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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

文章がうまくなりたいって思っているのかな?

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院生と「喋れるのに書けない」ということについて、そして「どうして文章を書くのを毛嫌いするのか?」について対話した。作文の課題で、なかなか書けない時に、質問をするとそれに答えられる。「じゃあ、それをそのまま書けばいいんだよ。」と伝えても書けない。喋ることと書くことの間にどのような壁があるんだろうか?

上手な文章を書きたいと思っているか?

私は、学生時代たくさん文章を読んでいたと思う。たくさん読んでいると自分に心地いい文章が自ずと見つかるので、そんな文体で書けるようになったらいいな、という憧れがある。それは筒井康隆のような、どんどんと狂気に向かって行くような文章だったり、奥の細道のような超簡潔で、行間から伝えたいことがにじみ出るような文章だったり、最近では、西尾維新のようなことば遊びとストーリーとちょっとのエロが入っている文章だったりする。

児童生徒はそんな文章への憧れというものがあるのだろうか?という話になった。このような憧れって、たくさん触れないと生まれない。たくさん文字を読まないと生まれない。文章を読む機会がどんどん減っている現代では、そういう憧れを持つ児童生徒は減ってきているのではないか?という話になった。

いや、もしかすると私の年代でも「憧れの文章」というものを持っている人って、そうそう多くはないのかもしれない。

文章教育はほかの教育に比べて欠落している何かがあるのでは?

幼児の時に、お絵かきをしていて、親など周りの大人はその絵を見ると、「おー、○○ちゃん、上手に絵が描けたね。」と褒める。それは小学校に入っても続く。同じように歌を歌ったら、どんな歌でも褒める。褒め続ける。中学ぐらいまでそういうことは続くのではないだろうか?

ところが、ことに文章になると、文章を書いたら小さい頃は褒められるのだろうけれど、だんだんと、字が汚いやら、漢字が間違っているやら、平仮名が鏡文字やら、そんなことを指摘されてしまう。しかもかなりの低年齢時から。そんなことされたら、文章を書くのが嫌いになってしまうのは必至だ。

絵を描いていて、見た目の色と絵に塗られた色が全く違っていても、「おー、個性的だね。」とか、「もしかしたら、この子はピカソの再来か?」とか、デッサンがぐにゃぐにゃでも、「もしかしたら、この子はダリの再来か?」、芸術は爆発だ!という評価がなされることが多い。

ところが文章に関してはそうではない。書いてあることが支離滅裂だったら、「この子は大丈夫なのか?」と思ってしまう。狂気じみていたら「この子は筒井康隆の再来か?(存命中)」と思うことはあまりない。どうして文章に関しては「写実的なもの」が求められるんだろう?

もちろん実用的な文章を書く場合はそういうことは、重要な要素だが、文章は自由なもので、実用的な文章だけを書いているわけではない。他の芸術と同じような自由な部分も伸ばしていかなければならないはずなのに、それが欠落している。

文章の模倣はタブーなのか?

美術を学ぶ時、模写という手段がある。優れた絵描きのデッサン、色使い、筆使いを学ぶためにある。音楽を学ぶ時にも、優れた歌手の歌い方を真似る。ところが文章を学ぶ時に、優れた作家の文章を真似るという手段はあまりとられない。なんとなく自分の中にある文章の断片を自分の直感に従って文字に書き起こしていくやり方しかない。文字化されたものは既に結果であり、その結果についてとやかく指導される。文章を紡ぎ出す過程についての指導は学校ではあまりなされることがない。

作家の文体を真似て書くという課題がもっとあってもいいのではないか?とも思う。しかし、教材化はとても難しい。なぜなら国語教師は文体についてほとんど学んでいないからだ。「漢文調」、「和文調」などざっくりとしたものは授業では取り扱うが、「村上文体」とか、「筒井文体」とか、私も「これがそうだ」と示すことが難しい。

それでも、こういう授業、面白そうだと思うし、国語授業で文体について取り扱ってみたらいいのではないか?

  • ギャル語で自己PR文を書く
  • ラップ調で環境問題についての小論文を書く
  • ダジャレをふんだんに交えて、理科のレポートを書く(西尾維新調)

そうすりゃ、作文も楽しくなる。

実用的な文書はどのくらいの人に必要なのか?

学校教育で求められているのは、「きちんとした文章」だ。誤字脱字が無く、かかり受けが正しく、文体も統一している文章だ。通知文書や指示文書のようなもの。でも、これって、どのくらいの人に必要なものなのだろうか?実用的な文書は理解する必要はあるけれど、書ける必要はあるのだろうか?大体、実用的な文書はテンプレートがあって、それに日付やタイトル、場所などを差し替えればいいだけのものがほとんどだ。実用的な文書をイチから作成する職業って、ほんの一握りの職業に限られている(我々研究者は「論文」という実用的文書の粋みたいなものを書いているけれど)。

だから、高校で小論文を書く指導がなされている。もちろん小論文を書くことによって思考が整理されるということはあるのだが、じゃあ、書かされた高校生のうち、どの位の人が論文を書く必要があるのかというと、大学に行く人くらいしかいないのでは?しかも、大学でも卒業論文を課さないところもたくさんある。そして大学を卒業したら、そんなものを書くことはほとんどの人が無くなる。

つまり、実用的な文章を書かせようとして、その文章自体実用的なものではなくなっているという矛盾がある。そんなことも考えないで、学校ではせっせと小論文を書かせている。小論文、本当に必要なんですか?入試のためダケジャナイですか?

生涯にわたって文章制作を楽しむ

現代はかつてなかったほど人類が文章を書き、文字データが全世界を行き交いしている時代だ。今の児童・生徒はそのような中で生きて行くのであり、じゃあ、文章を書くこと自体を楽しめるようにすることも学校教育に必要なのではないか?とも思う。スポーツを行うのは、プロになるためだけでは無く、生涯にわたってスポーツを楽しむためであるように、文章を書くことも生涯にわたって文章制作を楽しむためであるべきだ。

そういう視点を持つことによって、「文書嫌い」の児童生徒を減らすことができるのではないか?と思う。

作家になるためだけに文章を書くのではない。Jリーガーになるためだけにサッカーをしているわけではない(写真は駄洒落でした)。