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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

「そんなのも知らないの?」となぜバカにされるのか?

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学部生のTさんは、「学校教育における固定観念」について研究している。個人ゼミの最中、「『常識的』なことを知らないと、恥ずかしい」という話題になった。

どうして「恥ずかしい」のか?

「どうして恥ずかしいのだろう?」と問うてみた。

だって、知らないと恥だから。みんなが知っていることを知らないと恥ずかしいから。

豊臣秀吉を知らないと恥ずかしいのだろうか?」

日本人だったら、豊臣秀吉を知らないと「そんなのも知らないの?」と言われるということは想像に難くない。しかし、外国人だったらきっと言われない。なぜか?「義務教育の社会科の教科書に載っていて、ほぼ全国民が学校で学んでいる知識だから」と想定してみる。

豊臣秀吉の全てを知っているわけではない

日本人にとって豊臣秀吉は、何度もドラマになり、映画になり、マンガになり、立身出世譚が有名な英雄(?)であるが、じゃあ、韓国人にとっては、どうなのか?韓国人にとって豊臣秀吉は過去の侵略者であり、英雄でも何でも無い。豊臣秀吉朝鮮半島でおこなったことの詳細は日本の教科書にはあまり掲載されていない。そのことを知らなくても、日本においては「そんなのも知らないの?」とは馬鹿にされない。

ここに、何かの意図を感じてしまう。

知っておいてほしいことと知らなくてもいいことの選別がされている

「義務教育時に学校で習ったこと」は、選ばれた知識であり、「そんなことは必要無い」「そんなことは身に付けない方がいい」「身に付けてもらいたくない」というものは学校で扱われない。選別の末、与えられた知識を知らないと「そんなのも知らないの?」とされてしまう。

非常に嫌な言葉を使うと、「洗脳」されているといってもいい。

つまり、「そんなのも知らないの?」という側は、ある権力に押しつけられた「常識」を素直に受けとって、権力側のプロパガンダに加担していると言っていい。(大げさすぎる?)

実は「知っていること」はたいしたことが無いのでは?

アインシュタインの言葉

Never memorize what you can look up in books.
「本で見つけられることは、覚えておかなくてもよい」

As quoted in "Recording the Experience" (10 June 2004) at The Library of Congress
http://www.arielspeaks.com/Philosophy/Albert_Einstein_Quotes.html

今や、インターネットで「そんなのも知らないの?」と言われているものは、簡単に取り出せるようになった。歴史上の人物や、漢字の読みや、計算式も写真で映せばスマホが計算してくれるようになっている。自動翻訳で全く触れたことが無い言語を喋る人とのコミュニケーションもある程度取れるようになっている。

「そんなものも知らないの?」ということに対して「恥」と思うと、知っているフリをする。知っているフリをすると、そこで尋ねられない。調べられない。「分からない」と思ったときに、尋ねたり、調べたりすることで、身につく。知っているフリをしたら、後から調べるということはあんまりしないだろう。

「覚えておくこと」に価値があったのは、今のようにインターネットですぐに調べることができなかった時代、知識を多く頭脳に蓄えておけば、図書館に行ってたくさんの本の中から必要な情報を時間をかけて見つけ出すというコストがかからないからだ。

「知らない」ということに価値がある?

「分からない」と感じ、その分からなさをすぐに解消しようということに価値が出てくる。つまり、過去に得た知識には価値がなく、今、解明しようという意識に価値が出てくるはずだ。「分からなくてもそのままにしておく」ではダメだが、「今それを知り、その知った知識と今の話題を結びつける」ことで、知識と知識が結びつき「深い学び」に繋がっていく。

「知りたい」と思うときに「知る」ということが、いかに大切か、ということだ。

その流れに逆行する「スマホ禁止」

全国の学校の教室にはWi-Fiが配備されたのだが、何のためなのかまだ分かっていない学校も多い。上記の「知らない」ということに対して即座に「知ろう」とすることができる環境があるのに、学校側がWi-Fi使用制限をしたり、学校の端末は全生徒分は無いし、個人のスマホ使用禁止、となると、検索できる知識は手持ちの本の中か、教師の頭の中にしか無い。

「先生、これはなんですか?」と聞いても、「自分で考えなさい」と、スマホで調べれば分かることを「考えなさい」と言うのは、教師の優位性を保とうとしているとしか思えない。個人端末Wi-Fi接続禁止、放課後までスマホ使用禁止をしているということは、今の世で情報遮断、情報統制をしているどこかの政府の政策と全く同じでは無いのか?

知識が多いということ

もちろん、知識が多いということに超したことはない。わからない語をいちいちネットで調べなくてもいいし、クリエイティブなことは、分かっていることを頭の中で組み合わせて表出されるからだ。さっき知ったことをすぐにクリエイティブなことには使えない。

今の世で、採用、合格しやすいのは、ペーパーテストで高い点数を取ったものである。ペーパーテストでは、ほとんどがその人が持ち得ている知識しか測っていない(測れない)。どうして知識が多い人の方が、採用、合格しやすいのか?

知識が多い←長時間「勉強」した結果←根気がある、素行がいい、「やれ」と言われたことをやる人

という図式で、「根気がある、素行がいい人、「やれ」と言われたことをやる人」を多く集めたい、という考えがあるのかもしれない*1。しかしこれらには全く因果関係は無い。しかも、これから必要とされている、クリエイティブなことを生み出す人を見つけることはできない。

「きっとテストの点数が高い人は、他の能力も高いんだろう」という思い込みで選別されているのだが、だんだんそれも「ウソ」であることが分かってきた。

「知識」に関して、これから必要な力

どうせ人間はそのうち忘れる。忘れることができるのが、人間の有能である所以だ、なんていう人もいるが、「忘れる」前提で、どうすればよいのか?を考える必要がある。

数週間後のミーティングのスケジュールを忘れずに、そのミーティングに参加する
月に1回ある、特売日に忘れずに買い物に出かける
今日知り合った人の名前と顔を数ヶ月後に思い出し、その人の声をかける

ためにはどうすればいいのだろうか?

これらの特徴は、そのタイミングまでは忘れていいということだ。ずーっと覚えていなくてもいい。これらはICTを使えば、楽にできる。リマインダーというヤツだ。リマインダーをかける操作、工夫があれば、そのタイミングまで忘れてよい。もっとも、リマインダーをかけること自体を忘れていたらお手上げだが、人間は「常時すること」は結構忘れないものだ。

「思い出すために何をするか?」という工夫ができる力が必要となってくるはずだ。ずーっと蓄積して、もしかしたら一生使わないかもしれない知識にそれほど価値を感じない。

知識量を測るテストよりも、技術、協働、創造性を評価する

今のペーパーテストで「主体的・対話的で深い学び」は測れない。「主体的学び」も「対話的学び」も「深い学び」のどれも測れない。それでもペーパーテストを続けますか?と言いたくなる。ペーパーテストに固執する限り、上記学びの生起は放棄しているといってもいい。

必要とも思えない知識を短期間に脳内メモリに詰め込み、短期間で吐き出し、消失させることに重きを置き、それをくり返していけば、学校自体が見捨てられる。



こんなことをゼミ生と対話して考えることができた。対話的学びがここで生起されていると実感できる。

*1:暴論かな?