殺人をしない方法だってあるはずだ。と、考えるのが一般的だ。

しかし、セデック族はそんなことを言われても、信じているものが違うんだから、考えを改めることは絶対無い。

当時の日本人が考えていたことは、領土を拡張することがいいことだし、占領した住民の人権は無視していいと考えていたし、日本人の命とセデック族の命の価値に差があると考えていた。そう信じていたのだから、それを咎められたとしても、考えを改めることは絶対無い。

これらの考えは、時代が変わると変化している。当時は「絶対的な真理だ」とみんなが思っていたことで、それを信じて行動していたのだが、50年も経つと、徐々に変化している。特に日本人が信じていることは。

今の日本人の見方はどうだろう?2番より1番の方がいいと思っているし、大学進学した方がいいと思っているし、国立大学に多く進学した子どもがいる高校の方が優れた教育力を持っている高校だと思っている(人が高校教師に多い)。

こんな考え、50年前には無かったことだ。だから50年後には、いや、今の世だったら20年後にも無くなってしまう考えじゃ無いかと思われる。

管理職が偏差値を上げるためだったら、高校では人間関係を学ばなくてもいいと、豪語する。担任が、国立大学を目指さないんだったら、もう進路指導をする必要がないと言う。こういう高校教師が当たり前のようにいる教育界って、本当に子どもの成長を促す場なんだろうか?

子どもが人間関係を学べず、むしろ、人間関係を疎遠にさせたり、大人から不必要な圧迫、プレッシャーを受ける場と高校現場がなっているところが多い。そんな高校だったら、通わせない方がよっぽどいい。

大学進学者数が、本当に出世に関わっているのかどうなのか、不確定なのだが、自分の地位のため、自分のプライドのために、学歴幻想を引き合いに出して子どもたちを傷つける。早くこの幻想から目覚めさせなければならない。