片桐研究室の学部2年生Hさんは、毎日その日の出来事を手で書いて残しているそうだ。いわゆる「日記」なのだが、「手書き」である必要があるのか?というところから発想し、1人1台タブレットが配布され、手書きで文字を入力せずとも、タブレットにフリック入力、そのうち音声入力できるようになったとき、学校で行われている「紙に鉛筆等で文字を書く」という指導は必要になるのだろうか?という問いから、いろいろ考え出している。
今日の全体ゼミではそのことについてゼミ生たちが意見を出し合った。
- 手でも字が書ける人が珍しい存在に?
- 心がこもる?
- 「美しい字」を書く指導は必要?
- 文字を手書きするとき、どんな能力が開発されているのか?
- 手書き文字はお札、フリック入力されたデジタル文字は電子マネー?
- 科学の進歩とは、人間の能力を削ぎ落としていくもの?
手でも字が書ける人が珍しい存在に?
生まれたときからデジタル入力機器が周りにある子どもは、手書きで文字を入力するようになるのだろうか?今だって、手で字が書けないけれど、スマートフォンを操作できる子どもはざらにいる。その子たちはフリック入力で字を入力しているのだろうか?いや、文字という認識が確立していないときに、文字を入力するのだろうか?
それはよく分からないけれど、手書き文字を書かないまま育った人は、文字は読めるけれど、手で書けない(書かない、書く必要がない)ということになる。
えー、字って手で書けるんですか?
なんて驚かれる時代も来るのだろうか?
心がこもる?
手紙をもらったとき、手書きの方がうれしい気がする。もし、プリントアウトされたものだったらがっかりする、などという感情から、「心を込める」ために、手で字を書くことは残るかもしれない。「希少性」という価値を付けるためだ。じゃあ、手書きでレタリングして活字のような綺麗な字で手紙をもらったら、同じようにうれしく思うのだろうか?
好きなタレントのサイン、肉筆の方が価値が高い気がする。肉筆を印刷したものよりも、生で書いた方が価値が高い気がする。「希少性」があるからだろうか?でも、肉筆の手紙をもらったとき、「希少だ」と思って読むことはほとんどない。世ほどの有名人じゃないけれど。今のようにPCやプリンターが普及していないときでも、肉筆の手紙をもらったときに嬉しく感じた。これはなんだろう?
「美しい字」を書く指導は必要?
小学校の国語や、習字の時間、いわゆる「書き方」の課題では、薄く印刷された活字の上からなぞる練習をする。これは、いわゆる「整った字」を身に付けようとするものだ。この指導は必要になるのだろうか?
ある程度整った字は書けるようになった方がいいのかもしれないが、フリック入力で文字を出力できるようになった場合、手で書く必要はなくなるのだから、「最低限『その字』と判別できる程度の字」が書ければよくならないだろうか?いや、そもそも手で字を書かなくなるのだから、そんなことも必要ではなくなるのかもしれない。
「個性ある字」が書けることこそ必要?
先のタレントのサイン、いわゆる「整った字」ではない。そっちの方が有り難がられる。「なんて書いてあるの?」なんていうものが色紙に書いてあった方が有り難がられる。希少性が生まれるからだ。学校ではそこまで崩さなくても、「その人らいし字」であれば、いいのではないか?
「文字を書くのが嫌い」というゼミ生がいる。どうして?と聞くと、「自分の字は汚いから」と答える。「綺麗、汚いは感覚的なものだよね」とは返すが、「綺麗な字」信仰はほとんどの人にある。私も「綺麗な字」を読んでいる方が心地よい。それは、学校で「綺麗な字」信仰を浴びたからそうなのであり、その「綺麗な字」とは、活字だ。活字が漢字練習帳に薄い色で印刷され、それをなぞる修行を何年もくり返したら、そのようになるに決まっている。
しかし、それもいらなくなる。「読めればいい」、いや、「字なんて書けなくてもいい」となれば、手で字を書く場合、最低限「よめればいい」ということになり、そこに「綺麗」「汚い」という価値判断はなくなる。そうすれば、「字を書くのが嫌い」というのは、「書いた結果がどうだから」ではなく、「手で字を書くのは疲れる」という肉体疲労の面の理由になる可能性はある。
つまり、「自分の字を見てげんなりする」ということがなければ、「字を書くのが嫌い」という人はかなり少なくなるのでは?ひいては、「作文を書くのが嫌い」という人も少なくなるのでは?と予想できる。そもそもフリック入力で作文を書けば、そんな懸念も無くなる。今の大学生、手書きでレポートを書く人はほぼいない。
つまり、今後、文字を書く指導があった場合、「整った字」では無く、「その人らしい字」を目指すようになるべきなのでは?という予想である。「書き方」でも、「習字」でもなく、「書道」になっていく。
「美しい声」を出す指導ってされている?
音楽の時間、「美しい(整った?)声」を出す指導って「美しい(=整った)字」を書く指導に比べたら、それほど強いものではない。乱れた字を書く生徒に「字が汚いなぁ」とは言えるけど、美しい声じゃ無い生徒に「声が汚いなぁ」とは言わない。言わないようにしているということでは無く、その声自体を認めているのだ。「綺麗」「汚い」という価値判断で声を判断するのではなく、「その人の声(=個性)」として認識しているのだ。
自己表現の手段である手書き文字だって、そのように判断されてもいい。「その字」と認識されれば、声と同じように「それはそれでいいもの」と認識されれば、これほど「字を書くのが嫌い」と思う人もいなくなるはずだ。
文字を手書きするとき、どんな能力が開発されているのか?
これはしっかりと調べないと分からないことだ。逆に言うと、文字の手書きを全くしなくなったら、どんな能力が欠落するのか?ということだ。これを根拠に「手書き文字の練習が必要」と主張しなければならない。Hさんの来週の調査成果に期待するしか無い。
3D絵画がキー?
「ノートの決まったところに収まるように文字を書くと、空間認識能力が付くのでは?」という意見が出た。なるほど。その微調整を肉体で行うというところに能力開発のポイントがあるような気もしてくる。先日VRゴーグルのアプリを調べていたら、「3D絵描きアプリ」があった。もちろんヴァーチャル空間になのだが、ゴーグルを付けて、筆を持って、3Dの絵画を描くことができる。空間認識力が開発されるような気もする。今まで人間ができなかったことが、VRゴーグルで可能になる。今まで開発されなかった能力が開花される可能性はある。
余談だが、私はVR酔いがひどい。すぐに気持ち悪くなる。VR酔いにならない人に比べて、何かの能力が未開発(劣化?)なのだろうな、と思う。
手書き文字はお札、フリック入力されたデジタル文字は電子マネー?
おじいちゃんから「お年玉だよ」と言われて、5,000円をもらう。その時におじいちゃんが
PayPayで上げるから、スマホの受け取りQRコード出して。
と言われたら、「えっ?」と思うのだが、それは、我々の感覚だからであり、この数年生まれた子どもたちは、物心ついた時に「現金」というものは無くなっている可能性がある。最近では、神社や寺の賽銭を電子マネーで払えるようになっていると聞く。銀行でのコインのやりとりに手数料がかかり、そうせざるを得ないそうだ。
そのうち結婚式や葬式のお祝い、香典を払うときに、祝儀不祝儀袋では無く、受け付けにQRコードが掲示されるかもしれない。いや、もうそのようにされているところもあるのだろうか?
「手書き文字」も「お金(現金)」も、その価値以外のところにも「思い」が「乗る」部分があるんだろう。それが「心を込める」ということになるのだろうが、少なくとも「手書き文字」の練習がなされなくなる(=手書きで文字が書けなくなる)と、
「心を込められる何か」は存在しなくなる
ということは明らかだ。自分が「心を込め」たいと思ったときに、それが無いということは、「自己表現の手段が狭まる」ということに繋がることは言える。
科学の進歩とは、人間の能力を削ぎ落としていくもの?
いろんなもののデジタル化がなされていくが、デジタル化すればするほど、「本質」のみ残り、「枝葉末節」は切り落とされていく。だから「便利」と言えるのかもしれないけれど、「不要不急」に意味を見いだすのが人間であり、そこで生きている人もたくさんいる。
「本質」=「同質」なのであり、「同質」=「交換可能」となる。
学校教育は交換可能な「人材」を作るところでは無いと思っている。「その人がいて良かった」と周りが思うように成長させるところだと思うのだ。「その人がいて良かった」というのは「枝葉末節」の部分に宿っているのでは?と思う。
こんなぼんやりとしたまとめをして、とりあえず「続く」ハズ。