Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

教育に関わる仕事


極端な話をする。

教育に関わる仕事は、特に学校教育に関わる仕事の場合、ある程度の裁量が教員にある。もちろん、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学などで裁量の差はある。もうちょっと俗な言い方をすれば、「熱意」のかけ方の差と言った方が分かりやすいかもしれない。

管理職に言われた最低限のことをこなしていれば、失職することはない。いや、公立学校の場合、最低限のことをしていなくても、いや、周りの職員に大きな負担をかけていても、失職しない、私よりも教員経験の長い教員を目の当たりにしたことがあった。

職務をこなしていて、上手く行かなくても、児童、生徒、学生に原因があるとして、自身の改善を一際しようとしない、したくても手立てを見つけようとしない教員も世にはたくさんいる。具体的には、授業でクラスの半分以上が参加せず、睡眠をしていても、起こそうとしない、睡眠しない授業を作ろうという気持ちも持たない教員だ。

子どもたちの大半が授業中参加していなかったり、寝ていたとして、それを放置していたとしても失職することはない。その教員は「授業は」しているのだから、職場放棄ではない。給料も減らない。

逆に「熱意」をかけて、児童生徒理解に努め、授業改善をし、寝ている児童、生徒を起こし、学習者の学びを考え、成長を考えて絶えず自分の裁量の範囲内で改善を図ろうとする教員もいる。改善を図ろうと努力しても、給料には反映されない。

ともすると管理職の方針に逆らうこともある。管理職の意図と、学習者の本当の成長が相反することはいくらでもある。人権無視の進路指導なんて、そこら中の学校で行われている(行っている教員はあまたいる)。しかし、それに対抗して、学習者の本当の成長を願った管理職の意図に反した指導をしたとしても、失職することはほとんどない。少なくとも公立学校では。

結局何がいいたいのかというと、どっちの方向に沿った仕事をしたとしても、給料は変わらず、仕事もなくさない。それでは、何もしない教員が得なのか、何かしている教員が得なのか、それを判断するのは誰でもなく、本人である。何もせず、目の前の惨状に諦める人生を送るか、結果が出なくても獅子奮迅して、ほんのたまにある成果に少しのやりがいを感じる人生を送るのか、どちらでも選べる。

教育は結果がずいぶんと先に出る。目先のものは教育の結果とは言えない。○○高校、○○大学に入ったから、よい結果だと誰が言いきれるだろうか?そう言いきっている人間は教育者とは言えない。言いたくもない。ずいぶんと先に出るから、結果を待っていられないと思ったりもするが、ずいぶん先の結果を予測して目の前の仕事に当たれば、「諦める人生」は選べないはずだと思っている。