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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

言葉への自覚〜言葉による見方・考え方〜

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2020/05/19の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」では、国語科についてみんなで考えた。

高等学校学習指導要領解説には以下のようにある。

国語という教科を通しては、言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国語で的確に理解し効果的に表現できる資質能力を育むことが求められている。言葉による見方考え方を働かせるとは、生徒が学習の中で、対象と言葉、言葉と言葉との関係を、言葉の意味、働き、使い方などに着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚を高めることであると考えられている。この「対象と言葉、言葉と言葉との関係を、言葉の意味、働き、使い方などに着目して捉えたり問い直したりする」とは言葉で表せる話や文章を、意味や働き、使い方など、言葉の様々な側面から総合的に思考・判断し、理解したり、表現したりすること、また、その理解や表現について、改めて言葉に着目して吟味することを示したものである。(高等学校学指導要領解説国語編第3章1)

「自覚」って何?

そもそも、ここの表現の「言葉への自覚」って何なのか?という話題になった。言葉に対して自覚するってどういうこと?「ぼーっと見てんじゃねーよ」ということか?

対象と言葉、言葉と言葉との関係を、言葉の意味、働き、使い方などに着目して捉えたり問い直したりして

とある。「対象と言葉」の関係、「言葉と言葉の関係」を先ず考えようということになった。そうすることが「自覚」を考えることに繋がるはずだ。

「対象と言葉」の関係

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「言葉」というのは「フィルター」であるという話になった。リンゴという物体があったとして、それを「リンゴ」という言葉で表しているのだが、赤いリンゴ、青いリンゴ、黄色いリンゴ様々なものがある。切ったものも生っているものもリンゴはリンゴだ。その物体を表す「共通項」を「リンゴ」という言葉で表し、様々な相違は無視できている。君のリンゴと俺のリンゴは別物だが「リンゴ」である。

つまり、言葉は対象の一部分を表して、他者に通じるようにする機能があるということだ。

また、同じ「フィルター」の機能でも、「見えないものを見えるようにする」という効果もあるという話題になった。「平和」というものは目に見えない。個々の無数の対象を総合して「平和」と判断する。言葉を使うことで見えるようにしている。

つまり、様々な対象の存在をひっくるめて「平和」だと判断できるということだ。

言葉にはこんな機能、働きがあるということを「自覚」して接しなければならないということではないか?という流れになった。

「言葉と言葉」の関係

これは、2つに分けられて、1つの文章内(文内)での言葉と言葉の関係ということと、ある人の言葉と別の人との言葉の関係がある。

1つのまとまり内の言葉と言葉の関係だったら、語順、語の配置によって、意味合いが変わってくるという文法的なことであるということになった。

ある人の言葉と別の人との言葉の関係ということは、つまるところ人と人との関係になってくる。ある人に「好き」と言われた内容と別の人に「好き」と言われた内容では、意味合いは全く異なるものだ。「シチュエーション」に応じて言葉の意味は変わってくる。ここに自覚的にならないと、言葉を取り違えるし、相手にも伝わらない。そこでの「自覚」なんだろう。

言語活動の目的とは?

「言語活動」は、何のためにあるのか?という話になった。いや、そもそも、何のためにもならない「言語活動」って存在するのか?という話にもなった。例えば、「叫び」は、言語活動なのか?誰かに訴えたい「叫び」は言語活動なんだろうけれど、周りに誰もいないときにもやもやを晴らすために口に出る「叫び」は言語活動なのか?いや、例えば発声練習の時に口から発する「言葉」は言語活動なのか?という話題になった。発声練習は上手に伝えるためにおこなうのだが、その練習の時に口から発せられた「音=言葉」には意味がない。別の言葉でもよくなる。そうなると、口から発せられた「音」は言語活動では無いのではないか?

ある目的がある言葉が「言語活動」となるのだろうという話になった。そんなこと今まで考えたこともなかった。

日本全国で国語科を学ぶ意味

そもそも、国語科ではどうして方言を学ばないのか?という話にもなった。それは英語を学ぶことと共通で、教科書には標準語が書かれてあって、その標準語を小学校の頃から学んでいるからこそ、生まれ育った土地を離れたときに、日本国内では話が通じるのではないか?また、国語科で共通語を学んでいるから、方言がちょっと薄まってきて、昔に比べて、方言が全く通じないと言うことがなくなってきているのではないのか?

同じ日本国内でも話が通じなければ、経済的に、政治的、学問的に支障をきたすので、国策としても国語を学ぶ意味があったのだろう。通じる言葉を身に付けるため、ということだ。

言葉のアンテナ

つまり「自覚」を持つということは

時、相手、対象、状況によって絶えず変化する「言葉」に敏感になる

ということなんだろう。敏感なアンテナを絶えず張っていられるように訓練することにより「言葉による見方・考え方」を身につけることが出来るという結論になった。

Zoomのオンライン授業だったが、掲載した写真のようにJamboardを使うことにより、今までの議論の流れが可視化され、そしてまとめられたり、話を元に戻したりということがうまくできた。対面授業では、ソーシャルディスタンシングをする必要から、近くに寄れない。近くに寄れないからパソコン持参でJamboardを使いながらのリアルな対話をするのがよいかもしれない。