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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

外国語の見方・考え方とは?

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外国語の「見方・考え方」

今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」では、「外国語」を扱った。「外国語」といっても、我々のイメージでは「英語」しか思い浮かばない。

高等学校学習指導要領解説には、

外国語によるコミュ ニケーションの中で,どのような視点で物事を捉え,どのような考え方で思考していくのかという,物事を捉える視点や考え方であり,「外国語で表現し伝え合うため,外国語や その背景にある文化を,社会や世界,他者との関わりに着目して捉え,コミュニケーショ ンを行う目的や場面,状況等に応じて,情報を整理しながら考えなどを形成し,再構築すること」であると考えられる。

とあるのだが、全くわからない。イメージが湧かない。新しい学習指導要領には「コミュニケーション」ということが前面に押し出されており、今までのものとは方針が変わっている。今までは「読み・書き」ばかりで、中学校から何年も英語を授業で学んでも、英語を喋れるようにならないという反省のもと改定されたのだと思われる。

「見方・考え方」は、解説の文章の「外国語」を「日本語」に変えたとしても、成り立つものだから、「外国語」を学ばなくても「どのような視点で物事を捉え」、「どのような考え方で思考していく」「文化を、社会や世界、他者との関わりに着目手捉え」「情報を整理して」の部分は、できる。

国語科でやりにくい唯一の部分は「再構築」のところなのかもしれない、という話に移行した。

そもそも英語を学ぶ必要性はあるのか?

「外国語」とはいっても、ほとんどの学校で扱われているのだから、「英語」と表記していく。

どうして「英語」なのか?ということだが、なんだかんだいっても結局は占領されたからだ。過去、植民地に対して母国語を使うことを禁止し、占領した国の言葉を使わせたという歴史は多々ある。植民地の文化を根絶やしにして、占領国の文化を浸透させ、占領国の言いなり、産業の消費地にするために、占領国の言葉を使わせるのは都合が良い。

幸い、アメリカはそのようなことはしなかったし、英語は過去の歴史(イングランドの各国の植民地化)により、多くの地域で使われるようになったので、「世界共通語」として「便利」な語となって、英語を学習すると「お得」だよという思われているが、これはたまたまアメリカに占領されたからである。

英語を学ぶ必要性に関しては、現在日本のほとんどの地で英語を学ばないと食いっぱぐれるという状態は起こっていない。日本の英語教育では「いつか役に立つかもしれないから」と言いくるめられて英語授業がおこなわれているが、その「いつか」は来ない。少なくとも私には来なかった。これからを生きていく若者には来るのかもしれないが、その時は日本の経済状態は悪くなり、人口が減り、移民を受け入れている状態なのかもしれない。そうなったら、英語よりも中国語を学んでいた方が食いっぱぐれが避けられるかもしれない。

英語を喋れるようになって、「世界」で活躍できる人材を育てる必要がある、と、まことしやかに言われてもいるが、そんなの全員じゃないし、その必要がある人だけ英語を学べばいいはず。じゃあ、外国語は選択科目にしたらいいのでは?と思う。「世界」で活躍をしたい人は英語を学び、日本文化を更に深く学びたい人は、中国語や韓国語を学べばよい。大学ではそうなっているが。

スマホ翻訳でいいのでは?

あと数年できっとAI自動翻訳機能がスマホにつく。これでいいのではないか?という話にもなった。学習指導要領が「コミュニケーション」を前面に押し出しているのだから、コミュニケーションを取るために、スマホがあればよい。自分の肉体が英語を発さなくても、スマホが発してくれるのだから、コミュニケーションを取ることができる。約7年前、高校教師だったとき、チェコから留学生が来た。授業によっては図書館で自習をしていた。その様子を見にいく当番となり、私はiPhoneを片手にコミュニケーションをはかった。チェコ語の翻訳機能を使ったのだ。

iPhoneがあったから、コミュニケーションを取ろうという気になった。私の英語能力だけだったら、英語で話しかけようとは思わなかっただろう。そもそも英語に関してはかなりの劣等意識がある。劣等意識があるものを使おうと思わない。そう、私は中学校からの英語教育で「自分は英語が喋れない」という自己評価を得たのだ。

コミュニケーションを取ろうという意欲は、iPhoneがあることによって生まれた。

今までの英語教育の弊害

授業を何年も受けることで、「正しい英語」というものがあることを刷り込まれる。それ以外は喋ってはいけない、と思わされる。英語の時間、頑張って喋ったら、「正しい」英語に直される。そりゃあ、コミュニケーションを取ろうという気は起きなくなる。「正しい」のか、「正しくない」のか、じゃなくて、「伝わった」のか、「伝わらなかった」のかが重要なのじゃないだろうか?それが「コミュニケーション」を前面に押し出している理由じゃないだろうか?

物事は言葉が正確じゃなくても伝わる。人と人とのコミュニケーションなんだから、こっちが間違っていたとしても、相手が意を汲んで解釈してくれるのだ。誤解してもそれを微修正していくことこそがコミュニケーションなのだ。大昔のコンピューター入力は、一言一句一字まで「正確」じゃないと受け付けてもらえなかった。今やAIで修正してくれる。英語教育も互いに微修正するのがコミュニケーションであると前提から始めた方がいいのではないかと思う。

言語が変われば見方が変わる

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内田樹さんは、「言語の檻」という言葉を使う。日本語を使っていると日本語の檻から出ることができず、思考も日本語的思考から抜け出ることができない。だから、外国語を学び、違う見方考え方を得るのだという。

確かに単語レベルでいえば、日本語で表す雨の種類と英語で表す雨の種類は違う。日本語の方が多いと容易に推測できる。これは当たり前で、日本は雨が多く、雨を生活に取り入れてきたからという単純な理由だ。英語が母語の人は、五月雨も春雨も区別ができないのだろうと思う。日本語を母語としているから雨への見方が変わってくる。こんなことは全ての言語でおこなわれる。

単語レベルだとそういうことは体感できるのだが、文章レベル、思考言語レベルで、こういうことを体感できないものか?と思う。「英語を使うから、こういう思考ができる」なんてことを体感できたら、とても楽しい。日本語じゃ、このことは考えられないけれど、英語だと考えられる、ということを体感してみたい。不幸にして私は英語で考えられないから、それができない。

あなたの人生の物語
あなたの人生の物語」(「メッセージ」として映画化された)では、エイリアン(ヘプタポット)の使う文字は書き出しと書き終わりがない。音声言語も始まりと終わりがなく、一息で全てを表している、という。よって、「時間」の捉え方が地球人と全く違い、過去とか現在とか未来の概念がない。よって、過去、未来を行き来できるというのだ。

主人公もその言語を習得することで、ヘプタポットと同じ思考、行動ができるようになっていく、というのが面白い。(映画の作りもそんな感じでかなり混乱するのだが。)

キング牧師のスピーチのような「かっこいい」表現を日本語でできるのか?という話題にもなった。「not-but構文」ってなんだかかっこいい。「肌の色ではなく、人格によって認められる」という表現よりも、キング牧師の使った英語がクールに感じてしまう。それは英語がクールだからということでは全くなく、「not-but構文」がクールだからだ。「no move no football」を訳すと、「動かないのはサッカーじゃない」って、日本語だともっさりしちゃう。

もちろん、日本語だとクールな感じになる表現もあるのだろうけれど。

授業で「○○を学ぶと利益が上がる」は逆効果ではないか?

内田樹さんは、さらに「英語を学ぶと上級学校に行ける、金が儲かる」というストーリーで英語教育がなされると、どうやって労力をかけずに英語を習得した証を得られるか?ということばかりにリソースを割くようになる、とも言う。つまり、簡単に英語○級の資格を得られれば、その抜け道を探り、資格を得ることがゴールとなる。これは大学入試でも採用試験でもなんでも当てはまる。

級を得ること、試験をパスすることがゴールだと思わせられると、「何のために」を全く考えなくなる。簡単に英語○級を得たとしても、新たな見方・考え方が得られていないというのは自分でわかる。何の成長も無いのだ。試験をパスすることはゴールではなく、スタートである。どうして医者になるのか、どうして教師になるのか、どうして大学生になるのか、それらがない人は、スタートの先をうまく歩むことができない。

これはもちろん他の教科でもいえることだ。教科そのものを学ぶ楽しさを学習者に感じてもらえなければ、「かもしれない」詐欺(役に立つかもしれない)教師となる。その教科を学ばなくてもいいじゃん、ということにもなる。その教科を学ぶ楽しさ、学びの楽しさを伝えられないんだったら、教師としての技量は低いといえるだろう。

英語の授業は英語でコミュニケーション取れるようにするもの

受講者と私で、「どうして自分たちは英語でコミュニケーションを積極的に取ろうとしないのだろう?」という対話から出た話題をつらつらと書いてきた。自分たちが受けてきた英語授業が自分に合わなかったということに過ぎないのだが、特に私の受けてきた英語授業は、コミュニケーション前提の授業じゃなかった。英語を喋らず何十年経つだろうか?

そもそもコミュニケーションとは体が欲するものである。英語という手段を得れば、一挙にコミュニケーションの相手は何十倍、何百倍にもなる。しかし、結果として私が受けてきた授業は、英語でコミュニケーションを取りたくない、と思わせるものであった。だって恥ずかしいもの。その「檻」を壊すことが英語の授業では先ず必要なことなのではないか?という結論だった。