Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

かわら亭

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回数券を買ってしまった(1年間)。なんだかんだいっても、テレビが入ったとしても、外の水風呂がある限りは、ここがホームサウナだ。

最近あまりにも体がなまっているので、ランニングをしてからサウナに入ることにした。かわら亭があるところは、人通りがないので、マスクをしなきゃという配慮が全くいらない。ランニングするのに人と全くすれ違わない。まぁ、最近は暑さのせいで、外でのランニングでもマスクをしなくても大丈夫という見解が出ているのだけれど。感染のリスクよりも熱中症のリスクが高くなるし、熱中症で運ばれることによって、医療現場への負担が増えるという、リスクマネージメントの結果だろう。

いつもは上越市の方に向かって走り出すのだが、今日は逆方向、つまり、長野の方へ向かって走り出した。途中国道脇の道に入り、ずんずん長野に向かって行く。そうだった。長野に向かうということは、緩やかな坂を登っているということなのだ。走り始めで坂はかなりきつい。道の駅新井近くになったら、1㎞7分台になってしまっていた。3㎞ちょっとで折り返してかわら亭に向かう。

木曜日だからなのか、風呂に入っている人はとても少ない。以前訪れたときよりもかなり少ない。結局サウナに3回入ったのだが、誰とも一緒にならなかった。最高の状態だった。1人だったので、すかさずテレビを消した。このサウナ、テレビがあるのだけが唯一の難点だったが、1人だったら消してもいいだろう。その後誰もサウナに入ってこず、ゆっくりとオルゴールの曲を聴いて、自分に向き合いながら、サウナに入ることができた。

転職して2年目でここのサウナを知ったのだが、2年目当たりは、かなり仕事で追い詰められていた(今も解放されているということでは無いが。)。その時、閉店間際のかわら亭に来て、一人のサウナ室で自分に向き合ったことをよく思い出す。精神的にまいったときは、肉体的な解放でバランスをとるんだな、とも思った。そんなこともあるので、このかわら亭が好きである。

今日の気温は28℃前後だったので、水風呂の水温は20℃近くになっていたかもしれない。いくらでも入っていられるほどの水温だ。しかし、水風呂は水温じゃなくて、水質だと思ってきた。この水の匂いと、しっとりと肌になじむ質感はとても気持ちがいい。冬になるとビンビン肌を攻撃する冷たさなんだけれど。

サウナでも水風呂でもリラックスできた。ただ、雨がポツポツふってきたので、休憩はなんだか雨が当たってリラックスできなかったかなぁ?

今日のととのい度→3 ☆☆☆★★

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語

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2019年 アメリ

若草物語」は読んだことがなかった(と思う)。もしかしたら昔アニメで観たことがあったかもしれないが、すっかり忘れていた。4人姉妹の物語というと、「海街diary」を思い浮かべてしまう。

それはそうと、「若草物語」に新たな解釈を加えていて、それが素晴らしいという評を聞いたし、綺麗な女性がたくさん出ているというので、観に行った。最近閉塞感があったから。3月に日本公開だったが、コロナ禍渦で、「6月公開」という修正されたポスターもアップされていた。映画館は密とはかけ離れていた。

ジョー(シアーシャローナン)がとにかく魅力的に撮られていた。若いときと今がどんどん入れ替わって描かれているのだが、それぞれがチャーミングで、美しかった。表情豊かで、活発な女性だった。

しかし、私は欧米人の見分けがうまくなく、「若草物語」の事前知識も皆無だったため、登場人物の把握に一苦労した。ジョーは長女だと思っていたら、次女だったし、三女と四女の区別が初期の頃はできなかった。そして過去と今が入れ替わり立ち替わり描かれているので、かなり混乱した。でも、過去を描いている画面は色鮮やかで、今はちょっとくすんでいるという描き分けをしていたので、何とかわかった。

ジョーは女一人で生きていくことにこだわる。結婚相手がいなかったわけではないが、結婚しか女性の道がないことに反発して、社会を試しているかのようだった。

ジョー(シアーシャローナン)は、いろんな表情があるのだが、過去に会ったことがある誰かに似ているなぁと思いながら観ていたが、それが誰だか映画が終わるまでわからなかった。

暗い部分もあったが、全体的にはすがすがしい映画で、最近鬱屈していた私にとっては、観て良かった映画だった。

読書指導

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本日の「中学校高等学校国語科授業づくり演習」のテーマは「読書指導」だった。

読書の効果とは?

基本的に私は、読書はした方がいいと思っている。読書をした方が文字を読めるようになるし、語彙が増えるし、文章に対する毛嫌いが薄れるのではないか?と思っている。また、リアルな経験だけでは広がらない他人の「人生」が描かれている本を読むことで、自己の世界が広がると思っている。

ある人は、論理的思考力がつくという。ある人は言語感覚が上がるという。ある人は他人を理解する力が上がるという。しかし、それらのエビデンスに出会ったことがない。私もそれらの力がつくのだろう、とぼんやりと思うのだが、データを元にしたエビデンスにお目にかかれないのはなぜだろう?教育研究、心理学研究で語られてもいいような気がするが、出会ったことがない。どこかにあるのだろうか?教えてほしい。

考えてみれば、「読書」というと幅が広い。読む本を限定しないというのが「読書指導」ではないだろうか?「この本、この作品を読みなさい。」となると、国語科でおこなわれている事になる。そうではない。「読書」の最低限の条件は、「「本」として出版されているある程度まとまった文字言語を読む」なのだと思う。新聞を読んでいたら「読書」とはならないし、雑誌も「読書」といえるかどうか曖昧だ。マンガを「読書」の範疇に入れていない「学校」は多いだろう。

本であればなんでもよいということにして、支離滅裂な内容の本を読み続けていて、論理的思考力がつくとは思えない。筒井康隆「バブリング創世記」を読み続けて、言語感覚が上がるかどうかは人それぞれだ。全編人間不信を元にした本を読み続けたら、他人を理解しようとは思いたくなくなるだろう。

つまり、「読書をすると論理的思考力がつく」と主張している人は、「論理的思考力を鍛えるような本を読むと論理的思考力がつく」ということを言っている。どんな本を読んでも「論理的思考力」がつくとは主張していないのではないか?そうなると、それは当たり前なのではないか?逆に、読書をしなくても別の手段で論理的思考力を付ける方法だってたくさんある。

この曖昧さが、「読書指導」のぼんやり感を生んでいる。

学習指導要領では?

中学校学習指導要領解説国語編には以下のようにある

総則編
(5)読書指導の改善・充実
中央教育審議会答申において,「読書は,国語科で育成を目指す資質・能力を より高める重要な活動の一つである。」とされたことを踏まえ,各学年において, 国語科の学習が読書活動に結び付くよう〔知識及び技能〕に「読書」に関する指導事項を位置付けるとともに,「読むこと」の領域では,学校図書館などを利用 して様々な本などから情報を得て活用する言語活動例を示した。

ちなみに、学習指導要領の他の教科には「読書」という文字は全く出てこない。

ここを読むと、「読書」が上位項目で、「国語科」がその下についている感じだ。つまり、「読書に親しむ」ために国語科があるような書きぶりだ。読書ってそんなにいいものなの?私はいいものだと思っているのだけれど、そうと捉えない「読書嫌い」の人はたくさんいる。そんなにいいものだったら、言われなくてもみんな読書をすると思うけれど、年齢が上がっていくにつれて、読書をしなくなるのはなぜなんだろう?「○○の年代は1カ月に○冊しか読んでいない。」と報道でよく目にする。それって、そんなに大変なこと?

読書の価値とは?

授業でも「私はパチンコを毎日やっています。」という人と、「私は読書を毎日しています。」という人では、読書の人の方が「えらい」と思えてしまうのは、なぜか?という話題になった。どうして読書の方が「高尚」なのだろうか?読書って「楽しみ」じゃないの?その楽しみを学校で指導するのはなぜ?パチンコの打ち方を指導する学校はないよね。それには、少なくとも教育的効果があるだろうと思われている。しかし、その教育的効果(価値?)は、はっきり言って人それぞれだ。他人に言われた効果が自分に発揮されるとは限らないのだ。

だから、「読書は趣味だ」という人もいれば、「読書は勉強だ」という人もいる。それぞれ「価値」があるように思えるが、学校での指導となると、ちぐはぐになってしまう。読書マスターのような子どももいれば、読者ビギナーのような子どももいる。読書マスターには、ビブリオバトルのようなことをしかければ、ハマるのだろうけれど、ほとんど読まない人にビブリオバトルを仕組んでも、読書をしないし、どの本を読んでいいかわからないし、読み取れないのだから、プレゼンなんてできるはずがない。

この、「なんだかわからないんだけれど、価値があると思ってる(思わされている)読書」「その価値は、人それぞれ全く違う読書」という立ち位置が、読書指導の曖昧さを生じさせているような気がする。

どんな読書指導がいいのか?

子どもたちそれぞれの「読書レベル」全てに合った読書指導というのが見出せない。本を紹介する、本を紹介させる、POPを作成する、ビブリオバトル、読書会などなど、本を好きな人だったら食いつくようなネタ、本を好きな人だったら、退屈に思うネタ、様々だと思う。だから、いろんなことをたくさんやるしかないのだとは思うのだが、そんな時間が確保されているかというと、そうでもない。先の解説の総則編にあった「学校図書館などを利用 して様々な本などから情報を得て活用する言語活動例」は、いわゆる「読書」ではない。資料探しだ。

現職教員の受講生が、「図書館に連れて行って、放っておいた。」という指導を紹介した。これは、どのような「読書レベル」の人にもある程度の効果がある指導なんだと思う。つまり、自分の読書レベルに応じた活動ができるのだ。「読書は趣味」と言う人にとって、押しつけられるのは苦痛でしかないはず。じゃあ、自分に合ったことができる機会を持つというのが究極の読書指導なんだろうと思う。

「自分に合ったことができる機会」ができるものとして、「朝の読書」がある。朝の読書は私が高校教師時代におこなった活動だ。ある学校では、自分のクラスだけ朝のSHRの時間、読書をした。それを全校に広めようと思ったが、抵抗勢力によって叶わなかった。また、ある学校では、私の国語の時間最初の10分間自由読書の時間とした。これも、抵抗勢力によって問題視されてしまって、中止を余儀なくさせられた。単に読書をするだけなのに、どうしてここまで抵抗してくるんだろう?と疑問に思った。だって、少なくとも教員の多くは読書をすることがいいと思っているのだし、読書指導は国語の領域と学習指導要領にも書かれてあるのに、国語の時間にやっていても管理職がつぶそうと動いてくる。全く理解に苦しんだ。

朝の読書

「朝の読書」は、スポーツで言えば準備体操、アップだと思っている。勉強の大部分は言語を使う。その言語がすんなり入ってくるように準備体操としての読書をする機会を設けるのだ。もちろんデータ的なエビデンスはない。感覚で、「きっとそうなんだろうな。」と思うし、実感もしている。サッカーで言うリフティングであるし、相撲で言う四股である。私にとって朝の読書はそれ以上でもそれ以下でもない。10分で読書時間がぶつ切りにされて、嫌だったとか、趣味である読書をどうして時間を取って一斉にしなければならないのか?と言う人がいるが、「マラソンの距離を走りたいのに、体育ではグラウンド5周で終わってしまうのはなぜか?」「趣味であるジョギングをどうして体育で一斉にしなければならないのか?」という問いにちゃんと答えられるようになってから、その問いを投げかけて欲しいと、いつも思っていた。

朝の読書は生徒指導的な面が強いと思っている人も多い。遅刻させないために朝の読書という、本末転倒な目的のために導入した学校もあるらしい。そうではない。朝の読書は本を読むため、文字を読むためにあり、それ以上でもそれ以下でもない。いろんな教育活動の目的を歪めて捉えることで、指導が困難になるし、効果も上がらない。歪んで捉えた場合、「遅刻が減らないから、朝の読書はやめた」という流れになってしまうが、今までよりも文字をたくさん読んだんですか?今までよりも本に触れる機会が増えたんですか?という問いを立てる人が少ない。朝の読書を実践して、読む文字数が減ったという結果が起こったところがあるのなら、教えてほしい。

結論:全て曖昧に言っているから曖昧な指導しかできない

まずは「読書」は何を指すのか?「なんでもいいよ。」とするべきなのだが、なんでもよいと思わない教育者が多い。教科の力がつくような本しか読書としては認めないと考えている教育関係者は多い。そして読書の効果は何なのか?これも曖昧だ。読む本によってそれから得られる力は違うはずなのだが、それも明らかになっていない。そして読書は趣味なのか、学習なのか、これもわからない。私は「なんでもいい」という立場をとっているので、「読みたい本を読む」のでいいと思う。

もっともっと穿った見方をすると、どうしてこれほど「読書した方がいい」と一般的に言われているのか。出版不況を乗り越えるため。新聞社がつぶれないため。というところに少しは繋がっているのだと思う。それが悪いと言うことではない。出版社や新聞社がどんどんつぶれると、民主主義の根幹が揺らぐからだ。しかしそれをオブラートに包んで、曖昧な「効果」を前面に出して「読書をすべきだ」というのはボロが出る。

民主主義社会を維持するために読書が必要

とした方がすっきりするのかもしれない。「リテラシーがなければ、欺される」ということだ。それでいいのだ。

まだまだ精進が足りなかった

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新潟県立高田北城高等学校で生徒向けの講演会で「高校時代に身に付けたい能力」というようなテーマで話してきた。4月中頃以来があって、その後休校期間があり、講演会は開催できるのか?と不確定だったが、ちょうどフルで学校生活が再開される日の講演会だった。

担当のM先生は、それまで丁寧にメールでやりとりしてくれて、準備万端な状態を作ってくれた。玄関でとても気持ちいい笑顔で迎えてくれた。

私はというと、いつもの癖で、講演が決まると「あんなことも喋りたい、こんなことも喋りたい」といつもぼんやりと講演のことが頭にあるような状態になる。本やテレビなどの情報から「あ、このネタ使える」と思いつき、どんどんとスライドに書き加えていき、気がつくと130枚となっていた。

講演の時間は60分だが、紹介の時間や質問の時間を考えると、賞味50分ぐらいなんだろうとはわかっていたが、その感覚がまだ復帰していなかった。スライド130枚作ったら、絶対に全て紹介できるはずがないと、冷静な今だったら判断できる。しかし、対面で、約250人相手に話すという、最近全然そんな体験がなかった私にとって、その肌感覚が全くなかった。

しかも、全員マスクをしていて、表情がよくわからない。いつも、私の話芸だけで場の空気を温かなものにはできないとわかっているから、参加者の中に入って、ちょっと質問したり、いじったりして空気を温める手法が全く使えなかった。いつもだったらハンドマイクで後ろの方まで歩いて行ったのだが、勝手に「自粛」をしていた。うーん、困った。

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と言うことで、どんな反応なのかもわからず、スベっているのか受けているのかもわからず、時間があと20分というところで、スライドの半分もいっていない。用意した、参加者に出すクイズを紹介する時間なんて全くないことに気づく。ああ、このまま、喋り続けて時間が来るのかと、愕然としてしまった。

スライドは何度も見返して、全体のストーリーは把握していたのだが、はしょったせいで、どうしてこれがこう繋がって、こう言いたいのかが、支離滅裂だったんだろうと思う。

よかったのは、唯一時間通りに終わったこと。

今回の敗因
1)時間配分の感覚が欠落していた。
2)過剰な自粛で参加者の間に入っていくことができなかった。
3)スライドを多くすれば、伝えたいことが薄くなるということに気づかなかった。
4)反応がよくわからない状態で、小ボケを用意するのは自殺行為だった。

精進せねばならぬな。

Zoom+対面授業 その2

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今日の授業の私の目標は、Zoom参加メンバーと対面授業参加者の融合だ。簡単に言えば、Zoom参加者と対面参加者で対話的学びを仕組むのだが、結果的にはうまく言ったと思う。

私は写真のとおりAirPodsを付けた。MacBookProにAirPodsを認識させればうまく行くと思いきや、そうではなかった。Zoomの音声入出力が何を選んでいるのか確認しなかった。だからZoom内でハウリングを起こしていたり、こちらの声は届くが、あちらの声が聞こえないというようなことが起こった。

Zoom画面のマイクのアイコンで設定が変えられる。そこでAirPodsを選ぶことで、事なきを得た。

しかし、対面者とZoom参加者と同時に対話するのは、かなり大変だった。対面者の音が遅れて届くのだ。いっこく堂である。対面者の声は、空気を振動して聞こえた後に、インターネット経由で聞こえてくる。これが困った。両耳に着けいてたAirPodsの片方を外した。外してケースの中に入れた。片方だけ外した状態では、片方のマイクから音を拾うのだろうか?そこら辺が不安だった。これで対面者の声ははっきり聞こえる。しかし、片耳からは遅れて届く。

自分が喋らないときはミュートにするというのは、基本なのだが、解除しないで話してしまう。うーん、もうちょっと感度を上げるというか、下げるというか、AirPodsを使っている時は、近くの声だけを拾ってミュート解除をして欲しい。会議用マイク&スピーカー(スピーカーフォン)を使えばここら辺はクリアーされるのだろうか?

今回はiPadAirのアウトカメラで教室全体を撮したので、前回よりも画質はよくなったかもしれない。iPadAirにはイヤフォンジャックがついているから、そこにステレオミニプラグを差し、教室内のスピーカーでZoom参加者の声を流せるようにした。新しいiPadにはもうイヤフォンジャックはついていない。音の問題はややこしいので、残して欲しかったとも思う。USB-C端子で、HDMI接続の選択肢しか無くなった場合、音がうまく流せるかどうかは不確定だ。

少なくとも、今使っている教室では、なぜかアップル製品がHDMI接続できない。Windowsマシンだと繋がるのだが。こういうことが起こるから、便利なようなハイテク機器も実は便利では無くなるということが起こる。アナログ接続だったら、頭の中でイメージできるから、何とか工夫して接続出来るような気がするが、もうお手上げ状態である。それほどハイテクにして、教育効果は上がるのだろうか?そこが疑問。

シシリアン・ゴースト・ストーリー

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高田世界館視聴 2018年イタリア

亡くなった人への鎮魂の映画なんだろう。語り継ぐことこそ鎮魂になり得る。それが映画という媒体になったということだ。

13歳から16歳くらいの少年・少女たちが主人公だ。少女は親に全く理解されず、挙げ句の果てには気がふれたと病院で治療を受けさせられる。少年は大人に人権を拒否され監禁される。少年・少女たちが大人たちに拒否され、少年・少女たちも大人に迎合していない姿が描かれている。

これは悲劇というにはその言葉がチープになる。幻想であり、ホラーでもあり、ファンタジーでもある。観ていてとってもやるせない。はっきり言ってよくわからない映画。最近は、よくわからない映画をよくわからないまま受け入れられるようになって来た。そんな映画の見方もあるんだとようやくわかってきたのかも。

最近そんな映画ばかり高田世界館で観ている。調べたら配信で500円程度で観られるようだが、1,100円(誕生月だから会員割引!)払って高田世界館で観ないとあの味わいは得られなかったと思う。


映画『シシリアン・ゴースト・ストーリー』予告編

かわら亭

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2週に1回のサウナを目指そうと思う。かわら亭には残念ながらサウナにテレビが入ってしまったので、私のベストサウナとは言えなくなってきているが、今のところ仕事の後行けるところではここしか行く気がしない。料金も通常の800円に戻ったので、回数券でも買おうか?と思う。今回はポイントカードで入った。

サウナもテレビが入ってしまったから、私しかサウナにいないのであれば、テレビを切ってしまおうか?とも思っていたのだが、残念ながらそんな機会は全くなかった。常に誰かがいた。1人タオルも持たず、平気で咳をしている私よりも若い人がいたのだが、非常識と言っていいんじゃないか?

サウナの内張が新調され、檜の引き締まった香がしているのは、気持ちがよかった。でもテレビが無い方がいいなぁ。

サウナ自粛前は、すっかりととのわなくなった体なのだが、自粛後は3回連続でととのっている。ととのわなかったのはサウナに慣れてしまったからなのだろうか?あの時は何のためにサウナに行くのか?と自問自答している時期だった。ととのいのためでは無く、自分を見つめるためなんだと、禅僧のような気持ちにもなっていた。

今日は気温がとても高かったが、微風も吹いていて、鳥のさえずりも聞こえ、流水の音も充満し、とてもよい外気浴だった。ずーっと外気浴していたい気持ちだったのだが、かわら亭では石の上に座って休憩するので、だんだん尻が痛くなってくるのだ。ベンチがあったらなぁといつも思う。同じ値段だったら、川口温泉の方がよいのでは?と思ってしまうのだが、遠いので、仕事帰りには行けない。川口温泉には休みの日にしか行けないなぁ。

今日のととのい度→4 ☆☆☆☆★