〈物語〉シリーズ
アニメをがっつり観出したのがここ数年だったので、この〈物語〉シリーズの存在は、テレビで放映されていたときは全く知らなかった。この仕事を始め、AmazonPrime会員になったので、AmazonPrimeビデオを観られて、そこで映像が綺麗な「化物語」を観だした。アニプレックスの映像は間違いがないと思ったきっかけだった。
かなりのシリーズをAmazonPrimeビデオで観られたので、どんどん観ていったが、わからない。繋がらない。観ていると、この登場人物誰?何で当たり前に出てくるの?と「?」ばかりが生まれてくるのだが、映像が小気味いいので見続けていく。それから、視聴者に読ませようとしていない大量のテロップ
がどんどんめくられていくシーンもたくさんあり、なんて書いてあるのか読むのを諦めさせていた。(その後、原作本を読むので、ああ、こう書いてあったのかと理解する。)また、時系列が入り組んでいるのか、と理解する。
1回目は放映の時系列(AmazonPrimeビデオで観られるもののみ)で観て、2回目は「傷物語」+AmazonPrimeビデオで時系列で観て、3回目は「続・終物語」を映画館で観た後、AmazonPrimeビデオ+DVDレンタルで時系列で観た。
strawberry-heart.org
原作本も「終物語」まで読んだ。まだまだ、DVDの副音声を聞いてはいないからコンプリートということでは無いのだけれど、ある程度ハマって観たので、現時点での雑感をまとめる。私の捉え方はこうだ。
「〈物語〉シリーズ」の人間の登場人物はほぼ全部「訳あり」で、「闇」を抱えていて、「不幸」で、その中を「足掻いて」生きている。つまり、「人間の生き方そのもの」を描いている作品だった。
戦場ヶ原ひたぎ
よくこのような首を後ろに曲げて反り返る格好で相手を見つめる(にらむ)姿をとる。ジョジョ立ちの1つか?とも思う。
戦場ヶ原ひたぎの父親は仕事が忙しく家にいず、母親は宗教にハマり、子どもを売ろうとするまでになっていた。 戦場ヶ原は抵抗し、母親は信者と一緒に家を出て行った。そこで蟹の怪異が取り憑き、重さがなくなる。専門家と言われる人に助けを求め、何人にも欺され全く効果がなかった。そこで人間不信となり誰とも交わろうとはしない。怪異関連で近づいて行くる人間は全て敵とみなすようになった。
何の見返りも求めず(むしろ、自分が怪異だからという単純な理由で)、助けたいと思って近づいてきた阿良々木暦を完全に敵視していたのだが、助けてもらうと180度変わり好きになる。この振れ幅が魅力だった。 戦場ヶ原が阿良々木暦を好きになったのは、この「何の見返りも求めず(何の下心もなく)」近づいてきた人間が、今までにいなかったからなのだろうか?
戦場ヶ原ひたぎに母親は今いない。父親も仕事で不在がち。以前は豪邸に住んでいたのだが、母親の作った借金のため、今は粗末なアパート(ワンルーム)にすんでいる。過去何人もの詐欺師に欺され、人間不信であり、素直に他人を受け入れられないという「不幸」を背負っている。
羽川翼
お下げ、メガネ、巨乳、頭脳明晰とオタクの嗜好をすべて兼ねそなえている羽川翼だ。テレビ版と映画版(「傷物語」)では描くタッチが違い、映画版はかなりエロティックに描かれている。テレビ版を見た後に「傷物語」を見たときは、びっくりした。こんな肉感的に描くのは映画だからか?私が最も切なく思うキャラだ。
今一緒に住んでいる両親とは全く血が繋がっていない。連れ子で結婚し、本当の親が死に、再婚し、といういきさつだ。そして今の親は全く羽川翼に愛情を注がない。羽川翼だけではなく、両親とも仲が悪い。3人家族で、全くばらばらで、食事を各人が作り、各人で摂っている。だから食器も調理器具も全て各人のものがある。羽川翼には自分の部屋がなく廊下で寝泊まりしている。それを見た阿良々木暦は気が狂いそうになった。学校の休みは必ず家の外に出て散歩をしている。家には眠るためにしか帰らないということなんだろう。だから自分の部屋がなくても支障はないのか?
どうして親が羽川翼に愛情を注がないのか、詳細は描かれていないのだが、「知った口をきいたから」ということで羽川翼は親に殴られている。羽川翼には完全なる潔癖さがあるから、それを親にも向けて煙たがられたのだろうか。
シリーズが進むにつれて、更なる追い打ちをかけたのが、今まで別々に食事を摂っていた両親が、ある朝一緒に摂っていたのだ。つまり仲直りをしたということなのだが、羽川翼にとってそれを「よいこと」と捉えられないところが不幸である。今までは家族みんながばらばらだったが、自分だけ疎外されたわけである。
時系列の最初である「傷物語」では、阿良々木暦を助け(応援し)、「猫物語」では阿良々木暦に助けられる。シリーズでは最も愛されるべきキャラ設定をされ、主人公の阿良々木暦と最も近い存在でありながら、主人公とは結ばれない。全編を通じて「不幸」を背負っている。
完全なる潔癖を貫こうとするから、猫の怪異につけ入れられ夜な夜な猫の怪異となり、両親を襲い、通行人を襲い、阿良々木暦を襲う。原作でもそうなのだが、章のナンバリングがいきなり跳ぶという演出が斬新だった。跳んでいるところでは猫の怪異(ブラック羽川)が出現しており、人間の羽川翼の記憶がないという設定だ。これも不幸といえるだろう。自分の記憶がないところで他人を痛めつけているというのは、完全な潔癖さを持っている人にとっては絶えられないはずだ。潔癖さを求め続けるから「ブラック」な部分が切り離され、猫の怪異となるって、「山月記」の様でもあるし、ドラゴンボールの神様とピッコロ大魔王の様でもある。
神原駿河
神原駿河も両親はいない。死別している。母親が神原家の跡取りと駆け落ちをし、家を出たのだが、両親死別のため駿河は神原家の祖父母に引き取られて過ごしている。そんな背景を見せないぐらい天真爛漫な神原駿河なのだが、実は死んだ母親が置いていった悪魔の左手に自分の願いが叶うように祈ってしまう。1つ目は「運動会の徒競走で1位になりますように。」、2つ目は「 戦場ヶ原先輩が自分の方を向いてくれますように。」。
うちにドロドロしたものがあろうとも、神原駿河は真摯な人間なので、それを表には出さない。しかし、寝ている間に猿の姿をした悪魔に化け、1つ目の願いは、一緒に走る同級生を襲うという形で実現しようとする。寝ている(意識がない)うちに化けるというのは羽川翼に通じるところがある。それに気づいた神原駿河は、襲わなくてもいいように、走る練習をし、願いを叶える。2つ目の願いは 戦場ヶ原ひたぎの恋人になった阿良々木暦を亡き者にすることで叶えようとする。圧倒的な悪魔の強さに、阿良々木暦は殺されかける。しかし圧倒的な力を持っていても、願いは叶わない。 戦場ヶ原ひたぎは神原駿河の思いには応えられない。
意識がある時は、阿良々木暦を敬愛しているのだが、意識がなくなると殺しかけるという矛盾の中に生きている。絶えざる危惧をかかえ、「不幸」を背負っている。毎晩自分の左腕を柱に縛り付けて眠るのだ。
八九寺真宵
「人間の登場人物の中で」と断りを入れておいたが、八九寺真宵はもうすでに人間ではない。既に死んでいて幽霊だ。「元人間」という範疇だったら、キスショット・アセロラ・オリオン・ハートアンダーブレードも入るのだが、それはさておき。八九寺真宵は10歳の時に交通事故で死に、その姿のまま10年以上存在している。
10歳の時、両親が離婚し父親と暮らしている。母の日父親に告げずに母親に会いに行くため出かける。青信号の横断歩道を歩いている時に自動車に轢かれて死んでしまう。その後幽霊となり道をさまよい、蝸牛の怪異となり道行く人を迷わせ続けている。
迷い続ける人生(もう死んでいるけれど)、永遠にどこにもたどり着けない道を歩いているというのは、「不幸」以外の何ものでもない。地獄にいるようである。とはいっても、出てくる八九寺真宵はいつも楽しそうで、苦しんでいるようには見えない。阿良々木暦とも最も息が合う感じでかけあいをしている。暗闇に飲まれそうにもなるが、阿良々木暦に助けられるし、地獄に落ちた阿良々木暦も助けてあげられる。最終的には神になるのだが、最も生き生きと生きている(死んでいるけれど)。何だ、「化物語」は、死んでいる方が生き生きしているのか?斧乃木余継も既に生きていないが、ほぼ無敵でやりたい放題である。
人間生きていることで不自由で不幸を抱えているということなのだろうか?
とはいっても、八九寺真宵は完全なる怪異なので、怪異じゃない人には認識されない、という設定でもある。 八九寺真宵が近くにいるにもかかわらず、戦場ヶ原ひたぎには全く見えない。声も聞こえない。母親に会いたくても会えなかった八九寺真宵、他人に認識されないという「不幸」を背負っているのか?(でも、阿良々木暦の尽力で母親と遭うことはできた。その後とんでもないことになったが。)
千石撫子
千石撫子の両親は健在で、家族で幸せに暮らしている。ここの点が今までの4人のキャラクター設定と全く違っている。両親は千石撫子を溺愛し、可愛がり、甘やかしている。千石撫子が「ダメ」と言ったことは絶対にしない。そこのところのおかしさを貝木泥舟は指摘している。
というように、5人の中で最も「可愛らしく」描かれているキャラクターだ。周りから可愛い、可愛いと当たり前のように言われ続けている。(その分、 戦場ヶ原ひたぎや忍野忍からは毛嫌いされている。)困ったときはうつむいて帽子や前髪で表情を隠して何もいわなければ、「可愛い」から、周りが推し量って助けてくれる、許してくれる。しかし、「可愛い」以外の評価が全くない。「可愛い」としか言われない。そこに千石撫子の「不幸」がある。誰も自分のことを理解してくれないのだ。
「可愛い」と言われ、そのように振る舞い続け、そう振る舞うことが楽だったので、自分を押し殺し、「可愛いキャラ」、「暦お兄ちゃんを好きなキャラ」をずーっと演じていた。本当に自分がしたいことを否定し続けていた。周りは千石撫子の事を理解しないが、自身も自身のことを理解しない。誰にも理解されないということは「不幸」以外の何ものでもない。
それが蛇(くちなわ)と出会うことで、蛇に本心を表出してもらうことでおのれ自身を知るようになり、我が儘に生きることに目覚める。その針の振れ幅が大きすぎ、自分自身を殺して生きていた千石撫子が、神になり、いちばん大好きだと思い込んでいた阿良々木暦を「ぶっ殺す」ということが生きがい(神になったら「生きている」といえるのか?)になる。
千石撫子には「中庸」が存在しない。「そこそこ」が存在しない。自分を殺すか他人を殺すか、なのだ。この5人の中で私は最も千石撫子が「不幸」だと思った。誰にも認めてもらえない。親にも、好きな人にも、自分にも認めてもらえない人生だ。
なんだかんだあって(結局は結果的に貝木泥舟に助けられ)、千石撫子は神から人間に戻り、大好きなラブコメマンガを描き、幼なじみの阿良々木月火にべた塗りを手伝ってもらったりして、引きこもりながら「普通」の生活を送れるようになる。
ちょっと本題から逸れるが、阿良々木月火に前髪を切られて、「前髪命」だった千石撫子が変身した。教師からギクシャクしたクラスのムードを委員長のお前が何とかしてくれないかと頼まれていたのだが、それまでの「可愛い」千石撫子は、「はぁ」と言って受け入れる姿勢(見せかけのみ)を見せていたのだが、前髪無し千石撫子は啖呵を切った。
うっせーんだよ!進展なんてあるわけねーだろ!俺様にテメェの仕事押し付けてんじゃねぇぞ!人の面みりゃ例の件はどうなった、どうなったって、どうなるもこうなるもねえよ!無茶な頼みごとだってことはテメェが一番わかってんだろうが。
教室に殴り込んで、クラスメートにこう言った。
いいかお前ら、現実をみろよ!過ぎたことでいつまでもウジウジとして、貴重な青春時代を台無しにしやがって。どんだけムダなことをしているかわかってんのか。お前らは友達だとおもっていた奴が自分のことを妬んでいたら、それだけでもう友達じゃなくなるのか?嘘をつかれたらそれで終わりか?適当なところで折り合いをつけねえと、いつまでもこんな状況が続くんだぞ!だったら塗り替えなきゃ駄目だろうが、書き換えなきゃ駄目だろうが!一時期は変なおまじないのせいで信用できなかったけど、ちゃんと仲直りしましたって思い出によ!
嘘や裏切りや欺瞞や偽善を許してあげられる度量を持ちやがれや!いつからお前は人を選り好み出来るほど偉くなったんだ。好き嫌いで人付き合いしてんじゃねーよ、俺様はお前らなんか大っ嫌いだ。でもクラスメイトだぜコンチキショーが!
ここまで教室内のもやもやした嫌な雰囲気を言い当てて、建て前だらけの教室内の空気をぶっ壊して風通しをよくする言葉は今まで聞いたことがない。この後千石撫子は自己嫌悪に陥るのだが、前髪を切られて、隠す方法が無くなった千石撫子の本心、新のキャラの表出だったのだろう。
千石撫子の記事が最も長くなったが、それは私が学校というものに長く関わり続けていたから、その思いが重なったからだと思う。
阿良々木暦
阿良々木暦は「不幸」なのか?と考えてみる。両親は健在で、愛すべき2人の妹がいる。家庭的には全く問題は無い。両親に放置されているとはいいながら、きちんと気にかけられているし、卒業祝いにニュービートルも買ってもらっている。
怪異的には、半分吸血鬼であり、何度も死にかけ、1回死んで、蘇生し、絶対に人間には戻らない状態である。それでもそれは自分で受け入れてそのような状態になったのであり、納得づくのはずだ。「助ける(本人が助かる手助けをする?)」ということを何度もおこない、カタルシスもあっただろう。
戦場ヶ原ひたぎを恋人に持ち、羽川翼という親友もいる。老倉育という幼なじみもいる。「不幸」要素は一個もないじゃないか。波瀾万丈な人生だが、上記ヒロインたちに比べたら、それほど不幸じゃないんじゃないか?と思えてきた。なんだか腹が立つ。
老倉育
「番外」として、老倉育を挙げてみる。怪異とは全く関わらない存在でありながら、かなり「不幸」な境遇だ。
父親はいなくなり、母親は気がふれて引きこもりとなり、そのうち死んでしまう。生活保護を受け、生活できるようになり市立直江津高等学校に復学するが、生活保護の関係で転校せざるを得ず、せっかく(?「嫌いだ」と言っているが逆なのは明らか)再会できた阿良々木暦とも離れてしまう。
その後の老倉育が語るストーリーでは、「意図したことと逆の結果が出てしまう。」と言っているが、怪異ではないがそういう「呪い」にかかっているのかもしれない。阿良々木暦に自分の身の上に気づいてもらいたいが、全く気づかれない。学級の不正を正したいが、自分が糾弾されてしまう。阿良々木暦と仲良くしたいが、嫌われる言動をとってしまう。これは「呪い」と言わずなんだろう?「呪い」と言えば、専門家たちも何らかの「呪い」にかかっているようだが、老倉育は何をしたというのか、理不尽に「呪い」にかけられている。その点で「不幸」であることに間違いはない。
お気楽に言えば「ドジっ子」なのだが、その度合いは突き抜けている。初め観たとき、老倉育はとてつもなく嫌な女だ、と思ったのだが、何度か観ていると、そうでも無いと思えてきた。愛すべきキャラクターだと見方が変わってきたのが面白かった。早く幸せになって欲しいと思えてきた。幸せになろうとして全く逆の行動を、結果を取ってしまう。こういうことって、あるよねー、と思えてきた。