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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

教養としての英語科教育

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残り回数が少ない「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」だが、今日の題材はまたしても「英語科教育」となった。その時の話題の概要をまとめておく。

英語科教育でいつも話題になるのが、

AI機械翻訳の精度がどんどん上がって行き、文法的な間違いが無くなった場合、英語教育は存在し得るのか?

というものだ。

現時点では機械翻訳は完璧ではないから、こういう英語科教育が必要、ということは言える。しかし、5年後きっとAIの進化(学習)により、日本人が約10年間の英語授業で身につく力をはるかに超えた翻訳精度は得られると想像できる。つまり、スマホがあれば(もしかしたら、それが無くとも)英語を喋る人と日常的な会話ができるということになる。

英検○級や、TOEIC ○点を目指そうとしている文科省は、英語教育の何に意味を見いだしていけるのだろうか?

機械翻訳では微妙なニュアンスが分からないから……

そうなのかもしれない。5年後でもそれは考えられる。しかし、現在の英語科教育は、「微妙なニュアンス」を理解することを目標としているのだろうか?そんな英語力を持っているのは、ほんの一握りの人たちであって、高校を卒業した人にそんなところまで求めているとは思えない。「日常会話レベル」がいいところだろう。

コミュニケーションを取るためには、「微妙なニュアンス」を理解できないとできないわけではなく、「コミュニケーションを取ろう」という気持ちがあればいいだけである。カタコトの日本語で話しかけられた外国人とコミュニケーションは十分にとれる。

脳内外国語変換システムが大事

英語の授業では、日本語を英語に変換する脳内の働きを促すことになる。この変換システムを育てられるというのだ。これはなんだか一理あるような気がした。機械翻訳を使えば、それは全く使われないし、育たない。しかし、この「変換システム」って何なんだろう。私もたまに英語翻訳、または英文の日本語翻訳をするときがあるが、脳内でどんな働きをしているかは、ブラックボックスで分からない。

自分の使っていない言語について(言語で)考える、というのは、「頭の体操」のようで、普段使っていない部分を働かせるため、頭脳にとってはいいような気もする。

ここらの研究を検索したときもあったのだが、あまり理解できるものは見つからなかった。また更に調べてみることにしよう。

古典教育は 英語科教育と似ている

古典はどうして日本人が必修で学んでいるのか?小学校の国語か教科書から掲載されている。

英語の学習と似ているのは、

普段使っていない言語を習得する

ということだ。古典なんて現代語訳を読めばいいと考えている人もいるが、それは全く違う。それだったら古典を学ぶ意義はほぼない。現代語訳しなくてもいい文章を読めば事足りる。

普段使っていない言語を学ぶことで、

その言語で表現されているソースに直接アクセスできる

のだ。

日本人はどこまで遡ってソースにアクセスできるのか?

  1. 自分の同年代の人としか意思疎通ができない
  2. 自分の親、祖父母世代までとしか意思疎通ができない
  3. 明治時代に文語で書かれた文章を読める
  4. 江戸時代の文章を読める
  5. 室町時代の文章を読める
  6. 平安時代の草書体を読める
  7. 奈良時代の万葉仮名を読める

更に先と、いろいろあるのだが、「ここまでで十分だ」という線引きはできない。なるべく昔のソースにアクセスできればいいのだろうけれど、あまり昔すぎると専門家とならなければできないものもある。

しかし、古典を学ぶことにより、その人の興味関心と努力により7以前ものにだってアクセスできるようになる。ソースに直接アクセスできるということは、ソースと自分の間に何も挟まないことである。何も挟まないことにより「信用できる情報」となり得る。

自分の生活圏の外のソースに直接アクセスできる能力というのは、程度の差はあっても国民全員に持っていて欲しいものだ、というのが、文科省の考えだし、私もそう思う。

ソースに直接アクセスできることにより、正確な情報を得られることができるし、「表現したかった本来のニュアンス」をアクセスした人が受けとることができる。枕草子の冒頭部のどんな現代語訳を読んでも、原文を読んだときに比べて「いいなぁ。」と感じたことはない。

誰かが仲介することによる弊害

以前、別の大学の国際理解を学んでいる学科で講演したとき、「英語教育は何のために必要?」という問いに、ある学生が「アメリカに欺されないため」と答えてくれた。とってもクリティカルな答えだった。つまり、ソースに直接アクセスできることによって、その情報の真偽を判断することができる。

トランプ元大統領のあるツイートを翻訳して日本のニュースとして話題に挙げていたのだが、その翻訳が全く間違っていたということがあった。日本の各メディアはその翻訳を全く疑いもせず掲載し、話題にしていたのだが、ソースに直接アクセスできる力や意欲があったら、そんなことは起こらなかっただろう。

誰かが仲介することにより、そこに思考停止が起こってしまう。その翻訳が正しいのかどうか、ソースに直接アクセスできる力がなければ、検証ができない。「古典なんて現代語訳でいい」とか、「英語なんて機械翻訳でいい」と考えている人は、そういう人だ。

みんながちょっとずつでも力を持っていることの重要性

ソースに直接アクセスできる力はみんなが持っている必要がある。特定の人が特別な力を持つだけではダメで、「知りたいな」と思うときに、辞書や何かのちょっとの手助けにより、ソースの情報を直接読み取ることができる力を持つことにより、みんなが「知る」という権利を行使することができる。

これは、民主主義の根幹を支えるもので、ある特定の人しか情報の入手方法が分からず、ある特定の人しかそのソースを解読できず、ある特定の人しか情報を手に入れられない世では、民主社会は作れない。入手方法を知らされず、入手できたとしてもそれが理解できないのでは、政府を監視できない。

それは「識字」にも繋がってくる。字が読めるということは、日常生活の「生きていく」ということに直接関わる必要な能力だが、字が読めることによって、教養を広げることでもある。教養を広げることは、特定の人にだけ必要なことではない。みんなにとって必要なことだ。

英語教育は、日本人にとって日本文化の「外」にあるものを知るという「教養」を広げるために必要なことであり、古典を学ぶことは、「今」ではない「昔」にあるものを知るという「教養」を広げるために必要なことだ。

教養を広げることも、学校教育では必要なことだが、いつ頃からか、生活に直結することしか重きを置かれない風潮が蔓延しだした。生活に直結することを最重要と考える人は、ベイシックインカム制度が敷かれたら、一部の優秀なエリートだけが頑張って仕事をして、その他は「何も学ばなくていい」とでも言うのだろうか*1

教養としての英語教育

  • 英語でコミュニケーションが取れる→街に英語母語の人は見かけませんが?
  • 英語で外国人に日本文化を説明する→そんな機会、現実にあるの?
  • 海外旅行に行ったときに、便利でしょ?→私が行きたいのは中国ですが?
  • いつか、英語が必要になったときに使える→「いつか」はいつなの?

こんな児童・生徒の問いに答えられる英語科授業が、意味のある授業なんだと思う。「入試のため」、「いつかのため」以外の問いに答える準備は必要だ。

もちろん、古典教育も同じように突きつけられている問題だ。

しして、「歴史教育」は、なぜ、こんな問題をあまり突きつけられないのか、不思議だなぁということで、この授業は終わった。

*1:極論?