今年入った学生で、音読の効果(的な学習)について研究しようとしている人がいる。
音読の効果って、きっと音読を課せられている学習者にはよくわからない。小学校低学年で宿題として「おうちの人に音読を聴いてもらいなさい。」というものが良くあるが、だいたい、「文字を正しく読む」ぐらいしか意識されていない。
まぁ、それでいいのだけれど、ここでもしいろんな要素がからんで音読が嫌いになったら、この子は音読を自らしようとは思わない。
そんな子だけが集まった時、「おい、音読ってこんな効果があるんだから、音読いっぱいしようぜ。」となるはずがない。「音読って、ダルイよな。」「そうだよな。」という話になり、音読をしないまま大きくなっていく。
「本当に必要なものは、学習者たちだけで見つけられるはずだ。」というのは真っ赤な嘘で、「思い込み」により、本当に必要なものは顔を見せず仕舞いだ。
50年以上音読している私としては、音読に様々な意味があるのがわかる。これは今、こんな歳になって気づくこともある。特に口周りの筋肉が硬直しつつある私としては、音読で筋肉を軟らかくするように訓練しなければならない。喋りが仕事なのに、自分の喋りについて過信は禁物である。
きっとそんなことは、小中高生にはわからない。なーんにもしなくても筋肉が動くのだから。これは若い時に運動しているかどうかにも通じることだ。
最近は謡曲を音読してるのだが、読み間違いをふんだんにする。読み間違いをした時に、「どうして読み間違うのか?」と考えるようになる。文字情報を視覚で捉え、音声変換と意味検索をし(メンタルレキシコン)、それを口周りや横隔膜の筋肉に伝え、発声する過程のどこかに不具合が生じるということを感じる。
こういうことを伝えるメンターがいなければ、それらを経験しない人は、音読しないで終わる。音読しないのだから、それらに気づくはずもない。
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