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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

学級経営(広義の)で最も心がけけておかねばならぬこと

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後期の大学院授業では、学級経営(集団づくり)も受け持っている。そこではディスカッションを中心に、あるべき学級担任の姿を掘り出すことをしている。

学級(教科)担任には当たり外れがある

学級担任制の功罪を話題にした時、若い院生さんは、「自分は学級担任を外れだと思ったことがなかったので、学級担任制を廃止しなくても良いと思っていた。」という回答があった。そう、学級担任には当たり外れがある。しかし、それは児童・生徒にとって絶対的なものではなく、そのクラスのある生徒にとっては当たりでも、ある生徒にとっては外れであるという現実がある。

問題は、学級担任を児童・生徒は選べないということなのだ。

選べればいいのか?

それじゃあ、流動学級制をしいて、一定期間後担任を選べるようにすればよいのか?ということになる。そうなると、その先生を好きな児童・生徒がそのクラスにどんどん集まることになり、その先生を支持する人たちのクラスが出来上がる。その先生が右といえば右に、左といえば左に向くようになるのではないか?という話になった。生徒たちにとって「当たり」の学級担任である。これって、いいクラスになるのだろうか?

そうなると何が起こる怖れがあるのかというと、先生の周りは自分を支持する人ばかりなので、「腐敗」が起こる。その先生に意見を言う人がいなくなる。文句を言う人がいなくなる。これって、健全な集団を作るために弊害にならないか?忖度ばかりする集団がどうなっているのかは、周知の事実である。児童・生徒にとってばかりか、先生にも成長がなくなる。

というと、一概に、「当たり(=いい先生)」に持たれたからといって、いいことは起こらないのではないか?という話になった。

様々な人と様々な機会で接することができる

いわゆる「抱え込み」が弊害をもたらす。ある先生(当たりでも、外れでも)がずーっとその生徒に接しなければならないということが弊害を生み出すのだから、それをやめればいいということになる。つまり、「ローテーション」だ。子どもたちにとって(もちろん大人たちにとっても)、ある一定期間でいろんな人と接することができるシステムを作れば良い。学校でいえば、教科担任制である。

しかし、教師は抱え込みたくなる。そのクラスの担任だとなると、「自分が全て面倒を見たいし、他から口を出されたくない」と思ってしまう。実際の所そこが問題なのだ。しかし、教科担任制が敷かれると、子どもたちは1日にいろんな先生と接することになるし、逆も然りだ。そうなると、世の中には「合う人間、合わない人間」、「信じられる人間、信じられない人間」、「きらいだけど正しいことを言う人間、好きだけれど、いい加減なことを言う人間」がいるということを体験していく。

その中で、社会に出てからの「耐性」を養うことができる。「大人のいうことは全部信じろ」、「先生のいうことは何でも従え」ということにはならなくなる。児童・生徒が取捨選択出来るし、合わない児童生徒がいた場合、どのように接していけばいいのか教師は考える。

「教職員が一丸となって」はいいこと?

「教職員が一丸となって」という指導方針が必要と言う人が多くいるが、一丸となって同じ方向に向かせようとした場合、その方向は絶対的に「正しい」と言うことができるのか?間違っている場合だってあるじゃないか?絶対的な「正しさ」というのは、「死なない、殺さない、裏切らない」程度しか無い気がする。それは教職員が一丸となって指導するべきものなんだろうけれど、他の場合は、いろんな指導があってよい。いろんな指導に触れさせることも必要だ。

最終的には児童・生徒が自分で選べる力をつける環境作りを「一丸となって」するのが良いのだと思う。