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上越教育大学 教職大学院 教科教育・学級経営実践コース 片桐史裕のブログ

カセットテープ・ダイアリーズ

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原題は「Blinded By The Light / 光に目もくらみ」で、こっちの方がよくないかな?舞台は1987年のイギリスの田舎町で、当時はまだカセットテープで聞くのが当たり前で、わざわざ「カセットテープ」と邦題に入れると、「古き良き音楽」というニュアンスが出てしまう。でも、主人公はソニーウォークマンで聞いていて、最先端テクノロジーを使っている。聞いている音楽はブルース・スプリングスティーンで、一世代前の音楽なんだけれど、だから「カセットテープ」と入れたのだろうか?

ブルース・スプリングスティーンは、ヒット曲しか知らない。当時ラジオから流れてくるヒット曲を聞いていただけだ。歌詞の内容なんて全く知らず、「Born in the USA」なんて、アメリカ賞賛のかっこいい曲だと思っていた。(つい最近までそう思っていた。)
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主人公はパキスタンからの移民で、移民だからこそ、クラスメイトから紹介されたブルース・スプリングスティーンの曲の内容を噛みしめて聞いたからこそ、自分の状況を歌ってくれていると感じた。貧困、人種差別、キャラクターの否定など。そこから抜け出て、この街から脱出したいと常々思っていたことをブルース・スプリングスティーンは歌ってくれていると思い、曲にのめり込んでいく。「何でこの人は自分の状況をわかってくれているんだろう?」と思わせてくれる。私にとっての山下達郎であり、かつての中島みゆきであり、佐野元春でもあった。そんな感じ。

とても好きな場面があり、ネオナチが街にはびこり、パキスタン人だと言うことで、馬鹿にされ、差別される。ブルース・スプリングスティーンを教えてくれた友達とレストランにいると、「そこは俺たちの席だ」とどかせる。いったんは席を移動するが、「ここで何か言わなきゃダメだ」と、ブルース・スプリングスティーンの曲の歌詞を友達と一緒に歌い、そいつらを圧倒する。

意志の力は言葉の力だ。言葉の力を借りることによって、態度をはっきりさせることができる。そんな風に、歌詞や小説や詩やマンガの台詞から、我々は意志をもらっている。格好良かった。

映画の中で、ブルース・スプリングスティーンの曲が何度もかかる。聞いていて、なんだか、知っているような曲ばかり、と思った。そうか、大学生時代、浜田省吾佐野元春を聞きまくっていたが、歌詞は浜田省吾で、曲調は佐野元春なのか、と思った。2人ともブルース・スプリングスティーンから影響を受けているということだ。

ちょいちょいあるフラッシュモブ的な演出は、こそばゆくなるが、その当時の高校〜大学生って、そんな感じでしょう。

最後の主人公の演説は、とてもよい。「全員が勝者じゃなければ勝ったことにならない。」分断によって国を治めようとしていたサッチャーへ向けた言葉であり、現代の世にも通じる言葉だ。

外国語の見方・考え方とは?

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外国語の「見方・考え方」

今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」では、「外国語」を扱った。「外国語」といっても、我々のイメージでは「英語」しか思い浮かばない。

高等学校学習指導要領解説には、

外国語によるコミュ ニケーションの中で,どのような視点で物事を捉え,どのような考え方で思考していくのかという,物事を捉える視点や考え方であり,「外国語で表現し伝え合うため,外国語や その背景にある文化を,社会や世界,他者との関わりに着目して捉え,コミュニケーショ ンを行う目的や場面,状況等に応じて,情報を整理しながら考えなどを形成し,再構築すること」であると考えられる。

とあるのだが、全くわからない。イメージが湧かない。新しい学習指導要領には「コミュニケーション」ということが前面に押し出されており、今までのものとは方針が変わっている。今までは「読み・書き」ばかりで、中学校から何年も英語を授業で学んでも、英語を喋れるようにならないという反省のもと改定されたのだと思われる。

「見方・考え方」は、解説の文章の「外国語」を「日本語」に変えたとしても、成り立つものだから、「外国語」を学ばなくても「どのような視点で物事を捉え」、「どのような考え方で思考していく」「文化を、社会や世界、他者との関わりに着目手捉え」「情報を整理して」の部分は、できる。

国語科でやりにくい唯一の部分は「再構築」のところなのかもしれない、という話に移行した。

そもそも英語を学ぶ必要性はあるのか?

「外国語」とはいっても、ほとんどの学校で扱われているのだから、「英語」と表記していく。

どうして「英語」なのか?ということだが、なんだかんだいっても結局は占領されたからだ。過去、植民地に対して母国語を使うことを禁止し、占領した国の言葉を使わせたという歴史は多々ある。植民地の文化を根絶やしにして、占領国の文化を浸透させ、占領国の言いなり、産業の消費地にするために、占領国の言葉を使わせるのは都合が良い。

幸い、アメリカはそのようなことはしなかったし、英語は過去の歴史(イングランドの各国の植民地化)により、多くの地域で使われるようになったので、「世界共通語」として「便利」な語となって、英語を学習すると「お得」だよという思われているが、これはたまたまアメリカに占領されたからである。

英語を学ぶ必要性に関しては、現在日本のほとんどの地で英語を学ばないと食いっぱぐれるという状態は起こっていない。日本の英語教育では「いつか役に立つかもしれないから」と言いくるめられて英語授業がおこなわれているが、その「いつか」は来ない。少なくとも私には来なかった。これからを生きていく若者には来るのかもしれないが、その時は日本の経済状態は悪くなり、人口が減り、移民を受け入れている状態なのかもしれない。そうなったら、英語よりも中国語を学んでいた方が食いっぱぐれが避けられるかもしれない。

英語を喋れるようになって、「世界」で活躍できる人材を育てる必要がある、と、まことしやかに言われてもいるが、そんなの全員じゃないし、その必要がある人だけ英語を学べばいいはず。じゃあ、外国語は選択科目にしたらいいのでは?と思う。「世界」で活躍をしたい人は英語を学び、日本文化を更に深く学びたい人は、中国語や韓国語を学べばよい。大学ではそうなっているが。

スマホ翻訳でいいのでは?

あと数年できっとAI自動翻訳機能がスマホにつく。これでいいのではないか?という話にもなった。学習指導要領が「コミュニケーション」を前面に押し出しているのだから、コミュニケーションを取るために、スマホがあればよい。自分の肉体が英語を発さなくても、スマホが発してくれるのだから、コミュニケーションを取ることができる。約7年前、高校教師だったとき、チェコから留学生が来た。授業によっては図書館で自習をしていた。その様子を見にいく当番となり、私はiPhoneを片手にコミュニケーションをはかった。チェコ語の翻訳機能を使ったのだ。

iPhoneがあったから、コミュニケーションを取ろうという気になった。私の英語能力だけだったら、英語で話しかけようとは思わなかっただろう。そもそも英語に関してはかなりの劣等意識がある。劣等意識があるものを使おうと思わない。そう、私は中学校からの英語教育で「自分は英語が喋れない」という自己評価を得たのだ。

コミュニケーションを取ろうという意欲は、iPhoneがあることによって生まれた。

今までの英語教育の弊害

授業を何年も受けることで、「正しい英語」というものがあることを刷り込まれる。それ以外は喋ってはいけない、と思わされる。英語の時間、頑張って喋ったら、「正しい」英語に直される。そりゃあ、コミュニケーションを取ろうという気は起きなくなる。「正しい」のか、「正しくない」のか、じゃなくて、「伝わった」のか、「伝わらなかった」のかが重要なのじゃないだろうか?それが「コミュニケーション」を前面に押し出している理由じゃないだろうか?

物事は言葉が正確じゃなくても伝わる。人と人とのコミュニケーションなんだから、こっちが間違っていたとしても、相手が意を汲んで解釈してくれるのだ。誤解してもそれを微修正していくことこそがコミュニケーションなのだ。大昔のコンピューター入力は、一言一句一字まで「正確」じゃないと受け付けてもらえなかった。今やAIで修正してくれる。英語教育も互いに微修正するのがコミュニケーションであると前提から始めた方がいいのではないかと思う。

言語が変われば見方が変わる

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内田樹さんは、「言語の檻」という言葉を使う。日本語を使っていると日本語の檻から出ることができず、思考も日本語的思考から抜け出ることができない。だから、外国語を学び、違う見方考え方を得るのだという。

確かに単語レベルでいえば、日本語で表す雨の種類と英語で表す雨の種類は違う。日本語の方が多いと容易に推測できる。これは当たり前で、日本は雨が多く、雨を生活に取り入れてきたからという単純な理由だ。英語が母語の人は、五月雨も春雨も区別ができないのだろうと思う。日本語を母語としているから雨への見方が変わってくる。こんなことは全ての言語でおこなわれる。

単語レベルだとそういうことは体感できるのだが、文章レベル、思考言語レベルで、こういうことを体感できないものか?と思う。「英語を使うから、こういう思考ができる」なんてことを体感できたら、とても楽しい。日本語じゃ、このことは考えられないけれど、英語だと考えられる、ということを体感してみたい。不幸にして私は英語で考えられないから、それができない。

あなたの人生の物語
あなたの人生の物語」(「メッセージ」として映画化された)では、エイリアン(ヘプタポット)の使う文字は書き出しと書き終わりがない。音声言語も始まりと終わりがなく、一息で全てを表している、という。よって、「時間」の捉え方が地球人と全く違い、過去とか現在とか未来の概念がない。よって、過去、未来を行き来できるというのだ。

主人公もその言語を習得することで、ヘプタポットと同じ思考、行動ができるようになっていく、というのが面白い。(映画の作りもそんな感じでかなり混乱するのだが。)

キング牧師のスピーチのような「かっこいい」表現を日本語でできるのか?という話題にもなった。「not-but構文」ってなんだかかっこいい。「肌の色ではなく、人格によって認められる」という表現よりも、キング牧師の使った英語がクールに感じてしまう。それは英語がクールだからということでは全くなく、「not-but構文」がクールだからだ。「no move no football」を訳すと、「動かないのはサッカーじゃない」って、日本語だともっさりしちゃう。

もちろん、日本語だとクールな感じになる表現もあるのだろうけれど。

授業で「○○を学ぶと利益が上がる」は逆効果ではないか?

内田樹さんは、さらに「英語を学ぶと上級学校に行ける、金が儲かる」というストーリーで英語教育がなされると、どうやって労力をかけずに英語を習得した証を得られるか?ということばかりにリソースを割くようになる、とも言う。つまり、簡単に英語○級の資格を得られれば、その抜け道を探り、資格を得ることがゴールとなる。これは大学入試でも採用試験でもなんでも当てはまる。

級を得ること、試験をパスすることがゴールだと思わせられると、「何のために」を全く考えなくなる。簡単に英語○級を得たとしても、新たな見方・考え方が得られていないというのは自分でわかる。何の成長も無いのだ。試験をパスすることはゴールではなく、スタートである。どうして医者になるのか、どうして教師になるのか、どうして大学生になるのか、それらがない人は、スタートの先をうまく歩むことができない。

これはもちろん他の教科でもいえることだ。教科そのものを学ぶ楽しさを学習者に感じてもらえなければ、「かもしれない」詐欺(役に立つかもしれない)教師となる。その教科を学ばなくてもいいじゃん、ということにもなる。その教科を学ぶ楽しさ、学びの楽しさを伝えられないんだったら、教師としての技量は低いといえるだろう。

英語の授業は英語でコミュニケーション取れるようにするもの

受講者と私で、「どうして自分たちは英語でコミュニケーションを積極的に取ろうとしないのだろう?」という対話から出た話題をつらつらと書いてきた。自分たちが受けてきた英語授業が自分に合わなかったということに過ぎないのだが、特に私の受けてきた英語授業は、コミュニケーション前提の授業じゃなかった。英語を喋らず何十年経つだろうか?

そもそもコミュニケーションとは体が欲するものである。英語という手段を得れば、一挙にコミュニケーションの相手は何十倍、何百倍にもなる。しかし、結果として私が受けてきた授業は、英語でコミュニケーションを取りたくない、と思わせるものであった。だって恥ずかしいもの。その「檻」を壊すことが英語の授業では先ず必要なことなのではないか?という結論だった。

えちご川口温泉

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2回目の来館。緊急事態宣言解除から、結構時は経っているが、解除後すぐと同じ対応をしているえちご川口温泉は、信頼できる温泉施設だと思った。来客は県内限定ということではないと思うのだが、住所等を記入し、手の消毒を促している。

客は少なく、ゆったりできた。今回サウナは前回よりもとても熱く感じられて、いつもは3セット目は12分入るのだが、それが我慢できなかった。客が少なかったからだろうか?とは言ってもサウナで一人きりになることはなく、テレビを消すことができなかった〜。

前回よりも気温が高くなり、露天風呂の縁で寝転ぶと、背中にじわりと温かさを感じられて、とても気持ちよかった。遠くの鉄橋を列車が渡る音や、トンビの鳴き声が聞こえ、これだけでリラックスできるのは当然だ。

気温が高くなると、ここの水風呂は水道水ということだから、やっぱりちょっと温度が上がってきているのを感じる。いくらでも入れる感じなのだが、3セット目にふと思い立って、水風呂での半身浴を試みた。なんと、全身漬かるよりも冷たく感じる。半身浴にすることで、血流が強くなり、全身に冷たさが回る感じがするのだ。下半身の冷たい状態を上半身の温かい血液で戻そうとする働きなのだろうか?上半身も冷たく感じてくる。そして、休憩前に上半身も水に沈めると、冷たさが倍増して感じられた。

夏の水風呂対策は、半身浴で決まりだな。

ここの夏野菜カレーもおいしかった。

今日のととのい度→3 ☆☆☆★★

「山月記」ラップ

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今日の「中学校高等学校国語科授業づくり演習」は「山月記」ラップを作るという実践だ。うちのゼミの西岡君の今年のテーマ「ラップ」なのだが、国語でラップを取り入れたら、どんな効果があるのか、未知数ということで実践し、意見をもらう授業だ。

ラップを導入するねらいは、「言葉の響き、リズムを意識する」ということだ。私もラップを作ってみて、どんな意識が使われたかというと、音韻の感覚だ。俗な言葉でいえば、「ダジャレ」みたいなものなのだが、なんだかそれとも違う気がする。それでも、私はダジャレが口をついてくるようではないので、かなり苦労した。

ラップはラップでも「山月記ラップ」である。山月記に使われている言葉を用いた方が雰囲気出るし、山月記だからこそ、取り入れると心地いい漢語がふんだんに使われているから使わない手はない。そしてその漢語の韻と同じような別の語も見つけなければならない。というように、かなり頭を使う作業だった。ラッパーはこんなこと事もなげにやっているんだろうか?

私の作品は、こんな感じ。

オレは空谷に向かって咆える
オレは月に向かって咆える
人間の生活を終える
獣の一線を超える
そびえる山 輝く月
おびえる木々 ざわめく露

「クライマックス」の場面から取った。

どこを切り取るかで、山月記へのその人の見方がわかってくる。課題は「李徴の気持ちを表す」だったので、ストーリーが進むにつれて、いろんな場面のいろんな李徴の気持ちでラップを作ることができる。それだったら、いっそう、ラップで山月記のストーリーを語る、という活動もできるな、という話も出た。しかし、「ラップをすることで解釈を深める」というものになり、当初の「言葉の響き、リズムを意識する」とずれてしまう。それなら、群読でもいいはずだ。

また、ほとんど描かれていない袁傪、全く描かれていない妻や子、役人だったときの上司のラップも考えると面白いと話題になった。特に李徴の子のラップをどう作るかは、様々な想像が膨らんで、面白いかもしれない。

山月記には漢詩が載っているのだが、山月記のものに限らず、漢詩の学習では、字数とか韻の場所とか、知識でしか学ばないことがある。それが反映するのは、中国語(古代)で読んだときだけなのだが、漢詩の学習は書き下し文でなされ、音韻的な感覚は、体感することができない。しかし、漢詩をラップにすることで、それを少しでも感じることができるのではないか?と感じた。ラップ以外でそれを体感できる実践はあるのか?これなら、「音の響き、リズムを意識する」方向になると思われる。

西岡君は去年「漢詩の英訳化」という研究をしたが、今年は、「漢詩のラップ化」という研究もしてみると発展するのでは?

西岡「先生」と、私のラップは、YouTubeで。

山月記ラップ 2020/07/02の大学院授業の実践

かわら亭

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回数券を買ってしまった(1年間)。なんだかんだいっても、テレビが入ったとしても、外の水風呂がある限りは、ここがホームサウナだ。

最近あまりにも体がなまっているので、ランニングをしてからサウナに入ることにした。かわら亭があるところは、人通りがないので、マスクをしなきゃという配慮が全くいらない。ランニングするのに人と全くすれ違わない。まぁ、最近は暑さのせいで、外でのランニングでもマスクをしなくても大丈夫という見解が出ているのだけれど。感染のリスクよりも熱中症のリスクが高くなるし、熱中症で運ばれることによって、医療現場への負担が増えるという、リスクマネージメントの結果だろう。

いつもは上越市の方に向かって走り出すのだが、今日は逆方向、つまり、長野の方へ向かって走り出した。途中国道脇の道に入り、ずんずん長野に向かって行く。そうだった。長野に向かうということは、緩やかな坂を登っているということなのだ。走り始めで坂はかなりきつい。道の駅新井近くになったら、1㎞7分台になってしまっていた。3㎞ちょっとで折り返してかわら亭に向かう。

木曜日だからなのか、風呂に入っている人はとても少ない。以前訪れたときよりもかなり少ない。結局サウナに3回入ったのだが、誰とも一緒にならなかった。最高の状態だった。1人だったので、すかさずテレビを消した。このサウナ、テレビがあるのだけが唯一の難点だったが、1人だったら消してもいいだろう。その後誰もサウナに入ってこず、ゆっくりとオルゴールの曲を聴いて、自分に向き合いながら、サウナに入ることができた。

転職して2年目でここのサウナを知ったのだが、2年目当たりは、かなり仕事で追い詰められていた(今も解放されているということでは無いが。)。その時、閉店間際のかわら亭に来て、一人のサウナ室で自分に向き合ったことをよく思い出す。精神的にまいったときは、肉体的な解放でバランスをとるんだな、とも思った。そんなこともあるので、このかわら亭が好きである。

今日の気温は28℃前後だったので、水風呂の水温は20℃近くになっていたかもしれない。いくらでも入っていられるほどの水温だ。しかし、水風呂は水温じゃなくて、水質だと思ってきた。この水の匂いと、しっとりと肌になじむ質感はとても気持ちがいい。冬になるとビンビン肌を攻撃する冷たさなんだけれど。

サウナでも水風呂でもリラックスできた。ただ、雨がポツポツふってきたので、休憩はなんだか雨が当たってリラックスできなかったかなぁ?

今日のととのい度→3 ☆☆☆★★

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語

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2019年 アメリ

若草物語」は読んだことがなかった(と思う)。もしかしたら昔アニメで観たことがあったかもしれないが、すっかり忘れていた。4人姉妹の物語というと、「海街diary」を思い浮かべてしまう。

それはそうと、「若草物語」に新たな解釈を加えていて、それが素晴らしいという評を聞いたし、綺麗な女性がたくさん出ているというので、観に行った。最近閉塞感があったから。3月に日本公開だったが、コロナ禍渦で、「6月公開」という修正されたポスターもアップされていた。映画館は密とはかけ離れていた。

ジョー(シアーシャローナン)がとにかく魅力的に撮られていた。若いときと今がどんどん入れ替わって描かれているのだが、それぞれがチャーミングで、美しかった。表情豊かで、活発な女性だった。

しかし、私は欧米人の見分けがうまくなく、「若草物語」の事前知識も皆無だったため、登場人物の把握に一苦労した。ジョーは長女だと思っていたら、次女だったし、三女と四女の区別が初期の頃はできなかった。そして過去と今が入れ替わり立ち替わり描かれているので、かなり混乱した。でも、過去を描いている画面は色鮮やかで、今はちょっとくすんでいるという描き分けをしていたので、何とかわかった。

ジョーは女一人で生きていくことにこだわる。結婚相手がいなかったわけではないが、結婚しか女性の道がないことに反発して、社会を試しているかのようだった。

ジョー(シアーシャローナン)は、いろんな表情があるのだが、過去に会ったことがある誰かに似ているなぁと思いながら観ていたが、それが誰だか映画が終わるまでわからなかった。

暗い部分もあったが、全体的にはすがすがしい映画で、最近鬱屈していた私にとっては、観て良かった映画だった。

読書指導

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本日の「中学校高等学校国語科授業づくり演習」のテーマは「読書指導」だった。

読書の効果とは?

基本的に私は、読書はした方がいいと思っている。読書をした方が文字を読めるようになるし、語彙が増えるし、文章に対する毛嫌いが薄れるのではないか?と思っている。また、リアルな経験だけでは広がらない他人の「人生」が描かれている本を読むことで、自己の世界が広がると思っている。

ある人は、論理的思考力がつくという。ある人は言語感覚が上がるという。ある人は他人を理解する力が上がるという。しかし、それらのエビデンスに出会ったことがない。私もそれらの力がつくのだろう、とぼんやりと思うのだが、データを元にしたエビデンスにお目にかかれないのはなぜだろう?教育研究、心理学研究で語られてもいいような気がするが、出会ったことがない。どこかにあるのだろうか?教えてほしい。

考えてみれば、「読書」というと幅が広い。読む本を限定しないというのが「読書指導」ではないだろうか?「この本、この作品を読みなさい。」となると、国語科でおこなわれている事になる。そうではない。「読書」の最低限の条件は、「「本」として出版されているある程度まとまった文字言語を読む」なのだと思う。新聞を読んでいたら「読書」とはならないし、雑誌も「読書」といえるかどうか曖昧だ。マンガを「読書」の範疇に入れていない「学校」は多いだろう。

本であればなんでもよいということにして、支離滅裂な内容の本を読み続けていて、論理的思考力がつくとは思えない。筒井康隆「バブリング創世記」を読み続けて、言語感覚が上がるかどうかは人それぞれだ。全編人間不信を元にした本を読み続けたら、他人を理解しようとは思いたくなくなるだろう。

つまり、「読書をすると論理的思考力がつく」と主張している人は、「論理的思考力を鍛えるような本を読むと論理的思考力がつく」ということを言っている。どんな本を読んでも「論理的思考力」がつくとは主張していないのではないか?そうなると、それは当たり前なのではないか?逆に、読書をしなくても別の手段で論理的思考力を付ける方法だってたくさんある。

この曖昧さが、「読書指導」のぼんやり感を生んでいる。

学習指導要領では?

中学校学習指導要領解説国語編には以下のようにある

総則編
(5)読書指導の改善・充実
中央教育審議会答申において,「読書は,国語科で育成を目指す資質・能力を より高める重要な活動の一つである。」とされたことを踏まえ,各学年において, 国語科の学習が読書活動に結び付くよう〔知識及び技能〕に「読書」に関する指導事項を位置付けるとともに,「読むこと」の領域では,学校図書館などを利用 して様々な本などから情報を得て活用する言語活動例を示した。

ちなみに、学習指導要領の他の教科には「読書」という文字は全く出てこない。

ここを読むと、「読書」が上位項目で、「国語科」がその下についている感じだ。つまり、「読書に親しむ」ために国語科があるような書きぶりだ。読書ってそんなにいいものなの?私はいいものだと思っているのだけれど、そうと捉えない「読書嫌い」の人はたくさんいる。そんなにいいものだったら、言われなくてもみんな読書をすると思うけれど、年齢が上がっていくにつれて、読書をしなくなるのはなぜなんだろう?「○○の年代は1カ月に○冊しか読んでいない。」と報道でよく目にする。それって、そんなに大変なこと?

読書の価値とは?

授業でも「私はパチンコを毎日やっています。」という人と、「私は読書を毎日しています。」という人では、読書の人の方が「えらい」と思えてしまうのは、なぜか?という話題になった。どうして読書の方が「高尚」なのだろうか?読書って「楽しみ」じゃないの?その楽しみを学校で指導するのはなぜ?パチンコの打ち方を指導する学校はないよね。それには、少なくとも教育的効果があるだろうと思われている。しかし、その教育的効果(価値?)は、はっきり言って人それぞれだ。他人に言われた効果が自分に発揮されるとは限らないのだ。

だから、「読書は趣味だ」という人もいれば、「読書は勉強だ」という人もいる。それぞれ「価値」があるように思えるが、学校での指導となると、ちぐはぐになってしまう。読書マスターのような子どももいれば、読者ビギナーのような子どももいる。読書マスターには、ビブリオバトルのようなことをしかければ、ハマるのだろうけれど、ほとんど読まない人にビブリオバトルを仕組んでも、読書をしないし、どの本を読んでいいかわからないし、読み取れないのだから、プレゼンなんてできるはずがない。

この、「なんだかわからないんだけれど、価値があると思ってる(思わされている)読書」「その価値は、人それぞれ全く違う読書」という立ち位置が、読書指導の曖昧さを生じさせているような気がする。

どんな読書指導がいいのか?

子どもたちそれぞれの「読書レベル」全てに合った読書指導というのが見出せない。本を紹介する、本を紹介させる、POPを作成する、ビブリオバトル、読書会などなど、本を好きな人だったら食いつくようなネタ、本を好きな人だったら、退屈に思うネタ、様々だと思う。だから、いろんなことをたくさんやるしかないのだとは思うのだが、そんな時間が確保されているかというと、そうでもない。先の解説の総則編にあった「学校図書館などを利用 して様々な本などから情報を得て活用する言語活動例」は、いわゆる「読書」ではない。資料探しだ。

現職教員の受講生が、「図書館に連れて行って、放っておいた。」という指導を紹介した。これは、どのような「読書レベル」の人にもある程度の効果がある指導なんだと思う。つまり、自分の読書レベルに応じた活動ができるのだ。「読書は趣味」と言う人にとって、押しつけられるのは苦痛でしかないはず。じゃあ、自分に合ったことができる機会を持つというのが究極の読書指導なんだろうと思う。

「自分に合ったことができる機会」ができるものとして、「朝の読書」がある。朝の読書は私が高校教師時代におこなった活動だ。ある学校では、自分のクラスだけ朝のSHRの時間、読書をした。それを全校に広めようと思ったが、抵抗勢力によって叶わなかった。また、ある学校では、私の国語の時間最初の10分間自由読書の時間とした。これも、抵抗勢力によって問題視されてしまって、中止を余儀なくさせられた。単に読書をするだけなのに、どうしてここまで抵抗してくるんだろう?と疑問に思った。だって、少なくとも教員の多くは読書をすることがいいと思っているのだし、読書指導は国語の領域と学習指導要領にも書かれてあるのに、国語の時間にやっていても管理職がつぶそうと動いてくる。全く理解に苦しんだ。

朝の読書

「朝の読書」は、スポーツで言えば準備体操、アップだと思っている。勉強の大部分は言語を使う。その言語がすんなり入ってくるように準備体操としての読書をする機会を設けるのだ。もちろんデータ的なエビデンスはない。感覚で、「きっとそうなんだろうな。」と思うし、実感もしている。サッカーで言うリフティングであるし、相撲で言う四股である。私にとって朝の読書はそれ以上でもそれ以下でもない。10分で読書時間がぶつ切りにされて、嫌だったとか、趣味である読書をどうして時間を取って一斉にしなければならないのか?と言う人がいるが、「マラソンの距離を走りたいのに、体育ではグラウンド5周で終わってしまうのはなぜか?」「趣味であるジョギングをどうして体育で一斉にしなければならないのか?」という問いにちゃんと答えられるようになってから、その問いを投げかけて欲しいと、いつも思っていた。

朝の読書は生徒指導的な面が強いと思っている人も多い。遅刻させないために朝の読書という、本末転倒な目的のために導入した学校もあるらしい。そうではない。朝の読書は本を読むため、文字を読むためにあり、それ以上でもそれ以下でもない。いろんな教育活動の目的を歪めて捉えることで、指導が困難になるし、効果も上がらない。歪んで捉えた場合、「遅刻が減らないから、朝の読書はやめた」という流れになってしまうが、今までよりも文字をたくさん読んだんですか?今までよりも本に触れる機会が増えたんですか?という問いを立てる人が少ない。朝の読書を実践して、読む文字数が減ったという結果が起こったところがあるのなら、教えてほしい。

結論:全て曖昧に言っているから曖昧な指導しかできない

まずは「読書」は何を指すのか?「なんでもいいよ。」とするべきなのだが、なんでもよいと思わない教育者が多い。教科の力がつくような本しか読書としては認めないと考えている教育関係者は多い。そして読書の効果は何なのか?これも曖昧だ。読む本によってそれから得られる力は違うはずなのだが、それも明らかになっていない。そして読書は趣味なのか、学習なのか、これもわからない。私は「なんでもいい」という立場をとっているので、「読みたい本を読む」のでいいと思う。

もっともっと穿った見方をすると、どうしてこれほど「読書した方がいい」と一般的に言われているのか。出版不況を乗り越えるため。新聞社がつぶれないため。というところに少しは繋がっているのだと思う。それが悪いと言うことではない。出版社や新聞社がどんどんつぶれると、民主主義の根幹が揺らぐからだ。しかしそれをオブラートに包んで、曖昧な「効果」を前面に出して「読書をすべきだ」というのはボロが出る。

民主主義社会を維持するために読書が必要

とした方がすっきりするのかもしれない。「リテラシーがなければ、欺される」ということだ。それでいいのだ。