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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

第2回教科の見方・考え方を身に付ける授業デザイン研究会

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第1回は2月に静岡で開催したのだが、第2回はオンラインで開催。オンラインだからこそ、各地の人からも参加していただいた。

今回は教科をピックアップして、それぞれの実践で狙っているところの共通点を探ることから、「教科の見方・考え方」とはどういうことか?ということを考えてもらう機会にしたいと考えた。

どうしてその教科を学ぶの?

大学院の授業でも、「高校生が『先生、受験科目に無いのにどうしてこの教科を勉強しなきゃ行けないんですか?』と聴いてきたらなんて応えるの?」という問いについて考えてもらったが、「コミュニケーション力を付ける」だの、「協働力を付ける」だのと言った結論だった。いやいや、それじゃ、数学を学ぶ意味が無いじゃない?国語じゃ無くてもそれって学べるでしょ?そもそも、教科なんて学ばなくても、アルバイトしていればいいじゃん?ということになる。

コミュニケーション力やら、協働力やらを身に付けさせるために、苦労させて「役に立たない(と教える方が思っている)」教科を学習させるのって、労役として穴を掘らせた後、穴を埋めさせるようなものだ。役に立たないと思っているものを「そこにあるから」としてやらせているって、そもそもそれは教育じゃないじゃないか。本当に教科を学ぶことが役に立たないと思っているのなら、それを「やめさせる」努力をしなければならない。最近話題になっている「ブラック校則」をやめさせるように。しかしそこまでしようとする人はいない。

いや、まだ言語化されていないけれど、教科学習には「汎用的能力」、「メタ認知能力」を身に付けさせる「役割」がある。それが「教科の見方・考え方」である(と思われる)。その教科が好きで、その教科を専門にやっていると、その教科を学ぶ意味を自分に問わないで「大切だ」と思ってしまっている。そこから一歩引いて、一体この教科にはどんな意味があるんだろう?ということを「掘り当てる」のがこの会の目的の1つなのだ。運慶が仏を大木の中から掘り当てる作業のようなものだ。

そもそも「見方・考え方」とは何なのか?

学習指導要領解説には、具体的に書かれていない。「科学的に探求する力」とか、「対象と言葉の関係」とか、つまり、それってどういうことなの?と突っ込まなければ、そのままわかった気になるような表現だ。そこにツッコミを入れて考えるのがこの会であり、自分の専門の教科であったら、責任をもってツッコミを入れてほしい。ツッコミを入れてかみ砕いて、自分の受け持つ児童・生徒に分かりやすく説明できるようになって欲しい。

「論理的に考える力」とか、「市民性」とか、そういう言葉だけで誤魔化さない。じゃあ、数学で身につく「論理的に考える力」と、国語で身につく「論理的に考える力」では何が違うの?同じだったら、どっちかしなくてもいいじゃん、という質問に対してどう応えるのか?応えられなければその教科をカリキュラムとして「押しつける」意味が無くなる。

地歴/公民科や理科は、「分野」というものがあり、それが「見方・考え方」に通じているところがあり、とても分かりやすい。地歴/公民科であれば、「位置・空間・時間・政治・法・経済」という分野(=視点)で社会現象を観察、分析していく。理科であれば、「エネルギー・粒子・地球・生命」という分野(=視点)で自然現象を観察、分析していく。こう考えると、「見方・考え方」は「武器」であるという意見が出た。なるほど。「切り口」という比喩表現がぴったりだし、「武器」という表現もぴったりになる。

決まった「見方・考え方」は無いのか?

一方、国語や英語に関しては、「言語による見方・考え方」という表現が学習指導要領解説にあり、この解釈は要領を得ない。教師の解釈によっていかようにもなってしまう。しかし、それでもいいのだと私は思う。まだ決まった解釈が無いのだから、教師の解釈によって、授業デザインを考えていけばいいとも思う。そもそも今まで「見方・考え方」という視点で授業デザインを考えている人がほとんどいなかったのだから。

とても曖昧な部分を孕んでいる「見方・考え方」なのだが、これから解釈をしていくことによって、「見方・考え方」を意識した授業デザインがたくさん生まれてくるはずだと思っている。その教科を学ぶ意味を本当に考えれば、その教科で無ければならない授業が生まれてくる。

国語で言えば

目の前に文章があるからそれを「正確に」読み取って、自分一人でも初めて出会った文章を読めるようにする。

という超曖昧な意味から脱却出来るはずだ。「正確に」とは、何をもって「正確に」なのか?果たして本当に「正確な」読み取りというのは存在するのか?そこから考えていかなければならない。大雑把な言葉で誤魔化してはいけない。

今までは「論理的思考力」というような大雑把な言葉で曖昧にされていたことなのだが、そこに更に解釈を加えることで、「それぞれの」解釈になってしまうことがあるのだが、これから「それぞれの」解釈をすりあわせて行く必要がある。なにせこれまでは「それぞれの」解釈自体が無かったのだから。

武道を学ぶということは、本来で言えば「人殺しの方法」を学ぶことであった。しかし、人殺しが日常茶飯事では無くなった時代になり、「相手を倒す」ことを目的とはしているが、その方法だけを学んでいるわけでは無いのだ。「気」だったり、「流れ」だったり、「身体感覚」だったり、一般的な言語化されたものではない「何か」は、それを極めようとしている人以外にはなかなか体得出来ないものである。極めようとしている人以外に説明できないからと言ってその意味が無いとは絶対に言えない。

教師はそのようなものをなんとか言語化して、学習者に理解させる不断の努力が必要なのだ。

「見方・考え方」は、「自然に」身につくことなのか?

「漢字をたくさん書けば、その漢字を覚えられる(人もいる)」というように、習得するものとその方法が明らかな学習もあるが、そうではないのが「見方・考え方を身に付ける」ことだ。しかし、今まで通りの授業をしていけば、自然に身につくと考えるのも間違いだろう。

「自然に身につく」と考えている人は、そもそもそのセンサーが高い人で、高いからこそ教師になれている人なのではないか?自然に身につくのであれば、「全員が」身についているはずであるが、どうやらそうではない。「○○をすれば★★の力がつく」の一歩目としては、「★★の力」を具体化することなのでは無いか?つまり、目的が無ければ、目標も生まれないし、方法も生まれない。各教科で「★★の力」を身に付けられる授業デザインというものを意識することが大切だ。

もちろん、ある道を究めようとすれば、それに付帯して「人間性」などが身につく場合もあるのだが、身につかない人もいる。受験勉強ばかりをやっていて、自分の点数や偏差値ばかりを気にしていると「人間性」が身についたということは、一般論では無いだろう。

研究会の今後

現段階では「教科の見方・考え方」という教科の捉え方が必要、という切り口を広めて、たくさんの人に考えてもらうということがこの研究会の意味になっている。次の会では、もうちょっと授業の分析をみんなでしっかりやってみようか?と思っている。きっとオンラインで開催することになるから、PCのディスプレイ近くにいて、授業ビデオをがっつり全員が見られる状態である。その状況を活かさない手はない。

授業ビデオの提供をしてくれる方を大募集である。