Pay it Forwad,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

詩の授業デザインの作り方〜一つのメルヘン〜

f:id:F-Katagiri:20210701115154p:plain

私の研究室の学生が、7月に連携校でとりあえず2時間授業をさせてもらえることになった。国語で2時間、教科書を使ってとなると、分野が絞られる。俳句、短歌、詩などの文字が少なめのものだろう。作文などの国語表現のようなものもできるかもしれないが、「教材の解釈→授業デザイン作成」という過程を経験してもらいたいので、詩を扱うことにした。

文学の授業は、「書かれていないことも読み取る」

国語科授業の目標は、シンプルにいうと、説明文の授業は、「書かれてあることを読み取る」、文学の授業は「書かれていないことも読み取る」ということを先輩に学んだ。文学の授業の目標の中に「も」が入っていることがミソである。

とかく文学作品を取り扱った授業では、「自由に読む」として、「そう読み取る必然性」を一切無視して、教材からどんどん離れていく授業をするものもあるし、書かれてあることしか読み取らせず、その他は用意した資料から読み取らせるような授業をしているものを多く見かける。

文学は個人的なもの

優れた文学作品の中には、それを読んだ人が、「この作品は自分のために書かれている」、「どうして作者は誰にも明かしていない自分の内面をこのように的確に書いているんだろう?」と思わせるものがある。「自分の物語だ」と感じるものだ。文学作品の読み取りにはそのような読み取りが許されているし、文学作品をそのように読めるようになることで、人生が豊かになる。それを養うことも国語科教育の役割だろう。

かといって、「荒唐無稽に思いついたとおりに文脈を無視して感じた印象を言い合う」ような場を設けても、国語科授業にはならないと思う。ある程度の方向性を示し、その流れで自由に読み取るようにしていくのが文学の国語科授業デザインである。

イメージとしてはスキーのジャンプだ。ジャンプ台の方向を南に作るのか、北に作るのか、ノーマルヒルなのか、ラージヒルなのか、ある程度ジャンプ台のデザインを作り、それを滑走した後のジャンプは、ジャンパーの自由だ*1。ジャンプの先が「個人の読み取り」ということになる*2

読み取りの裁量は読者の権利

定期テスト」が頭から離れない国語教師は、「そんな授業をして、テストはどうするんだ?」と考え、作家論を元にした空欄補充の授業をする。読み取りの裁量なんて全く認めない。そしてそういう授業を押しつけられ続けた学習者は、国語科授業において「文学は個人的なもの」なんていうことは思いも付かず、唯一の正解を求め、教師が何を答えさせようかということを探るように授業に臨む。

こんな雰囲気では「主体的・対話的で深い学び」なんて望むべくもない。

だから、学習者から今までの固定観念をとっぱらう必要がある。数時間でそれが可能だとは思えないので、根気よくくり返して行かなければならないだろう。

作品は誰のもの?

また、ネットを漁ると、これは中原中也の人生を描いたものだ、とか、死の世界だ、とか、いろいろ書いてあるのだが、どれを読んでも私にはピンと来ない。作家の生涯をこの詩に当てはめて読み取る方法もあることにはあるが、だからといってそれが唯一の解では無い。そんなことが全てだとしたら、作者が分からない作品はどうやって読み取ればいいのだ?

作品は発表された時点で作者のものではなくなり、読者のものになる、というのが私の解釈だ。「作者はこういう意図で作った」からどうだっていうのだ?そう読み取れなかったら、それまでだ。「教師が何を答えさせようとしているのか当て合戦」の授業をしている人は、作者の意図を当てる授業の方がしっくりくるのだろう。

具体表現→抽象化→具体的事例に当てはめる(文学の一つの授業デザイン)

個人的な読み取りをするということは、各人の個人的感覚、経験に当てはめてその作品を捉えられるかどうか、ということだ。それは訓練を必要とする。文学作品の表面的なストーリーを追うというのは、評論文の読み取りと同じで、言葉をある程度学んでいれば、自動でできる(というか、言葉を学ぶということは、そういうことだ)。

それは外国語を学んでいけば、ある程度簡単な物語のストーリーを追えるようになるということだ。

しかし、文学作品は、それだけではない。いわゆる「この表現の裏に隠されているものは?」を読み取れてこそ、その作品を理解できたということになる。そのためには「抽象化」できるかどうかが必要だ。

例えば、中原中也「一つのメルヘン」の構造を超単純に示すと、

第1、2連(起・承):固定されているもの
第3連(転):きっかけ(蝶)
第4連(結):流動する

と捉えることができる。「今まで動かなかったものが、何かのきっかけで動き出す」というものだ。授業ではまずこれをつかませることになる。これが「ジャンプ台」となる。
f:id:F-Katagiri:20210701132352j:plain

各表現から超単純なストーリーを捉え(抽象化)、その後、個人の感覚、経験などにもとづいて、自分のストーリーに当てはめる(具体事例に当てはめる)という活動に繋げる。

この授業デザインの大枠を抑えておけば、ジャンプまでに導くジャンプ台をどう整備するか、学習者の現状に合わせて考えて行けば良い。

まとめの問い

抽象化されたストーリーを捉えれば、それをもとに細部を読み取っていくこともできる。「硅石」、「石」、「陽」など、それだけを読み取ろうとすると難しいが、抽象化されたストーリーに合わせて考えて行けば、何とか解釈ができてくる。

最後のまとめの問いとして

あなたにとっての「蝶」とはなんですか?

というもので十分だろう。この詩を捉えられた学習者は、抽象化されたストーリーに合わせて「蝶」を説明するだろうし、個人的な読みができた人は、自分の経験をもとに書けるだろうし、この問いの解答で、どう読み取れたのかを評価できる。

*1:ほとんどのジャンパーは遠くに飛ぶことを目指すのだが

*2:それに対して「評論文」の読み取りは、登山道に階段が付けられていて、そこを一歩一歩歩かせるイメージ