Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

動かなければ始まらない

f:id:F-Katagiri:20200106091408j:plain
教育現場は保守的と言われる。保守であることも大切と言えば大切なのだが、何の検証もなく前年踏襲をおこなっているものもたくさんある。学術的に効果がない場合があるという学習活動も、「自分が子どもの頃はそれをやっていたら」という理由で、おこなわれる。

さて、新テストで記述式が見送られた。一家言があるものが、「採点に公平性が保てない」とか、「読解力を簡単な記述で測れるはずがない」とか言って、見送り賛成の言を述べているが、果たして完全に公平な入試なんてあるのだろうか?たまたま試験の直前に見た問題がセンター試験に出た人と、たまたまセンター試験に出た問題以外の問題は全て理解している人と、どちらが能力があるのかというと、後者であるのは間違いない。そう、入試を含めて世の中のテスト(特にペーパーテスト)なんて言うものは全て結果は「運」任せの部分があることは否定できない。

マークシート式だったら完全公平なテストだと思い込んでいる人もいる。採点ミスはかなりの割合で減らせることができる。採点ミスは減らせることができるが、「読解力」なんて、マークシート式で測れるはずがない。書かれた文章を読み取り、その「答え」を誰かが用意した文章から選ぶテストである。つまり、誰かが用意したものを選ぶことが「読解力」というのだろうか?読解力とは、誰かから与えられていない、漠然と目の前にある情報から、自分で取捨選択して、その意味を見つけることなのではないのか?

読解力を簡単な記述で測れるはずがないといっている人がいる。そもそも選択式の解答で読解力を測れるはずがない。

だから、記述式が採用されることを、今までのテストへの思い込み(偏見)から解放させられる第一歩だと思って私は喜んだ。しかし、その「偏見」から脱することができず、結局「今まで通り」となった。トップの「身の丈発言」もバッシングの契機になったことは否めない。及び腰になってしまった。何事も今までの不具合を打ち破るには動き出さなければ始まらないのだ。

完全公平なテストをするのだったら、「くじ」にしちゃえばいいのだと思う。運を天にまかせて恨みっこ無しで入りたい大学には「くじ」で合否を決定する。そのためには受験生はその大学が自分に合っているのか、やりたいことができるのか、自分の将来に必要な力を付けられるのか、自分の力でその大学を卒業できるのか、考えて出願する。

大学側は、必要な力を付けられない学生は、どんどん留年させる。そのためには教員は学生1人1人をしっかり見て、評価していなければならない。入り口のみ「入学試験」というフィルターでふるいにかけ、それを通ってきたらなんでもOKとする教員は変革が迫られる。ろくに勉強しない学生ばかりになったら、教育の質の保証にかかわるからだ。

自然、大学は学問をしたい人が行くところで、手に職を付けたい人は専門学校に行くという棲み分けがなされることを期待するのだが、つぶれる大学はたくさん生まれるだろうなぁ。