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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

対話的な学びとは その1

「対話」という言葉の意味をちょっと考えてみる。「会話」でも「議論」でも「話し合い」でもない。「隣の人と会話しなさい」,「隣の人と議論しなさい」,「隣の人と話し合いをしなさい」という表現はしっくりくるが,「隣の人と対話しなさい」となるとなんか変な感じがする。

「対話」の辞書的な意味は「双方向かい合って話をすること。また,その話。比喩的にも用いる。」*1

なんだけれど,「会話」とどこが違うの?ちなみに「会話」の辞書的な意味は「2人または数人が,互いに話したり聞いたりして,共通の話を進めること。また,その話。」*2

違いは「比喩的にも用いる。」の有無。きっと「対話的な学び」の「対話」は原義はもちろん比喩的な意味も含まれているのだろう。

話を元に戻して,「隣の人と対話しなさい」というがなんか変な感じに思うのは,私が「対話」に含まれる,辞書に表されていない意味をなんとなく込めているからだ。

そこで「対話」はどんな意味で使われているのかを調べてみると,いいサイトが見つかった。

ワールドカフェネットにいろいろな引用が掲載されていた。その中で,自分が含めている意味を言い得ている表現はこちら。

人は「対話」の中で、物事の意味付け、自分たちの生きている世界を理解可能なものとしています。人が物事を意味づけるときに、一人でそれに向かっているのではありません。相互理解を深めていくには、単に「客観的事実(知識・情報・データ等)そのもの」を知っているだけでなく、「客観的事実に対する意味」を創造・共有していくことが重要となるのです。

出典: 『ダイアローグ 対話する組織』 中原淳、長岡健 (共著)

「対話」は意味づけをしているというのだ。「会話」,「おしゃべり」は,単に「言い合う」だけでいいが,「対話」は意味づけをするためにおこなっているのだ。

目の前で起こった問題に対して,どのように解釈するか,どのような解決策を講じるかというときに「対話」という語が使われる。「各国の対話」,「首脳陣の対話が必要」は,「会話」で置き換えられない。会話すればいいって問題じゃないから。「学び」でも同じことが言えるのだろう。「会話してりゃ深い学びになるってわけじゃないよ」ということ。

先に「対話しなさい」に違和感を持つというのは,対話かどうかは本人の問題で,人に指示されることじゃないというところに原因があるようだ。意味を見つけようとしているかどうかは本人しか知らないし,本人が意味を見つけようとしなければ,対話にはならない。

学習指導要領で「協働的な学び」という語が消え「対話的な学び」になったということを田村学(文部科学視学官)は

一方「対話」は、「協働」に比べて、やりとりがあり、言語が介在し、また考えて自分で認識するというイメージがあります。(「教職研修」 2016.9 インタビュー「対話的な学び」とはなにか?

と述べている。「自分で認識する」というように,「自分に帰ってくる」ことが無ければ「対話」と言えないことがわかる。

つまり,「対話」するかどうかは本人次第であり,「対話しなさい」と言われたって,意味を見つけようとしない人には「対話」はできないことになる。こう考えてくると「対話的な学び」は「主体的な学び」に通じていることになる。

「対話的な学び」が最も簡単に書けるかな?と思ったんだけど,思いの外,奥が深かった。次回「何との対話?」にたぶん,続く。

*1:デジタル大辞林

*2:同上