Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

学校は点の取り方を教えるところじゃない

今でも、例えば、「音声言語表現活動」の活動事例を先生方に提示して、「音声言語の練習も必要だよね」と伝えると、必要さは認めてくれるのだが、「どうやって評価するの?」という問いが必ず来る。ここでいう「評価」は「点数化」の意味だ。

「教育」と「点数化」は、親和性があるようで、実は相反するものだと訴えたい。「点数化できない教育活動の方が大切だよね」、ということだ。

球技

サッカーを始めとする球技は、主に点を取る競技だ。対戦相手よりも1点でも特典が多いと「勝ち」となる。「勝つため」に競技をする。

なぜなら、「そういうルールだから」だ。その試合において勝つことを目的とする。

もちろん、卑怯な手を使って勝つことを目指すことはルールで禁じられている。「フェアに勝つ」という条件が付く。この場合、「フェア」というのは、両チームとも「同じ条件で」という意味になる。

プロスポーツでは、「勝つこと」、「優勝すること」を目指す中で、「一番いい方法」が選ばれる。

洗練された、練られた、歴史のあるチームスポーツ界では、

チームメイトと意思の疎通を十分に行い、互いにリスペクトし合う

というのが、「勝つこと」、「優勝すること」の最善の方法と言われている。

誰にも負けない能力を持った1人の選手が、王様になって、傍若無人にふるまい、試合ではバシバシ点を取っていったとしても、短期的には得点を取って勝てるかもしれないが、長期的にはチームワークはバラバラになり、勝ち続けることはできない、というのが分析の結果だから、スポーツチームは「互いのリスペクト」を最優先しだしている。

一昔前のスポ根漫画では、スター選手が1人いればチームは勝ち上がっていたが、最近はそんな突出した能力を描き出すより、チーム内の人間関係模様を細かく描くようになって来ている。影山飛雄が「コート上の王様」では、試合は勝てない。

つまり、「勝つため」、「優勝するため」に「チームワークが必要」になる。

アーティスティックな競技

例えば、フィギアースケート。

フィギアースケートで見られるのは、「正確さ」と「美しさ」だ。

「正確さ」は数値化できるが、「美しさ」は、完璧な「数値化」はできない。「感覚」だから。

ちょっと前までのフィギアースケートには、「規定」というものがあって、氷上に描いた直線や曲線の上を滑ることで点数化した。「フィギア(=形)」スケートの語源だ。

しかしそれは廃止されて、「美しさ」を比べる競技に変更になった。

「美しさ」は人間の感覚だから、好みに左右される。審判の好みで演技の良し悪しが決まってしまう。その曖昧な部分をつき、オリンピックで大々的な不正が発覚し、それを防ぐために、それぞれの技が詳細にポイント化されるようになった。

ポイント化すると、「美しさ」の要素にもなるディテールが削られる。つまり、ポイントが取れない技はしなくなるのだ。

荒川静香がポイントが高くないイナバウワーを敢えてオリンピックで技に入れたのは有名な話だ。自分の演技の「美しさ」にこだわったものだった。

数値化と本質

柔道も国際的な競技になり、どんどん数値化(ポイント化)されていった競技だ。

もともとは試合に勝つには「一本」しかなかった競技のはずだが、「一本」取れずにいつまでたっても勝敗が決しない場合もあるから、「技あり」「有効」「効果」「指導」というゆるめの「ポイント化」が行われた。

国際化していくとともに、「分かりやすい」競技へと変化していった。そうするとやはり「勝つためにはポイントを取ればいい」という考えになり(もちろん、それがルールだから、それが悪いといっているわけではない)、そこを目指す柔道家も増えた。

ところが一方に振れれば、振り返しもあり、今のルールでは、「有効」以下はなくなり、決着もゴールデンスコア方式の延長戦となっている。(昔は主審1名と副審2名が優劣を決め、赤か白の旗を揚げてた。)

漫画「YAWARA!」で、柔道素人の伊東富士子が、「一本じゃなければ柔道の勝ちではない。」と、ポイントで優勢なのに、守らず、どんどん攻めていく姿があり、それを観た主人公が柔道の本質を感じていた場面があった。

「数値化」はその本質を見誤らせる危険がある。

教育は何のため?

さて、スポーツの話から、学校の話になるのだが、「本質」を見誤ってはいけないということが言いたいのだ。

学校の勉強を「点数化」、「ランク付け」をすることで、どんなことが起こっているんだろう?

長期的な「勝ち」を目指すスポーツチームだったら、「互いのリスペクト」がチームに必要だから、それを作って行く。

しかし、学校の勉強に関する「テストの点数」は、互いにリスペクトしなくても上げることができる。個人で覚えるものを覚えていけば、点数は上がっていく。「仲良くしよう」とか、「互いを尊重しよう」とかいうのは、テストの点数を上げるには全く関係ない。

もちろん、クラス内がギスギスしていたら、勉強できる環境じゃなくなり、テストの点数も上がらなくなるかもしれない。しかし、とりたてて「リスペクト」「仲良く」「尊重」しなくても、互いに邪魔しない環境だったら、点数は上がっていく。テストの点数を上げることで、人間関係が良くなっていくなんていうのは、幻想だ。

プロスポーツと違ってそうなるのは、テストの点数を上げるのが、比較的簡単で、短期的なことだからだ。勉強すれば(勉強時間をかければ)上がり、勉強しなければ(勉強時間がすくなければ)上がらない。それだけだ。さんざん自分を追い込んで、練習時間をかけ、技術を習得しているプロスポーツとそこが大きく違う。

むしろ、短期的に効果が見えるから、「教育効果はテストの点数で測れる」という誤認を生む可能性があるというか、そのように信じている教師も、児童・生徒もゴマンといる。

また、学校では、主に教科内容の「知識」を測るペーパーテストで、教科内容の習得を図ろうとしているのだが、教科内容は、「リスペクト」「他者の尊重」などを学ぶためではなく、自分のいる世界、自分の外の世界を学ぶために存在する。判断材料をインプットし、判断方法を身に付けるために存在する。

教科の内容をがっつり勉強した人で、反社会的、排他的な人はゴマンといる。

一般的には、テストの点数を上げようとしていれば、真面目に学校生活を送り、非行も起こさず、大学に行こうとし、教師にとっての都合の良い子どもとなっているように見える。

そこそこ勉強している人は、そんな生活態度なのだろうけれど、それは、勉強しているからではなく、そこそこ勉強する人は、そこそこ態度も良く、そこそこ大人の言うことも聞く、大人にとって「都合の良い」人を演じられる人だからだ。

だから、

点数アップを目指す=人格の完成に進んでいる

というのは、誤解であり、相関関係はあるかもしれないが、因果関係は無いように思える。

教育は何のため?というと、その目的の1つを

「変化するため」であり、「個々が、個々の方向性で変化するため」

と私は最近は考えている。長期的視点で人類が生き残る道は、これしかないのかな?とも思う。

個々が、個々の方向性で変化するには、1つの尺度(ゲージ)でその変化度(成長度)を測っていては、教育の本質を見誤る可能性が大きい。

点(ポイント)と内容(本質)

トップの写真は、今期好調のアルビの試合、対東京ヴェルディ戦(ホーム)の結果なのだが、4−3でアルビの勝利したものだ。この試合を応援したアルビサポは、このスコアーボードの写真をツマミに何杯でもビールを飲める。しかし、全く関わっていない人にとっては、この写真には「単にアルビが4−3で勝ったんでしょ?」という情報しかない。

大切なのは、点(ポイント)ではなく、内容(本質)だという1つの例だ。