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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

群読が表現できるもの


「群読」活動を高校国語教師時代から始め、もう20年ほど続けている。国語の授業で、手軽に「表現活動」ができないかと思っていたときに出会ったのが「群読」であった。声を合わせて出すだけで表現活動ができる。これは、スピーチや、作文や、ディベートとは大きく違うところだ。脚本が既に作られていて、それを声で表現するという活動から、脚本を作成して演じるという活動まである。

導入した当時は、「手軽に表現できる」ということだったので、生徒によっては、「こんな小学生の発表会みたいなもの、幼稚すぎる」と言ってきた人もいた。しかし、この活動に長年携わってくると、その奥深さがわかってくる。

「群読」という音声言語表現活動が表現できるものは、その文章表現(主に)の理解、解釈を脚本に反映させたもの、つまり、その対象から受けとって、それを解釈して脚本に反映したものである。悲しい内容だったら小さな声で、少数人数が発声し、にぎやかな内容だったら大人数が大きな声で発声する。

よく国語の授業でおこなわれるのは、この文学作品を解釈し、登場人物の気持ちなどに合わせて脚本を作り、どのように読むのがよいか考えさせるという指導だ。そして、その脚本作成の意図も表現させ、群読も演じさせる。群読の授業としては、スタンダードなものだろう。

つまり、脚本づくりにおける「解釈反映タイプ*1」ということだ。

対象の読み取り→解釈(言語化)→脚本化→意図の説明(言語化)→群読表現

しかし、群読というのはそれだけではない。音で表現される以上、音の調和、不調和の導入、音の響きの調整、「なんとなく、こっちの方が合っている」ということで、脚本を作ることがある。

つまり、「(音声)表現反映タイプ」だ。

対象の雰囲気→心で感じとる→脚本化(主に注意書きで表現される 例:「ざわざわするように」とか、「無声音で」とか)→群読表現


「こっちの方が演じていて気持ちいい。」ということで脚本を修正することがある。音声言語表現なのだから、「演じて気持ちいい≒聞いてきて気持ちいい」ということを意識しなければならない。文字言語で表すことができない部分をこれらで表すことができる。ここが群読の優れている部分である。

「解釈反映」と「表現反映」のどちらのレベルが上かということは全くない。むしろ、どちらかを上と見るような人は、群読の何たるかをわかっていないといえる。「解釈反映」だけで群読を作っていこうという人は、「音声言語表現活動」や、群読は「相手に伝える表現活動」だということをわかっていないと言える。

特に、「言語で全てのことを表現できるはず」と思っている国語教師(私も以前そうだったのだが)には、群読活動は理解できない活動なんだと思う。世の中に、優れた「音を楽しむ群読」*2
があるのを知らないのだろうか?音楽に置きかえてみれば、メッセージ性の強い「フォークソング」ばかりが優れた音楽ではなく、音の調和や響きをのみ楽しむ優れた音楽があふれている。

世の中のことや、人間の心の中のものというのは、全てを言語で表現できるはずが無い。その表現できない、「説明」できない、「ニュアンス」というものを文字言語よりも少しばかり表現できる活動が「群読」なのである。

何でもかんでも説明ばかり求めていると、子どもの「感性」が萎縮してしまう。

*1:「群読脚本に反映される学習者の意図の研究」片桐史裕,他 上越教育大学教職大学院研究紀要 16 51-60 2019年2月

*2:例:「祭り囃子」