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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

読書指導

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本日の「中学校高等学校国語科授業づくり演習」のテーマは「読書指導」だった。

読書の効果とは?

基本的に私は、読書はした方がいいと思っている。読書をした方が文字を読めるようになるし、語彙が増えるし、文章に対する毛嫌いが薄れるのではないか?と思っている。また、リアルな経験だけでは広がらない他人の「人生」が描かれている本を読むことで、自己の世界が広がると思っている。

ある人は、論理的思考力がつくという。ある人は言語感覚が上がるという。ある人は他人を理解する力が上がるという。しかし、それらのエビデンスに出会ったことがない。私もそれらの力がつくのだろう、とぼんやりと思うのだが、データを元にしたエビデンスにお目にかかれないのはなぜだろう?教育研究、心理学研究で語られてもいいような気がするが、出会ったことがない。どこかにあるのだろうか?教えてほしい。

考えてみれば、「読書」というと幅が広い。読む本を限定しないというのが「読書指導」ではないだろうか?「この本、この作品を読みなさい。」となると、国語科でおこなわれている事になる。そうではない。「読書」の最低限の条件は、「「本」として出版されているある程度まとまった文字言語を読む」なのだと思う。新聞を読んでいたら「読書」とはならないし、雑誌も「読書」といえるかどうか曖昧だ。マンガを「読書」の範疇に入れていない「学校」は多いだろう。

本であればなんでもよいということにして、支離滅裂な内容の本を読み続けていて、論理的思考力がつくとは思えない。筒井康隆「バブリング創世記」を読み続けて、言語感覚が上がるかどうかは人それぞれだ。全編人間不信を元にした本を読み続けたら、他人を理解しようとは思いたくなくなるだろう。

つまり、「読書をすると論理的思考力がつく」と主張している人は、「論理的思考力を鍛えるような本を読むと論理的思考力がつく」ということを言っている。どんな本を読んでも「論理的思考力」がつくとは主張していないのではないか?そうなると、それは当たり前なのではないか?逆に、読書をしなくても別の手段で論理的思考力を付ける方法だってたくさんある。

この曖昧さが、「読書指導」のぼんやり感を生んでいる。

学習指導要領では?

中学校学習指導要領解説国語編には以下のようにある

総則編
(5)読書指導の改善・充実
中央教育審議会答申において,「読書は,国語科で育成を目指す資質・能力を より高める重要な活動の一つである。」とされたことを踏まえ,各学年において, 国語科の学習が読書活動に結び付くよう〔知識及び技能〕に「読書」に関する指導事項を位置付けるとともに,「読むこと」の領域では,学校図書館などを利用 して様々な本などから情報を得て活用する言語活動例を示した。

ちなみに、学習指導要領の他の教科には「読書」という文字は全く出てこない。

ここを読むと、「読書」が上位項目で、「国語科」がその下についている感じだ。つまり、「読書に親しむ」ために国語科があるような書きぶりだ。読書ってそんなにいいものなの?私はいいものだと思っているのだけれど、そうと捉えない「読書嫌い」の人はたくさんいる。そんなにいいものだったら、言われなくてもみんな読書をすると思うけれど、年齢が上がっていくにつれて、読書をしなくなるのはなぜなんだろう?「○○の年代は1カ月に○冊しか読んでいない。」と報道でよく目にする。それって、そんなに大変なこと?

読書の価値とは?

授業でも「私はパチンコを毎日やっています。」という人と、「私は読書を毎日しています。」という人では、読書の人の方が「えらい」と思えてしまうのは、なぜか?という話題になった。どうして読書の方が「高尚」なのだろうか?読書って「楽しみ」じゃないの?その楽しみを学校で指導するのはなぜ?パチンコの打ち方を指導する学校はないよね。それには、少なくとも教育的効果があるだろうと思われている。しかし、その教育的効果(価値?)は、はっきり言って人それぞれだ。他人に言われた効果が自分に発揮されるとは限らないのだ。

だから、「読書は趣味だ」という人もいれば、「読書は勉強だ」という人もいる。それぞれ「価値」があるように思えるが、学校での指導となると、ちぐはぐになってしまう。読書マスターのような子どももいれば、読者ビギナーのような子どももいる。読書マスターには、ビブリオバトルのようなことをしかければ、ハマるのだろうけれど、ほとんど読まない人にビブリオバトルを仕組んでも、読書をしないし、どの本を読んでいいかわからないし、読み取れないのだから、プレゼンなんてできるはずがない。

この、「なんだかわからないんだけれど、価値があると思ってる(思わされている)読書」「その価値は、人それぞれ全く違う読書」という立ち位置が、読書指導の曖昧さを生じさせているような気がする。

どんな読書指導がいいのか?

子どもたちそれぞれの「読書レベル」全てに合った読書指導というのが見出せない。本を紹介する、本を紹介させる、POPを作成する、ビブリオバトル、読書会などなど、本を好きな人だったら食いつくようなネタ、本を好きな人だったら、退屈に思うネタ、様々だと思う。だから、いろんなことをたくさんやるしかないのだとは思うのだが、そんな時間が確保されているかというと、そうでもない。先の解説の総則編にあった「学校図書館などを利用 して様々な本などから情報を得て活用する言語活動例」は、いわゆる「読書」ではない。資料探しだ。

現職教員の受講生が、「図書館に連れて行って、放っておいた。」という指導を紹介した。これは、どのような「読書レベル」の人にもある程度の効果がある指導なんだと思う。つまり、自分の読書レベルに応じた活動ができるのだ。「読書は趣味」と言う人にとって、押しつけられるのは苦痛でしかないはず。じゃあ、自分に合ったことができる機会を持つというのが究極の読書指導なんだろうと思う。

「自分に合ったことができる機会」ができるものとして、「朝の読書」がある。朝の読書は私が高校教師時代におこなった活動だ。ある学校では、自分のクラスだけ朝のSHRの時間、読書をした。それを全校に広めようと思ったが、抵抗勢力によって叶わなかった。また、ある学校では、私の国語の時間最初の10分間自由読書の時間とした。これも、抵抗勢力によって問題視されてしまって、中止を余儀なくさせられた。単に読書をするだけなのに、どうしてここまで抵抗してくるんだろう?と疑問に思った。だって、少なくとも教員の多くは読書をすることがいいと思っているのだし、読書指導は国語の領域と学習指導要領にも書かれてあるのに、国語の時間にやっていても管理職がつぶそうと動いてくる。全く理解に苦しんだ。

朝の読書

「朝の読書」は、スポーツで言えば準備体操、アップだと思っている。勉強の大部分は言語を使う。その言語がすんなり入ってくるように準備体操としての読書をする機会を設けるのだ。もちろんデータ的なエビデンスはない。感覚で、「きっとそうなんだろうな。」と思うし、実感もしている。サッカーで言うリフティングであるし、相撲で言う四股である。私にとって朝の読書はそれ以上でもそれ以下でもない。10分で読書時間がぶつ切りにされて、嫌だったとか、趣味である読書をどうして時間を取って一斉にしなければならないのか?と言う人がいるが、「マラソンの距離を走りたいのに、体育ではグラウンド5周で終わってしまうのはなぜか?」「趣味であるジョギングをどうして体育で一斉にしなければならないのか?」という問いにちゃんと答えられるようになってから、その問いを投げかけて欲しいと、いつも思っていた。

朝の読書は生徒指導的な面が強いと思っている人も多い。遅刻させないために朝の読書という、本末転倒な目的のために導入した学校もあるらしい。そうではない。朝の読書は本を読むため、文字を読むためにあり、それ以上でもそれ以下でもない。いろんな教育活動の目的を歪めて捉えることで、指導が困難になるし、効果も上がらない。歪んで捉えた場合、「遅刻が減らないから、朝の読書はやめた」という流れになってしまうが、今までよりも文字をたくさん読んだんですか?今までよりも本に触れる機会が増えたんですか?という問いを立てる人が少ない。朝の読書を実践して、読む文字数が減ったという結果が起こったところがあるのなら、教えてほしい。

結論:全て曖昧に言っているから曖昧な指導しかできない

まずは「読書」は何を指すのか?「なんでもいいよ。」とするべきなのだが、なんでもよいと思わない教育者が多い。教科の力がつくような本しか読書としては認めないと考えている教育関係者は多い。そして読書の効果は何なのか?これも曖昧だ。読む本によってそれから得られる力は違うはずなのだが、それも明らかになっていない。そして読書は趣味なのか、学習なのか、これもわからない。私は「なんでもいい」という立場をとっているので、「読みたい本を読む」のでいいと思う。

もっともっと穿った見方をすると、どうしてこれほど「読書した方がいい」と一般的に言われているのか。出版不況を乗り越えるため。新聞社がつぶれないため。というところに少しは繋がっているのだと思う。それが悪いと言うことではない。出版社や新聞社がどんどんつぶれると、民主主義の根幹が揺らぐからだ。しかしそれをオブラートに包んで、曖昧な「効果」を前面に出して「読書をすべきだ」というのはボロが出る。

民主主義社会を維持するために読書が必要

とした方がすっきりするのかもしれない。「リテラシーがなければ、欺される」ということだ。それでいいのだ。