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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

夢十夜 第六話

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久しぶりの「高校国語授業研究会」で、夢十夜についてディスカッションした。現代文教科書に掲載されているのは、だいたい第一話と第六話だ。私は第六話しか扱ったことがなかったな。
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ずいぶんと前、イチローが現役でバリバリ活躍して、たくさんの記録を更新していたとき、授業で扱った。そしてこんなことを生徒に言った。(脚色あり)

運慶というのは、仰木監督で、仁王というのはイチローだ。
イチローはプロになり立ての時、鳴かず飛ばずの選手だったらしいが、仰木監督が登録名を「イチロー」とし、イチローに好きに野球をしていいと伝えたらぐんぐん伸びて、「イチロー」になったということだ。
平成の世にも仰木監督が生きている意味がわかるでしょ?

そういうことをこの第六夜では言っているんだろうな、と思っていた。

先日、学部2年生と面談した際、「国語が苦手なんです。」と話してくれた人がいた。その人は音楽を小さい頃から演奏して、音楽が好きなんだという。

第六夜の話を思い出し、こんなことを言った。(脚色あり)

国語とか、文学って、法則しにくいものなのです。
文学って個人的なものだから。
国語の先生って、その作品に何が書かれてあるのか、表面にある言葉を読んで、奥底の核の部分を見つけ出すのが得意なんです。
でもどうやって見つけることができるのかを伝えるのはとても難しい。
見つけ方のノウハウは、その人のものであって、他の人が真似してもできるものじゃない。
苦手な人が真似をしても、その核の部分を彫り出せるとは限らない。
全く別のものを彫り出して見せて、「それは違うじゃない?」なんて言われてしまう。
だから苦手と感じてしまう。

私は音楽が好きでよく聞くけれど、演奏はできない。
きっとあなたは音楽を演奏するから、音という音楽の表面的なものに触れても、その奥にある核を見つけ出すことができる。
その核の部分を見つけられるから、良い演奏ができるんだと思う。
文学も同じこと。

じゃあ、それを見つけるためには「浴びる」しかないんだと思う。
作品をたくさん読んで、なんとなく、ちょっとずつ核に近づいて行くしかないんだよね。

「わかりやすい授業」なんていう言葉が学校現場でははびこっているけれど、簡単なノウハウでわからせても、それは核が誰かによって引っ張り出されて目の前につき出されているだけで、自分で彫り進めて見つけられたわけじゃない。自分の彫り進め方を学ぶのが学校の授業の役割だなぁと考える。

わからなくても「中腰」でいられる耐性(=簡単に「答え」に飛びつこうとしない力)がとっても必要。