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上越教育大学 教職大学院 教科教育・学級経営実践コース 片桐史裕のブログ

学級経営(広義の)で最も心がけけておかねばならぬこと

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後期の大学院授業では、学級経営(集団づくり)も受け持っている。そこではディスカッションを中心に、あるべき学級担任の姿を掘り出すことをしている。

学級(教科)担任には当たり外れがある

学級担任制の功罪を話題にした時、若い院生さんは、「自分は学級担任を外れだと思ったことがなかったので、学級担任制を廃止しなくても良いと思っていた。」という回答があった。そう、学級担任には当たり外れがある。しかし、それは児童・生徒にとって絶対的なものではなく、そのクラスのある生徒にとっては当たりでも、ある生徒にとっては外れであるという現実がある。

問題は、学級担任を児童・生徒は選べないということなのだ。

選べればいいのか?

それじゃあ、流動学級制をしいて、一定期間後担任を選べるようにすればよいのか?ということになる。そうなると、その先生を好きな児童・生徒がそのクラスにどんどん集まることになり、その先生を支持する人たちのクラスが出来上がる。その先生が右といえば右に、左といえば左に向くようになるのではないか?という話になった。生徒たちにとって「当たり」の学級担任である。これって、いいクラスになるのだろうか?

そうなると何が起こる怖れがあるのかというと、先生の周りは自分を支持する人ばかりなので、「腐敗」が起こる。その先生に意見を言う人がいなくなる。文句を言う人がいなくなる。これって、健全な集団を作るために弊害にならないか?忖度ばかりする集団がどうなっているのかは、周知の事実である。児童・生徒にとってばかりか、先生にも成長がなくなる。

というと、一概に、「当たり(=いい先生)」に持たれたからといって、いいことは起こらないのではないか?という話になった。

様々な人と様々な機会で接することができる

いわゆる「抱え込み」が弊害をもたらす。ある先生(当たりでも、外れでも)がずーっとその生徒に接しなければならないということが弊害を生み出すのだから、それをやめればいいということになる。つまり、「ローテーション」だ。子どもたちにとって(もちろん大人たちにとっても)、ある一定期間でいろんな人と接することができるシステムを作れば良い。学校でいえば、教科担任制である。

しかし、教師は抱え込みたくなる。そのクラスの担任だとなると、「自分が全て面倒を見たいし、他から口を出されたくない」と思ってしまう。実際の所そこが問題なのだ。しかし、教科担任制が敷かれると、子どもたちは1日にいろんな先生と接することになるし、逆も然りだ。そうなると、世の中には「合う人間、合わない人間」、「信じられる人間、信じられない人間」、「きらいだけど正しいことを言う人間、好きだけれど、いい加減なことを言う人間」がいるということを体験していく。

その中で、社会に出てからの「耐性」を養うことができる。「大人のいうことは全部信じろ」、「先生のいうことは何でも従え」ということにはならなくなる。児童・生徒が取捨選択出来るし、合わない児童生徒がいた場合、どのように接していけばいいのか教師は考える。

「教職員が一丸となって」はいいこと?

「教職員が一丸となって」という指導方針が必要と言う人が多くいるが、一丸となって同じ方向に向かせようとした場合、その方向は絶対的に「正しい」と言うことができるのか?間違っている場合だってあるじゃないか?絶対的な「正しさ」というのは、「死なない、殺さない、裏切らない」程度しか無い気がする。それは教職員が一丸となって指導するべきものなんだろうけれど、他の場合は、いろんな指導があってよい。いろんな指導に触れさせることも必要だ。

最終的には児童・生徒が自分で選べる力をつける環境作りを「一丸となって」するのが良いのだと思う。

文章がうまくなりたいって思っているのかな?

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院生と「喋れるのに書けない」ということについて、そして「どうして文章を書くのを毛嫌いするのか?」について対話した。作文の課題で、なかなか書けない時に、質問をするとそれに答えられる。「じゃあ、それをそのまま書けばいいんだよ。」と伝えても書けない。喋ることと書くことの間にどのような壁があるんだろうか?

上手な文章を書きたいと思っているか?

私は、学生時代たくさん文章を読んでいたと思う。たくさん読んでいると自分に心地いい文章が自ずと見つかるので、そんな文体で書けるようになったらいいな、という憧れがある。それは筒井康隆のような、どんどんと狂気に向かって行くような文章だったり、奥の細道のような超簡潔で、行間から伝えたいことがにじみ出るような文章だったり、最近では、西尾維新のようなことば遊びとストーリーとちょっとのエロが入っている文章だったりする。

児童生徒はそんな文章への憧れというものがあるのだろうか?という話になった。このような憧れって、たくさん触れないと生まれない。たくさん文字を読まないと生まれない。文章を読む機会がどんどん減っている現代では、そういう憧れを持つ児童生徒は減ってきているのではないか?という話になった。

いや、もしかすると私の年代でも「憧れの文章」というものを持っている人って、そうそう多くはないのかもしれない。

文章教育はほかの教育に比べて欠落している何かがあるのでは?

幼児の時に、お絵かきをしていて、親など周りの大人はその絵を見ると、「おー、○○ちゃん、上手に絵が描けたね。」と褒める。それは小学校に入っても続く。同じように歌を歌ったら、どんな歌でも褒める。褒め続ける。中学ぐらいまでそういうことは続くのではないだろうか?

ところが、ことに文章になると、文章を書いたら小さい頃は褒められるのだろうけれど、だんだんと、字が汚いやら、漢字が間違っているやら、平仮名が鏡文字やら、そんなことを指摘されてしまう。しかもかなりの低年齢時から。そんなことされたら、文章を書くのが嫌いになってしまうのは必至だ。

絵を描いていて、見た目の色と絵に塗られた色が全く違っていても、「おー、個性的だね。」とか、「もしかしたら、この子はピカソの再来か?」とか、デッサンがぐにゃぐにゃでも、「もしかしたら、この子はダリの再来か?」、芸術は爆発だ!という評価がなされることが多い。

ところが文章に関してはそうではない。書いてあることが支離滅裂だったら、「この子は大丈夫なのか?」と思ってしまう。狂気じみていたら「この子は筒井康隆の再来か?(存命中)」と思うことはあまりない。どうして文章に関しては「写実的なもの」が求められるんだろう?

もちろん実用的な文章を書く場合はそういうことは、重要な要素だが、文章は自由なもので、実用的な文章だけを書いているわけではない。他の芸術と同じような自由な部分も伸ばしていかなければならないはずなのに、それが欠落している。

文章の模倣はタブーなのか?

美術を学ぶ時、模写という手段がある。優れた絵描きのデッサン、色使い、筆使いを学ぶためにある。音楽を学ぶ時にも、優れた歌手の歌い方を真似る。ところが文章を学ぶ時に、優れた作家の文章を真似るという手段はあまりとられない。なんとなく自分の中にある文章の断片を自分の直感に従って文字に書き起こしていくやり方しかない。文字化されたものは既に結果であり、その結果についてとやかく指導される。文章を紡ぎ出す過程についての指導は学校ではあまりなされることがない。

作家の文体を真似て書くという課題がもっとあってもいいのではないか?とも思う。しかし、教材化はとても難しい。なぜなら国語教師は文体についてほとんど学んでいないからだ。「漢文調」、「和文調」などざっくりとしたものは授業では取り扱うが、「村上文体」とか、「筒井文体」とか、私も「これがそうだ」と示すことが難しい。

それでも、こういう授業、面白そうだと思うし、国語授業で文体について取り扱ってみたらいいのではないか?

  • ギャル語で自己PR文を書く
  • ラップ調で環境問題についての小論文を書く
  • ダジャレをふんだんに交えて、理科のレポートを書く(西尾維新調)

そうすりゃ、作文も楽しくなる。

実用的な文書はどのくらいの人に必要なのか?

学校教育で求められているのは、「きちんとした文章」だ。誤字脱字が無く、かかり受けが正しく、文体も統一している文章だ。通知文書や指示文書のようなもの。でも、これって、どのくらいの人に必要なものなのだろうか?実用的な文書は理解する必要はあるけれど、書ける必要はあるのだろうか?大体、実用的な文書はテンプレートがあって、それに日付やタイトル、場所などを差し替えればいいだけのものがほとんどだ。実用的な文書をイチから作成する職業って、ほんの一握りの職業に限られている(我々研究者は「論文」という実用的文書の粋みたいなものを書いているけれど)。

だから、高校で小論文を書く指導がなされている。もちろん小論文を書くことによって思考が整理されるということはあるのだが、じゃあ、書かされた高校生のうち、どの位の人が論文を書く必要があるのかというと、大学に行く人くらいしかいないのでは?しかも、大学でも卒業論文を課さないところもたくさんある。そして大学を卒業したら、そんなものを書くことはほとんどの人が無くなる。

つまり、実用的な文章を書かせようとして、その文章自体実用的なものではなくなっているという矛盾がある。そんなことも考えないで、学校ではせっせと小論文を書かせている。小論文、本当に必要なんですか?入試のためダケジャナイですか?

生涯にわたって文章制作を楽しむ

現代はかつてなかったほど人類が文章を書き、文字データが全世界を行き交いしている時代だ。今の児童・生徒はそのような中で生きて行くのであり、じゃあ、文章を書くこと自体を楽しめるようにすることも学校教育に必要なのではないか?とも思う。スポーツを行うのは、プロになるためだけでは無く、生涯にわたってスポーツを楽しむためであるように、文章を書くことも生涯にわたって文章制作を楽しむためであるべきだ。

そういう視点を持つことによって、「文書嫌い」の児童生徒を減らすことができるのではないか?と思う。

作家になるためだけに文章を書くのではない。Jリーガーになるためだけにサッカーをしているわけではない(写真は駄洒落でした)。

ディエゴ・マラドーナ 二つの顔

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ユナイテッド・シネマで鑑賞 2019年 イギリス

サッカーファンでありながら、マラドーナが活躍していた時は、大学生だったので、サッカーなんてワールドカップをちらっとしか見ない時だったので、マラドーナがどれほどすごいプレイヤーなのかわからずにいた。

2019年制作の映画だが、先日亡くなってしまったので、日本でも上映されるようになったのだろうか?

とにかく、マラドーナは虐げられていた人たちにとっての身方、英雄、神であったからこそ、引退してからの行動はいろいろスキャンダルだったけれど、今でも愛されているというのがわかった。

フォークランド紛争が劣勢のままメキシコワールドカップが開かれ、準決勝で紛争の代理戦争と呼ばれたアルゼンチン対イングランドが戦った。そこでの「神の手」+「5人抜き」でアルゼンチンは勝利をつかみ、決勝では西ドイツに勝ち、優勝する。

「神の手」も「5人抜き」もそれぞれ映像で見たこともあるし、有名なプレイだが、このイングランド戦で行われたということをこの映画を見て初めて認識した気がする。1試合でこんな奇跡的なプレイを2つもして、しかもイングランドに勝つなんて、それだけで神格化される理由は充分にある。

BCバルセロナからSSCナポリに移籍していたのだが、1980年代のセリアAの応援なんて、今のJリーグだったら無観客試合レベルのひどいことを言っている。特に、北部の南部への差別意識が強く、南部にあるナポリは、生活環境も良くなく、虐げられていて、北部チームのサポーターは、例えば、「臭い、風呂に入れ」とかいう汚い言葉をチャントで張り上げる。もちろんナポリのサポーターもそれに対抗してはいるのだけれど。

そんな時代にマラドーナナポリに入り、今でもビッククラブのユヴェントスやら、ACミランなんかを下すのだから、すごいことだった。サポーターが熱狂するのもうなずける。しかしこの熱狂がマラドーナをどんどん追い詰めていくというストーリーだった。

ナポリでは英雄のアルゼンチン人が、次のワールドカップイタリア大会では、準決勝アルゼンチン対イタリアの試合で自国の代表と戦うとなった時、サポーターとしてはどちらを応援するのか、これは悩ましい問題だ。

例えば、アルビレックス新潟を優勝させる活躍をした外国人選手がいて、ワールドカップでその外国人選手が代表に入っている国と日本が対戦した時、私はどちらを応援するか。多分その国なんだろうと思ってしまう。本当のサポーターは代表ではなく、代表に誰がいるかで応援するかどうかを決め、代表戦よりも地元チームの優先順位が高いということは良く言われる。

マラドーナの活躍により、イタリアを二分してしまい、マラドーナを守っていた勢力もどんどん離れていってバッシングを受けるようになったというストーリーで描いていた。きっとそうなんだろう。

今、マラドーナが亡くなって、どんどん神として崇める存在になっていくんだろうと思う。

学部2年生授業「教育実践基礎論」最終回での話

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2020年度の教育実践基礎論が終了した。今年は25名の学生さんが履修して、途中コロナ禍により校内入校禁止やら、曜日変更やらイレギュラーが起こり、2月上旬まで授業を行うことになった。本来ならば、1月末でレポートを提出、最終プレゼンをして終わるのだが、それも出来ず。1時間で3人担当者が20分の模擬授業をし、それに対するコメントを必死に書き、授業担当者は学習者や観察者のレポートとともに、自分の授業をふりかえるというルーティンで無事に終わった。

たくさんの模擬授業を参観し、数多くの学生さんが時間内で練りに練った「こういう授業をするのがよい」と思った授業デザインを元に授業をしてくれたのだが、そこから見えてきた模擬授業の傾向をまとめる。

子ども扱いするな!

ほとんどの学生さんが小学校の先生を希望している。しかし、その模擬授業の言葉遣いなどから、学習者を子ども扱いし過ぎているのでは?と思う場面が多々あった。授業の設定として、「大学生相手に、大学生の思考力に耐えうる課題を課すこと」としているのだが、実際にしてみると大学生相手への言葉遣いじゃなくなっている。

「お友だち」
「分かりましたか〜」
「書き終わった人は鉛筆を置いて顔を上げて」

今までおこなっていた模擬授業では、学習者役は、小学生のフリをしていたものが多いらしい。その無意味さを説いて、「学習者は大学生そのままとして授業に参加するように」と伝えても、「は〜い♡」と返事をする。私の授業中の問いかけには頷くだけなのに。「模擬授業」という虚構場面に自然に入ってしまうようである。そのような「模擬授業」を打破しなければ、学習者はわかったふりをして、授業者の学びには繋がらない。

また、本当に小学生相手だったとしても、本当にそんな子ども扱いをしていいのだろうか?私は小学校低学年クラスで授業はしたことがない。しかし、自分の子どもの小学生の時、または、学校訪問で小学校低学年の児童に接したとき、「子ども言葉」を話さなくても十分に伝わっていたという実感がある。もちろん難易語は言い換えなければならないが、大人と話す時の口調で話しても十分伝わる。児童は、子ども扱いされると、気分を害するのではないだろうか?「子ども幻想」は取り払って人と人の対等な対話をして接してほしいという願いがある。

目標を語れ!

「めあて」というと、「その時間の課題」と捉えているのだろうか?具体的にどう活動すれば良いのかを示すのが「めあて」だろうか?私は、「目標を語れ」と毎時間伝えていたのだが、それが難しかったようだ。「目的」と「目標」がある。教育の目的は、「人格の涵養」であり、それを達成するために「目標」がある。どうしてその活動をするのか、その活動を行うとどんな力がつくのか、どんないいことがあるのか、そういうことを語ることで、学習者のモチベーションを上げてるべきだと伝えた。

しかし、それが結構難しかったようだ。今まで受けてきた授業はきっと(特に高校の授業では)、「教科書に載っているからそれをやる」ということだっただろう。だから、この課題をやるとどんな力がつくのか、なんて語って貰えなかったから、自分で語ることもできない。だから指導案の「目標」の欄に、「課題(=その時間に行うこと)」を書いてしまう。ここら辺の意識の転換を継続的に行っていく必要があるだろう。

評価を忘れるな!

活動の時間を十分取って、自己評価させて終わりという模擬授業がたくさんあった。自己評価も「○○は達成できましたか? よくできた/できた/できなかった」というようなものだ。目標を測るものが評価なのだが、どの程度まで達成できたのかが評価基準となる。教師がそれを評価できなかったら、または、評価基準を示せなかったら、何を学べたか分からない。活動して終わりという授業になる。

また、例えば「皆さんは、言葉の大切さを学びました」というように、最後に授業者がまとめることをしてしまう。それは学びの評価ではなく、「価値観の押しつけ」である。本当に学んだかどうか、学習者はわからない。「言葉の大切さって何?」ということになる。「目標と課題と評価の一体化」を半期を通じて伝えた。これはとても難しいことなのだが、学部2年生から意識していかなければ、教員1年目からそれを提示することができないだろう。

わかる言葉を使え!

評価基準や、課題内容に「自分の言葉」「深く理解する」「まとめる」「十分に説明する」「自分なりに」というような語がふんだんにある。学習者への説明もこのような語を使う。しかし、授業者が本当にわかるのだろうか?「自分の言葉」って言って、「自分の言葉じゃない言葉って何?」と定義できるのだろうか?我々が喋っている言葉って、全て他人からの言葉じゃないの?というツッコミに答えられるのであったら「自分の言葉」という語を使うべきである。

評価基準に使う言葉にそのような曖昧な語を使うと、学習者自身の自己評価が曖昧になる。授業者に評価を委ねる。授業者は「なんとなく」判断を下す。それじゃあ、「目標と課題と評価の一体化」はほど遠い。学習者も自己評価できなきゃ。

このような曖昧な言葉を平気で使う土壌が教育界にはある。でも、授業者の「わからないことへのごまかし」と、学習者の「わかったふり」でなんとなく成り立っている。そんな突き詰めてやらなくても?と思うかもしれないが、今までわかったふり、できたふりをし続けてきた学習者が「深い学び」に行き渡るはずがない。「深い学び」とは何か?「自分の言葉」で「深く理解」して、「十分に説明」できる人は、どれくらいいるかな?

今のうちだ!

最後に「ミエリン化」の話をした。若者の思春期は、ミエリン化することで終焉を迎える。思春期は、むやみやたらに反抗し、大人が言ったことに反発し、反抗し、危険とわかっているのにわざとそれを実行したりする。しかし脳内の神経細胞がミエリン化すると、そういうことをだんだんしなくなってくるというのだ。ミエリン化は30歳くらいで完了する。だから、坂本龍馬スティーブ・ジョブズ志村けんが今までの人たちが想像だにしないことを実行したのはみんな20歳台だった。

だから、まだミエリン化していない脳を持っている皆さんは枠にはまらず、型を破って今まで古い人間ができなかったことをしてほしい。今までの枠や型にはまったまま教師になってしまっては、日本の教育の現状を変えることができない、と話した。

釜ぶたの湯

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雪の中釜ぶたの湯へ行った。今年3回目のサウナ。今年はなぜか回数が激減。コロナ禍が原因というわけではない。

久しぶりに釜ぶたの湯へ行ったのは、実は自動車購入で、新たに自動車保険に入り、その自動車保険取扱い業者の福利厚生サービスで、釜ぶたの湯の入湯料補助があるのだ。新潟県内たくさんの温浴施設で補助が出る。

そしてその驚きの値段は、釜ぶたの湯だったら、入湯料40円となる。サウナ代金は200円で合計240円で入れるのだ。新潟県内最安値で入ることができる*1。ということで、約1年ぶりに行ってみた。

時間帯が良かったので、とても空いていた。とは言っても、サウナ最大4人は入っていたけれども。1年前よりも更に熱くなっていた。温度計をみると95℃前後をさしている。おお、このくらいの熱さだったら十分ホームサウナにしてもいいぞ。ヒーターだから、ちょっと食う気が乾燥していてピリピリしているのが辛いんだけれど。初めに行った時は、冷え冷えとしたサウナだった印象があるから、改良してきたんだなぁ。

水風呂も冷たく、そして一番いいのが休憩スペースがゆったりしていること。デッキチェアが5台ぐらいある。そこは2階の奥まったところにあり、落ち着いて休憩ができる。久しぶりに整えた。

露天風呂もあるのだが、冬は仮設の屋根が付けられている。そのため、寒さをあまり感じることもなくは入れるし、ちょうどいい半身浴もできる。いいサウナ施設になって来たものだ。最近はサウナ後の半身浴が日課だ。若い頃は風呂なんてどうしてあんな長く入っていられるのか?と思っていたけれど、大人はこんな楽しみを持っていたんだなぁと今更ながら気づく。

施設を出たときは更なる大雪になっていた。今日はビールを飲まずにいられないなぁ。

今日のととのい度→4 ☆☆☆☆★

*1:といっても、回数制限有り

冴えない授業デザイン(国語)の作り方 Fine

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ということで最終回です。ほとんどこのタイトルで3連載をやりたかっただけなのですが。

冴えない授業デザイン(国語)とは

  1. テキストを読み取らない
  2. テキストから発想しない
  3. テキストに戻らない

に尽きます。

テキストを読み取らない

例えば、「この写真からのイメージを文章化しましょう」は、国語の授業としての可否はどうなるか?もちろん目標によるのだが、写真を読み取るというのは、国語の範疇かというと厳密に言うと美術の範疇になる気がする。それを読み取って、文章化するとなると、美術における言語活動とも取れる。

しかし、その後、表現された文章(テキスト)を読み取る(検証する、評価する)活動が入るとなると、国語授業として成立してもいい気がする。表現して終わりとなっては、「何でもアリ」であり、何でもアリの表現は日常的に行われている。日常的に行われいる表現活動(会話)を国語授業だとしていいはずは無いだろう。

テキストから発想しない

つまり、「テキストを読み取る」だけで終わる授業だ。この授業は日本国中至る所で行われている。「その文章を正確に読み取る。」という、「教科書に書かれてある文章は、正確に読み取れる」という幻想を元に行われている国語授業だ。国語のテスト問題には必ず唯一解があるという勘違いを持っている教師が陥ってしまう授業だ。テキストを読み取るだけだったら、テストは作りやすい。絶対的なテキストがあり、文法や、文のかかり受けや、穴埋め問題を作っていればいい。なぜその穴にはそれが入るのか?なんていうことは問わなくていい。

いろんな授業を提案すると、決まって「テストはどうやって作ればいいのですか?」と問われる。テスト前提の国語授業だったら、本当の国語の力はつかない。テストに授業を合わせてどうするんだ?授業にテストを合わせないといけないのに。合うペーパーテストが無いのであれば、違う形式で行うしか無い。

テキストに戻らない

「教科書を読み取って、自由にストーリーを描いてみましょう。」、「教科書から読み取った感想を、お友だち3人に伝えましょう。」という課題、それはそれでいいのだが、その表現活動がテキストに即しているのか、テキストから読み取ったのか、テキストで伝えたいことを踏まえているのかという検証がなされず、伝えて終わりということになってしまっている。伝えることが目標だったら、それはコミュニケーションの授業で、「そのテキストじゃ無くていいよね?」と言うことになる。そのテキストを学ばせたのではないという自覚があるのだったらいいのだが、こういう授業をやって、テキストを学びましたと勘違いしている授業者は多い。

テキストを読むのか、コミュニケーションを学ぶのか、しっかりと意識しておこなうべきである。授業者の設定した目標が曖昧では、学習者はどこに向かって学んだらいいかわからないからである。

短歌の授業デザイン

先日、国語授業研究会で短歌の授業デザインを考えた。そのデザインを上記条件に当てはめながら考えると以下のようになった。

  • 短歌の語句の最低限の意味の提示《テキストを読み取る》
    • 文語であったら、現代語訳や、難しい語だったらその意味の提示。
    • 場合によっては、学習者が各自で調べても良い。
  • 短歌1首につき1つの課題を提示し、それを考えさせる《テキストを読み取る》
    • 課題作成が授業デザイナーの腕の見せ所
    • その課題を考えることで、その歌の話者と相手との関係や、時間設定、行動の理由など多くのことを考えようとさせるもの。
    • 「青林檎与へしことを唯一の積極として別れ来にけり」だったら、「誰が誰となぜ別れたのか?」という課題。
    • 最初から「「青林檎」は何の象徴か?」なんていう野暮な課題は避ける。それは、この歌の場面を考えるうえで、副次的に考えていくことであり、そこまで到達しなくても、この歌を読んだことにはなる。
    • 通説や良くいわれている解釈などは絶対に提示しない。そこに縛られると自由な発想は生まれない。短歌は個人的な読みを楽しむものであって、誰かが読み取ったものを押しつけられたら、もう読まなくなる。
  • 読み取った歌を脚本化する《テキストから発想する》
    • 役者にその場面を演じてもらうために、歌に書かれていないものを埋める作業をさせる。
    • その歌のリアルな場面を設定するのもいいし、全く違う世界(異世界、異能力者登場、未来、過去、外国等、自由に)を設定してもOKにする。
    • リアルな場面を考えさせるだけだと、どこかにある「正解」を見つけ出すものとなり、イメージが膨らまない。
  • その脚本を発表し、歌の書かれていない部分は、どうしてそのように読み取れるのかを示す《テキストに戻る》
    • 思いつきの荒唐無稽なストーリーを書くのでは単なる表現の授業で、短歌の授業では無くなる。
    • 作品に対するオマージュも持たせたい。
    • 文学作品の授業は、「書かれていないこと《も》読み取る」というものであるので、書かれてあることから、書かれていないことをどのようにイメージしたのかを意識させる必要がある。

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