Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

短時間で問題が解けると何かいいことがあるのか?

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いろいろと水を差すようだが、水を差していろんなことのバランスを取るのを勝手に今年の目標としたので、こんなことを思ってみた。

短時間でテスト問題や授業の課題を解くのに意味があるのか?

先日、学部2年生の授業で、教育関連のもやもやを挙げてもらい、それにまとめて答えるということをしてみた。挙げられたもやもやの中に、

時間内に解く、なるべく早く解く」という評価規準に意味があるのか?じっくり課題に取り組み、時間がかかっても解いていたことも評価すべきではないか?

というもやもやがあった。私はその通りだと答えた。そこで、ふと、解いた時間が短ければ短いほどよいと学校では考えているが、そうできることで人生においてどんな力が養えるんだろう?と疑問に思い、みんなに聞いてみた。大学は大学入学共通テスト前で授業はオンラインでおこなう事になっていたので、チャットに記入してもらった。

問題を早く解けると、実生活に役に立つと思えること

「テストの点数が良くなる(時間内に全て解ける)ということ以外、人生で役に立つと思えることを挙げてみてください」と質問したら、以下の回答があった。

問題が早く解けると、時間を他のことに回せる

なるほど。でも、そもそも問題を解かなければ、解いている時間を他のことに回せるよね。人生において、あのように時間を計られて問題を解くのって、昇進試験や資格試験、テストの時だけだから、それに良い点数を取るという力は付くかもしれないけれど、そんなことって、長い人生の中の一時しか無いし、そもそも学校を卒業した後全く無い人だっている。

進学試験、就職試験、資格、昇進試験等の試験をパスするための力は付くだろうけれど、それ以外の力は付かないのでは?

仕事をする上で、仕事を早く終わらせることができる。

授業の問題を早く解けるようになると、就職して仕事をしたときに早く終わらせることができるのだろうか?数学の問題を早く解ける人は、仕事をテキパキと終わらせることができるのかな?そもそも仕事って、「数学の問題を解く」というような、シングルタスクでは無く、想定以上のマルチタスクをこなさなければならない。1つの問題に没頭してそれを解く力と、マルチタスクをこなせる力って違うような気がする。

例えば、私にとって実生活での最大のマルチタスクって、料理なのだけれど、数品目の料理を作り、料理が完成したときには、使用したフライパンやまな板、包丁などが洗われているのが理想だ。これってかなりのマルチタスクで、それが達成することって、私の歳でも難しいのだけれど、数学の問題をあっという間に解ける人って、これはできるのかな?

焼き魚を焼いている間、味噌汁を作り、目玉焼きを作り、目玉焼きを作ったフライパンを洗い、ああ、味噌汁ができたと思ったら、焼き魚を焼いていることを忘れてしまうことなんてしばしばだ。こうなると真っ黒な焼き魚でご飯を食べることになる。

「そんなの慣れればできる」という人は、じゃあ、「仕事を早く終わらせる」ということも「慣れればできる」ということになり、数学の問題を早く解けることとは全く繋がらない。マルチタスクをこなせる人って、全く別の力が付いている気がする。

だからこれも当てはまらないのでは?

満足感を得られる

これが最も多かった回答だった。満足感、達成感を得られると思うが、じゃあ、学校卒業後、その満足感、達成感を得るために、自ら設定してなるべく早く問題を解こうとするだろうか?期末テストでも無いのに、時間を計って、数学の問題を解いて、「ああ、昨日は3分で解けたけれど、今日は2分50秒で解けた。やったー。」と思うだろうか?

それは、半強制的に「テスト」ということを設定されているから起こる満足感であって、学校卒業後や、資格試験などが無くても、そんなことを進んでやっている人はほとんど知らない。

それよりも、若いときに感じた疑問が30年後の今わかった!ということの方が満足感を得られる。20代に読んだ小説で、「どうしてこんな表現になっているんだろう?」と思うのだが、50代で読み返してみたら、それが解明できたという喜びは大きい。そうなると、早ければ早いほど良いのでは無く、遅ければ遅いほどこの喜びは大きいと思う。

結局テストでいい点数を取るという目的のため

「リフティング連続100回を達成する時間が早ければ早い方が良い」という課題がサッカースクールで出されたとしよう。スクールメンバーは一斉に行い、100回達成した人から座っていく。達成できない人は続けている。早く達成するためにリフティングを練習する。早く達成できた人の方がリフティングが上手いということになる。その力はどこに活きるのかというと、サッカーというゲームに活きていく。個々のボールを扱う力が上がれば、サッカーというゲームで勝つ可能性が高くなる。しかし、人生においては活かされない。当たり前の話だ。サッカーが上手くなりたい、サッカーのゲームに勝ちたいという人の集まりだったら、そういうことは当たり前だ。

でも、学校という多種多様な人たちの集まりで、「問題を解くのが早ければ早いほうがいい」という「固定観念」が蔓延しているのはおかしいのではないか?「テスト」というほんの一部の「ゲーム」のために、全員にその能力を付けさせる必要はあるのか?そう思い込ませる必要はあるのか?

そもそも、どうしてテストに制限時間が課せられているのか、というと、学校側の都合だ。一斉に時間を区切っておこなった方が「公平」という「固定観念」、成績を付けるタイムリミットがあるという学校側の都合(それは当然のことだと思うが)を、時間を限定した評価方法でおこなわざるを得ない(もちろん入試も)のだ。いやいや、定期テストを廃止している学校も出現してきた。

問題を解く時間が短ければ短いほどいいというのは幻想

私が若い頃、市民マラソン大会に積極的に参加している同僚がいた。その方は40代だったと思うが、「どうして上位入賞できないとわかっている、あんな苦しいマラソン大会に参加しているんですか?」と質問した。その時の答えにびっくりしたのだが、ジョギングを始め、マラソン大会に参加するようになった今、その答えがとてもわかる。

足が速い人は短い時間しか走れないけれど、私だったら長い時間楽しんで走れるでしょ?