Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

新潟県央工業高校時代


平成16(2004)年度〜平成22(2010)年度は,新潟県央工業高校に勤務した。転勤した年に水害に見舞われ,新潟県央工業高校もかなりの被害を受けた。完全に校舎周りは水没し,教務室は1階にあったため,様々な書類が水につかり,紛失した。

高校では,朝の水が増えてきた段階で生徒は自宅待機としたので,来た生徒をどんどん帰し,生徒が学校に何日も宿泊するということはなかった。初期対応がとてもよかったと思う。しかし,近隣校では,教室に待機させ,自習をさせていたところがあったという。結果,生徒は家に帰ることができず,電気も水もまともに通っていない学校に泊まることになってしまった。これは,学校が「生徒を抱え込む」という時代の雰囲気が出ていたような気がする。

何でもかんでも学校がおこない,大学受験も,補習も,休みの日の行動さえも学校の指導下に置こうとし,その後オーバーフローして,「ブラック」と言われる勤務状態に現在なっている。そもそも,学校週5日制は,学校から子どもたちを解放させるためにできたのではないか?

特に大学進学者数が学校の評価だと勘違いする風潮が強くなってきていた時代でもあるのでは?1校に1人でも国公立大学進学者がいたら,いなかった学校よりも評価が高いと思っている管理職には辟易してしまった。たまたま優秀な生徒が入学し,その学校の教育力により学力を伸ばせたわけでもないかもしれないのに,「よかった,よかった」と思ってしまう。

もちろん,その生徒の進路希望を知っていて,それを叶えたことに対して「よかった」と思うのは当たり前なのだが,それで学校の評価がよくなるだろうから「よかった」と感じるのは,いくら管理職とはいえ,教育者なのか?とも思った。そう思わされているところもあるんだろうけれど。

私はというと,転勤したては,2年間の内地留学から現場復帰し,頭でっかちになっていたと思う。理論では「こうやれば上手く行く」というものが,現場に当てはめると上手く行かない。上手く行かないのは,相手が悪いせいだとまたまた「思い上がり」が芽生えていた。現場からたった2年間でも離れるというのは,これほど感覚が鈍るものかと,その後実感する。方法論に固執し,その先にある目的を見失っていた部分があったと思う。

堀之内高校時代に意識した「面白い」と思うこと,「役に立つ」と思うことを大切にすることに回帰し,授業実践を続けた。そうすると徐々に授業が成り立って来る。新潟県央工業高校は体育が厳しいと有名なのだが,ある卒業生に「体育と国語だけは息が抜けない。」と言われたことが,自分の勲章でもある。

まだまだ思い込みを押しつける性格は残っていて,生徒指導や学級経営でも,反発を食らうこともあった。しかし,一方で「待つ」ということもできるようになって,「今,目の前で指導して,すぐに改善させなければならない」ということはないんだ,と分かってきた。そのうち,いつか,今より良い方向に向かえばいいのだと「待つ」ことができるようになったのも,子どもができて,歳を食って経験を積んだからなのだろうか?

勤務した最終年,不祥事が起こり,保護者説明会を開くということがあった。雪の多かった年で,車で来る人のために駐車場を確保しなければならない。正式な呼びかけではなく,「雪かきしないといけないよね。」という感じで心ある職員が「よしっ!」と集まり,夕方,汗だくになって雪かきをした。損得ではなく,今,やるべきことは何か?ということで体が動くというのが,教員にとって大切なんだとも思う。それが教員集団の「和」に繋がっているんだとも思った。いい職場というのは,職員集団が互いを認め合うところなんだと思った。