Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

教育と愛国


2022年 日本 高田世界館視聴

ドキュメント映画でしか報道というか、編集、公開されない内容だと思う。テレビ、新聞ではすぐに権力者が弾圧をかけ、特にテレビはこういうことを報道したら潰しに来る昨今だ。今や映像付きで報道するのは、ドキュメント映画という媒体しかなくなってきているのだろうか?50を過ぎてからようやくドキュメント映画を映画館で観るようになった。上越に赴任して高田世界館で初めて観た映画もドキュメント映画だったな。

教育畑にいることにより、全ての事例は報道されたときに頭に引っかかって、知っていたけれど、たくさんの報道された事例がこの映画で繋がったという感じだ。このような繋がりがあったのかと、今更ながら思わされた。

政治の教育への介入は、日本が軍事国へと進んで、戦争を起こした反省のもと、教育を政治から切り離す動きがあったはずなのだが、どんどんなし崩し的に介入できるようになっていった。今から私の経験を思い起こすと、職員会議の実質無力化がその発端だったんだろうな。平成の真ん中くらいのことだった。それを進める政権を選んでいたり、無関心を決め込んでいるのが国民であることは言うまでもない。

たまたま最近「であることとすること」を読んだ。
bunlabo.com
権利の上に眠っていたらその権利はいきなり剥奪されるということだ。なるほど。権力者としては眠らせておいた方が都合が良いということなのだな。じゃあ、教育は眠っている人や、うとうとしている人に気づかせる役割をしなければならないはずなのだが、そのまま眠らせて、気づかせず、「点数」や「偏差値」という「分かりやすい」ニンジンを吊り下げているのが仕事になっている。分かりやすければいいということではない。

この映画を観て、教育の自由と言論の自由について、更に考える時間となった。

教育の自由

主に教科書検定に関する内容がこの映画で描かれていたのだが、じゃあ、検定は無い方がいいのか、というと、そういうことでもない気がするし、かといって、検定を文科省側がおこなう事が正しいのかというと、必ずしもそうではないと言う気もする。「検定」は授業をする側がどの教科書を使うか全て吟味する時間的コストを削減するためにあってもいいとは思う。いや、「教科書」自体を無くした方がいいというのは極端か?

世の中にいろいろな教科書があっていいと思うし、それを採用するかどうかは教育する側が決めていいことなのだ。私は高校教師だったから、学校単位で教科書の選定をしていて、そんな感覚で昔は教科書検定問題の報道を見ていた。義務教育は各教育委員会が教科書を決め、その地域は全てその教科書を使うということを後に知り、ちょっと「気持ち悪く」なった覚えがある。この気持ち悪さはなんだろう?

その地域全員に同じものを強制的に読ませることの「気持ち悪さ」なのか?じゃあ、その学校の学年の生徒全員に同じものを強制的に読ませることは「気持ち悪くない」のか?と自問自答したとき、高校の場合にその気持ち悪さが薄れるのは、「その生徒たち(の雰囲気)を知っている人が教科書を選んでいる」という要素があるからでは?と感じた。少なくとも高校では教科書を選ぶのは、その教科書を使って授業をする教師だ。義務教育の場合はそうではない。学習者不在のイデオロギーや圧力が関わってくる「気持ち悪さ」なのだろうか?

言論の自由

このドキュメンタリー映画はもちろん「言論の自由」のもと、作られている。作る方針として言論の封鎖はしていないと思われる。「言論を封鎖せよ!」という考えを持っている人の言論もそのまま流している。映画の作り方として編集意図はあるのだろうけれど、ナレーターが解釈や意味付けを加えることはしていない。「ありのままを流すから、見た人が判断してね。」というスタンスを感じた。だから、権力側の人が見ても、それほど腹立たしく思わない作りになっているのでは?とも思う。

だからか、言論を封鎖したいと思っている人の言動が、ありありと描かれている。圧力をかけることをなんとも思わず、学者でありながら、エビデンスに基づかない主張を声高に言ったり、子どもは学ばなくてもよいと平然と言っている姿がそのまま描かれている。それでも教科書を書けるのか、と驚いた。

言論の自由を守ろうとする人は、自分の言論の自由は存在するが、対立する意見を持つ人の言論の自由を封鎖しようとする人の言論の自由も守る

という、一見矛盾しているようだけれど、本質的なことが大切なんだ、というか、これこそが「言論の自由」なんだと思った。私の感情的にはとても難しいことなのだけれど。

この映画を授業で流せるか?

高田世界館では、監督・プロデューサーが来館し、トークイベントが行われていた。こういうイベントって、必ず土・日だから、私は参加できないんだよな。
takadasekaikan.com
学生さんも参加していたようだ。これから教師になろうとしている人たちが住んでいる街の映画館で上映されることに意味がある。

私はいい映画だと思って見ていたのだが、じゃあ、これから教師になろうという人たちに授業としてこの映画を見せて、ディスカッションをしようということができるか?というと、ちょっと躊躇する。ドキュメンタリー映画とはいっても、映画制作者側の「視点」があるからだ。視点があるのは当たり前のことなのだけれど。

授業としてではなく、自由参加のセミナーだったら、できそうな気がする。