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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

冴えない授業デザイン(国語)の作り方 ♭

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プリント学習

授業プリントを使い、授業を行うと、とても楽だ。その授業時間に取り組む内容が一覧になっているので、めどが付けやすいというメリットがある。これは授業者にとっても学習者にとってもメリットになる。学習者は、授業者の頭の中にある、「いったい、次は何を問われるのか?」という不安から解放され、目の前のプリントに取り組むだけでよくなる。その時間の目標が提示されない時の学習者の負担感を感じていない教員は多い。その時間の目標、その単元の目標を一切提示しない高校教師の多さからも伺える。

教師にとっても事前にその授業の流れを作っていくことで、脱線することを免れる。授業に取り組んでいるかどうかの判断をプリントをやっているかどうかで見とることが出来るのでとても楽なのだ。導入、展開、発展がその1枚のプリントに示されていれば、どこまで進んだか一目瞭然だ。

学習者は、もう分かっていること、分からないことがはっきりするし、教師のいらぬこだわりや、他の学習者との無駄なやりとりなんかを無視して、プリントを書いていくことで、その授業時間頭を働かせることができる。つまり、教師のペースに乗らないで、自分のペースで学習を進めることができる。これが意欲的な学習者にとって最もよいことだと思う。

プリント学習の弊害

とはいっても、弊害はある。往々にして国語において作られたプリントは以下のような弊害を持つ。

知識補填のプリント

一問一答式で、問いに対する答えが1つしか無いもの。知識を問うもの。教科書から抜き出すもの。それだけで構成されているプリントは、意欲的な学習者にとっては、どんどん自分で進めていくことができるが、意欲的では無い学習者は、「結局、答えは後から示されるのだから、その時に写せばいいや」ということが分かっている。

決まった答えを導き出す時に使われる頭の働きが重要なのだが、その頭の働きの重要性や面白さを教師が語らないで、正解という結果だけを重視する。

あだちがはらさん、空欄Aにはなんて書いた?
はい。猿と書きました。
え?猿?そうじゃなくて、他に考えられるでしょう?
じゃあ、鳥
うーんと、惜しい。

そうですね。猪ですね。

なんていうやりとりをよく見てきた。これって、「答え」を「当て」る授業だよね。あだちがはらさんに答えさせる国語授業的意味はあるのだろうか?

ストーリーが決まっているプリント

知識を問うものではなく、考え方を問うプリントも国語授業では作られる。例えば、論理的思考を学ぶ授業で、

  1. この時ヒグマが見つけたものは何か?
  2. ヒグマはそれを見つけてどのような考えを持ったか?
  3. ヒグマのその考えはどのような情景描写で描かれているか?
  4. その情景描写はエゾシカにどのように影響しているか?
  5. エゾシカは何を象徴しているか?

と、自由に考えられるように作られているように見えて、順を追ったストーリーを作っていかなければならない。しかも、そのストーリーは、教師が作品から得られたストーリーであって、そんなストーリーを学習者が追えるのかというと、そういうわけではない。着目点は人それぞれ違っているのであって、教師が得た着目点が絶対ということでは無い。しかしそれを押しつけたら、自由な発想は生まれない。

なぜこうなる?

「国語は決まった答えが無いから嫌だ」という大昔からの子どもたちの意見に答えるために、「ある条件を課せば、国語だって1つの答えに集約されるんだよ。」と言って、テスト問題を作る。テストが全てだと思っている(思わされている、思わなければいけない)国語教師にとって、「決まった答え」信奉が、こんなプリントを作らせている。何でこんな授業なの?何でこんなプリントを作るの?と尋ねたら、「テストで何を勉強していいか分からない」という生徒の意見に答えるためと返答する。

じゃあ、その答えが書かれてあるプリントを始めに配っちゃえばいいんじゃない?

と、言うと、きょとんとされる「じゃあ、授業では何をすればいいのか?」と言うことなんだろう。

知識伝達、空欄補充ではない国語授業とは

調べれば分かる知識、教師が小出しにして、最後に提供する「答え」を全て材料にして、何を学べるのか?を授業の目標にすべきである。知識伝達の授業は100年前から行われているのに、未だ日本の授業は変わらない。ネットで調べればすぐに分かる「答え」を時間かけてプリントに書いたらどんな学びが生まれるのか?今の多くの学校では、ネットで調べりゃすぐに分かることを、調べる手段に制限をかけて、無理矢理その情報に届かないようにして、時間をかけさせて紙に書かせている。

なぜネットに繋がる携帯端末を授業で使うことを禁止しているのだろう?すぐに答えが分かることって悪なのか?子どもたちはそんな「まやかし」にもう気づいている。いや、気づかせないようにしているから、「ネットは匿名で簡単に他人を傷つける便利なツールだ」としか思わないと教師が思っているから、使わせないのだろうか?高校卒業したら、ネットを駆使して簡単に情報に行き着き、そしてそこからクリエイトしていかなければいけないのに、ネット検索コピペ止まりのレポートしか生まれないのかもしれない。

情報を組み合わせる

共通テストの国語問題、私が数年前、「試行」として作られた問題を解いたことがあったが、結局その時の目新しさからかけ離れ、よくある問題に落ち着いていた。主になるテキストがあり、そのテキストに関連した別のテキストが提示され、解くというもの。「試行」の問題は、あまり関連性がないと思われるような情報を組み合わせて書いていく問題だった。あれには衝撃を受けたが、いろんな「文句」が出て、結局高校入試でよくあるパターンの問題になったのだろう。はっきり言ってがっかりだった。

どんなものでも出題者の意図が反映しているもので、出題者のストーリーで解いていかないといい点数は取れない。しかし、ほんとうにそれが「国語」だろうか?目の前にあるテキストから読み取った情報や、自分の経験上の情報、感覚をこねくり回して解釈するのが国語であってほしい。誰かのストーリーに自分の思考手順を当てはめて1つの予定調和な「答え」を紙に書くのを「国語」だなんて思ってほしくない。

私が今までに作った最高の定期テスト問題は、「1年間の国語の授業で「生きるために役に立つ」と学んだことを2,000字以内で書きなさい。」だと、今でも思っている。