Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

教科の魅力を伝えるということ


今や、「教科書に載っているから」とか、「テストに出るから」とか、「入試に出るから」とか、「みんながやっているから」とか、そういうことでその教科(主に普通教科)の学習に児童・生徒が取り組む時代は終わっている気がする。

子どもたちも保護者も学校への「幻想」が崩壊し、「そんなこと何の役に立つの?」とかどんどん言い出すようになった。学校の教育活動を当たり前のように疑問視するようになった。明らかに役に立つ活動はいいが、役に立ち方があまり見えないもの、また、明らかに学校の都合で押しつけている(例:ブラック校則)ものに対して、「おかしい!」と言うようになってきた。

それが授業中の無気力、学級崩壊、教師への反抗という形で現れている。

とはいえ、学校教育は明らかに「役に立つ」と思われるものばかりで占められるべきだとは思ってはいない。情緒面に影響する教育活動もたくさんある。例えば、音楽や美術、書道などの芸術科目は、それで食べていけるようになる人はほんの一握りだ。だから、「その教科を履修する必要はない」、なんていう人はあまりいない。数学や国語に対してはそういう人が多いのに、どうして芸術科目に対してそういう人は他教科に比して少ないのだろう?

それは「面白い」からだ。「面白い」という中に、活動による「楽しさ」も含まれる。快感があるということである。それを感じたことがあるから、児童・生徒はともかく、教育関係者、保護者から芸術科目廃止の声が上がらない。なんとなく必要だと思っている。活動している当の子どもたちはそう感じていない場合も多いが。

話を元に戻して、今までのように「教科書に載っているから」、「テストに出るから」……という理由で普通教科教育に取り組ませられない時代に、中学、高校(特に義務教育ではない高校では)の教科の授業を成り立たせるためには、

  • その教科内容が今役に立つ
  • その教科内容が社会に出て確実に役に立つ
  • その教科内容が「面白い」

ということを児童・生徒に実感さ(思い込ま)せなければならない。これが教科担任の仕事になる。

ここで問題が生じる。その教科の先生になったということは、その教科内容が得意、もしくは好きでその教科の先生になった場合が多い。かくいう私も取り立て国語の成績が高かったというわけではない。むしろ理科の方が点数が高かった(特に理科Ⅰ)。でも、古典が好きだったから大学はそっちの方に進んだ。

じゃあ、高校教師時代、児童・生徒に古典の魅力を伝えてられていたかというと、そうでもなかったような気がする。教師としては、好きだから、みんな好きになって当然でしょ?好きなものを説明して伝えるというのはとても難しい。これがいけない。

教科担任のその教科への思いと、その授業を受ける児童・生徒の思いのギャップが激しいのだ。

魅力を伝えるためには、その魅力を説明したり、語らなければ絶対に伝わらない。それさえもしないで、「プリントに問題があります、それを解くのは当然でしょ?」みたいな感じで課題を出しても、児童・生徒は取り組まない。子どもたちにとって必要感も魅力も感じないからだ。

そこで、教科担任はまずその魅力(必要性、面白さ)を伝える努力をしなければならない。授業はそれからだ。人がそれに魅力を感じ、その魅力を語っている姿というのは、聞いていてとても引きつけられる。それさえもしない教科担任が多すぎる。少なくとも中学、高校の教科の先生は、自分が担当している教科の魅力を語れるぐらいにその教科やその単元を研究しなければならない。それこそが「教材研究」だ。

児童・生徒が普通教科に取り組んで当たり前という時代は終わっているんだから。


","rx178gmk2�w一枚のプリントに取り組ませることが「作業」になるか、「学び」になるか。<br>そこが教科担任の「腹」の持ちようですね。そのプリントがどのような価値があるのかを語り、子どもに理解してもらうことが腕の見せ所です。そうした意識が教員にあるかがこれからの学校の有り様を決めていくのだと思います。特に教科の時間は。�x
F-Katagiri�w同じ課題が作業か学びか、これこそ教師の「語り」によるものですが、教科内容に関する「語り」がなされないのが気になります。�x