Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

学部2年生授業「教育実践基礎論」最終回での話

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2020年度の教育実践基礎論が終了した。今年は25名の学生さんが履修して、途中コロナ禍により校内入校禁止やら、曜日変更やらイレギュラーが起こり、2月上旬まで授業を行うことになった。本来ならば、1月末でレポートを提出、最終プレゼンをして終わるのだが、それも出来ず。1時間で3人担当者が20分の模擬授業をし、それに対するコメントを必死に書き、授業担当者は学習者や観察者のレポートとともに、自分の授業をふりかえるというルーティンで無事に終わった。

たくさんの模擬授業を参観し、数多くの学生さんが時間内で練りに練った「こういう授業をするのがよい」と思った授業デザインを元に授業をしてくれたのだが、そこから見えてきた模擬授業の傾向をまとめる。

子ども扱いするな!

ほとんどの学生さんが小学校の先生を希望している。しかし、その模擬授業の言葉遣いなどから、学習者を子ども扱いし過ぎているのでは?と思う場面が多々あった。授業の設定として、「大学生相手に、大学生の思考力に耐えうる課題を課すこと」としているのだが、実際にしてみると大学生相手への言葉遣いじゃなくなっている。

「お友だち」
「分かりましたか〜」
「書き終わった人は鉛筆を置いて顔を上げて」

今までおこなっていた模擬授業では、学習者役は、小学生のフリをしていたものが多いらしい。その無意味さを説いて、「学習者は大学生そのままとして授業に参加するように」と伝えても、「は〜い♡」と返事をする。私の授業中の問いかけには頷くだけなのに。「模擬授業」という虚構場面に自然に入ってしまうようである。そのような「模擬授業」を打破しなければ、学習者はわかったふりをして、授業者の学びには繋がらない。

また、本当に小学生相手だったとしても、本当にそんな子ども扱いをしていいのだろうか?私は小学校低学年クラスで授業はしたことがない。しかし、自分の子どもの小学生の時、または、学校訪問で小学校低学年の児童に接したとき、「子ども言葉」を話さなくても十分に伝わっていたという実感がある。もちろん難易語は言い換えなければならないが、大人と話す時の口調で話しても十分伝わる。児童は、子ども扱いされると、気分を害するのではないだろうか?「子ども幻想」は取り払って人と人の対等な対話をして接してほしいという願いがある。

目標を語れ!

「めあて」というと、「その時間の課題」と捉えているのだろうか?具体的にどう活動すれば良いのかを示すのが「めあて」だろうか?私は、「目標を語れ」と毎時間伝えていたのだが、それが難しかったようだ。「目的」と「目標」がある。教育の目的は、「人格の涵養」であり、それを達成するために「目標」がある。どうしてその活動をするのか、その活動を行うとどんな力がつくのか、どんないいことがあるのか、そういうことを語ることで、学習者のモチベーションを上げてるべきだと伝えた。

しかし、それが結構難しかったようだ。今まで受けてきた授業はきっと(特に高校の授業では)、「教科書に載っているからそれをやる」ということだっただろう。だから、この課題をやるとどんな力がつくのか、なんて語って貰えなかったから、自分で語ることもできない。だから指導案の「目標」の欄に、「課題(=その時間に行うこと)」を書いてしまう。ここら辺の意識の転換を継続的に行っていく必要があるだろう。

評価を忘れるな!

活動の時間を十分取って、自己評価させて終わりという模擬授業がたくさんあった。自己評価も「○○は達成できましたか? よくできた/できた/できなかった」というようなものだ。目標を測るものが評価なのだが、どの程度まで達成できたのかが評価基準となる。教師がそれを評価できなかったら、または、評価基準を示せなかったら、何を学べたか分からない。活動して終わりという授業になる。

また、例えば「皆さんは、言葉の大切さを学びました」というように、最後に授業者がまとめることをしてしまう。それは学びの評価ではなく、「価値観の押しつけ」である。本当に学んだかどうか、学習者はわからない。「言葉の大切さって何?」ということになる。「目標と課題と評価の一体化」を半期を通じて伝えた。これはとても難しいことなのだが、学部2年生から意識していかなければ、教員1年目からそれを提示することができないだろう。

わかる言葉を使え!

評価基準や、課題内容に「自分の言葉」「深く理解する」「まとめる」「十分に説明する」「自分なりに」というような語がふんだんにある。学習者への説明もこのような語を使う。しかし、授業者が本当にわかるのだろうか?「自分の言葉」って言って、「自分の言葉じゃない言葉って何?」と定義できるのだろうか?我々が喋っている言葉って、全て他人からの言葉じゃないの?というツッコミに答えられるのであったら「自分の言葉」という語を使うべきである。

評価基準に使う言葉にそのような曖昧な語を使うと、学習者自身の自己評価が曖昧になる。授業者に評価を委ねる。授業者は「なんとなく」判断を下す。それじゃあ、「目標と課題と評価の一体化」はほど遠い。学習者も自己評価できなきゃ。

このような曖昧な言葉を平気で使う土壌が教育界にはある。でも、授業者の「わからないことへのごまかし」と、学習者の「わかったふり」でなんとなく成り立っている。そんな突き詰めてやらなくても?と思うかもしれないが、今までわかったふり、できたふりをし続けてきた学習者が「深い学び」に行き渡るはずがない。「深い学び」とは何か?「自分の言葉」で「深く理解」して、「十分に説明」できる人は、どれくらいいるかな?

今のうちだ!

最後に「ミエリン化」の話をした。若者の思春期は、ミエリン化することで終焉を迎える。思春期は、むやみやたらに反抗し、大人が言ったことに反発し、反抗し、危険とわかっているのにわざとそれを実行したりする。しかし脳内の神経細胞がミエリン化すると、そういうことをだんだんしなくなってくるというのだ。ミエリン化は30歳くらいで完了する。だから、坂本龍馬スティーブ・ジョブズ志村けんが今までの人たちが想像だにしないことを実行したのはみんな20歳台だった。

だから、まだミエリン化していない脳を持っている皆さんは枠にはまらず、型を破って今まで古い人間ができなかったことをしてほしい。今までの枠や型にはまったまま教師になってしまっては、日本の教育の現状を変えることができない、と話した。

釜ぶたの湯

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雪の中釜ぶたの湯へ行った。今年3回目のサウナ。今年はなぜか回数が激減。コロナ禍が原因というわけではない。

久しぶりに釜ぶたの湯へ行ったのは、実は自動車購入で、新たに自動車保険に入り、その自動車保険取扱い業者の福利厚生サービスで、釜ぶたの湯の入湯料補助があるのだ。新潟県内たくさんの温浴施設で補助が出る。

そしてその驚きの値段は、釜ぶたの湯だったら、入湯料40円となる。サウナ代金は200円で合計240円で入れるのだ。新潟県内最安値で入ることができる*1。ということで、約1年ぶりに行ってみた。

時間帯が良かったので、とても空いていた。とは言っても、サウナ最大4人は入っていたけれども。1年前よりも更に熱くなっていた。温度計をみると95℃前後をさしている。おお、このくらいの熱さだったら十分ホームサウナにしてもいいぞ。ヒーターだから、ちょっと食う気が乾燥していてピリピリしているのが辛いんだけれど。初めに行った時は、冷え冷えとしたサウナだった印象があるから、改良してきたんだなぁ。

水風呂も冷たく、そして一番いいのが休憩スペースがゆったりしていること。デッキチェアが5台ぐらいある。そこは2階の奥まったところにあり、落ち着いて休憩ができる。久しぶりに整えた。

露天風呂もあるのだが、冬は仮設の屋根が付けられている。そのため、寒さをあまり感じることもなくは入れるし、ちょうどいい半身浴もできる。いいサウナ施設になって来たものだ。最近はサウナ後の半身浴が日課だ。若い頃は風呂なんてどうしてあんな長く入っていられるのか?と思っていたけれど、大人はこんな楽しみを持っていたんだなぁと今更ながら気づく。

施設を出たときは更なる大雪になっていた。今日はビールを飲まずにいられないなぁ。

今日のととのい度→4 ☆☆☆☆★

*1:といっても、回数制限有り

冴えない授業デザイン(国語)の作り方 Fine

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ということで最終回です。ほとんどこのタイトルで3連載をやりたかっただけなのですが。

冴えない授業デザイン(国語)とは

  1. テキストを読み取らない
  2. テキストから発想しない
  3. テキストに戻らない

に尽きます。

テキストを読み取らない

例えば、「この写真からのイメージを文章化しましょう」は、国語の授業としての可否はどうなるか?もちろん目標によるのだが、写真を読み取るというのは、国語の範疇かというと厳密に言うと美術の範疇になる気がする。それを読み取って、文章化するとなると、美術における言語活動とも取れる。

しかし、その後、表現された文章(テキスト)を読み取る(検証する、評価する)活動が入るとなると、国語授業として成立してもいい気がする。表現して終わりとなっては、「何でもアリ」であり、何でもアリの表現は日常的に行われている。日常的に行われいる表現活動(会話)を国語授業だとしていいはずは無いだろう。

テキストから発想しない

つまり、「テキストを読み取る」だけで終わる授業だ。この授業は日本国中至る所で行われている。「その文章を正確に読み取る。」という、「教科書に書かれてある文章は、正確に読み取れる」という幻想を元に行われている国語授業だ。国語のテスト問題には必ず唯一解があるという勘違いを持っている教師が陥ってしまう授業だ。テキストを読み取るだけだったら、テストは作りやすい。絶対的なテキストがあり、文法や、文のかかり受けや、穴埋め問題を作っていればいい。なぜその穴にはそれが入るのか?なんていうことは問わなくていい。

いろんな授業を提案すると、決まって「テストはどうやって作ればいいのですか?」と問われる。テスト前提の国語授業だったら、本当の国語の力はつかない。テストに授業を合わせてどうするんだ?授業にテストを合わせないといけないのに。合うペーパーテストが無いのであれば、違う形式で行うしか無い。

テキストに戻らない

「教科書を読み取って、自由にストーリーを描いてみましょう。」、「教科書から読み取った感想を、お友だち3人に伝えましょう。」という課題、それはそれでいいのだが、その表現活動がテキストに即しているのか、テキストから読み取ったのか、テキストで伝えたいことを踏まえているのかという検証がなされず、伝えて終わりということになってしまっている。伝えることが目標だったら、それはコミュニケーションの授業で、「そのテキストじゃ無くていいよね?」と言うことになる。そのテキストを学ばせたのではないという自覚があるのだったらいいのだが、こういう授業をやって、テキストを学びましたと勘違いしている授業者は多い。

テキストを読むのか、コミュニケーションを学ぶのか、しっかりと意識しておこなうべきである。授業者の設定した目標が曖昧では、学習者はどこに向かって学んだらいいかわからないからである。

短歌の授業デザイン

先日、国語授業研究会で短歌の授業デザインを考えた。そのデザインを上記条件に当てはめながら考えると以下のようになった。

  • 短歌の語句の最低限の意味の提示《テキストを読み取る》
    • 文語であったら、現代語訳や、難しい語だったらその意味の提示。
    • 場合によっては、学習者が各自で調べても良い。
  • 短歌1首につき1つの課題を提示し、それを考えさせる《テキストを読み取る》
    • 課題作成が授業デザイナーの腕の見せ所
    • その課題を考えることで、その歌の話者と相手との関係や、時間設定、行動の理由など多くのことを考えようとさせるもの。
    • 「青林檎与へしことを唯一の積極として別れ来にけり」だったら、「誰が誰となぜ別れたのか?」という課題。
    • 最初から「「青林檎」は何の象徴か?」なんていう野暮な課題は避ける。それは、この歌の場面を考えるうえで、副次的に考えていくことであり、そこまで到達しなくても、この歌を読んだことにはなる。
    • 通説や良くいわれている解釈などは絶対に提示しない。そこに縛られると自由な発想は生まれない。短歌は個人的な読みを楽しむものであって、誰かが読み取ったものを押しつけられたら、もう読まなくなる。
  • 読み取った歌を脚本化する《テキストから発想する》
    • 役者にその場面を演じてもらうために、歌に書かれていないものを埋める作業をさせる。
    • その歌のリアルな場面を設定するのもいいし、全く違う世界(異世界、異能力者登場、未来、過去、外国等、自由に)を設定してもOKにする。
    • リアルな場面を考えさせるだけだと、どこかにある「正解」を見つけ出すものとなり、イメージが膨らまない。
  • その脚本を発表し、歌の書かれていない部分は、どうしてそのように読み取れるのかを示す《テキストに戻る》
    • 思いつきの荒唐無稽なストーリーを書くのでは単なる表現の授業で、短歌の授業では無くなる。
    • 作品に対するオマージュも持たせたい。
    • 文学作品の授業は、「書かれていないこと《も》読み取る」というものであるので、書かれてあることから、書かれていないことをどのようにイメージしたのかを意識させる必要がある。

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「ミエリン化」の前に

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新井高等学校の1年生対象に進路講話をしてきた。出前講座として申し込んできてくれたのだが、こういう機会でも無いと、高校生に対して話すことがめっきり無くなってしまったので貴重な機会である。

こんな話もした。

「ミエリン化」というのは、脳科学の用語だ。ミエリン化すると思春期が終わると言われている。ミエリン化すると以下のことが起こる。

  • 「思春期の終焉」(30歳前後)
  • 「物わかり」がよくなる
  • 冒険しなくなる
  • 何でも分かった気になる
  • ルーティン化して発見が無くなる
  • 「気づき」が無くなる

年を取ってしまうと新たなアイディアが全然出なくなるということだ。私は完全にミエリン化しているというのがよく分かった。思春期は、ミエリン化していないから、傍若無人な態度を取るし、とても危険な、命を省みない行動も取る。しかしその裏腹として誰も思いつかない発想をするし、イノベーションも起こすことが出来る。

坂本龍馬は28歳で土佐藩を脱藩し、スティーブ・ジョブズは21歳でアップルコンピュータを立ち上げた。一番右の写真を高校生に見せたら「誰か分からない」と答える生徒が多かった。ミエリン化している我々が誰でも知っている、志村けんは26歳で東村山音頭を発表した。

今まで誰もしたことが無いようなことをするのは、ミエリン化していない世代が多い。

だから、高1の次男も、ミエリン化していないから、親たちを困らせているのか、と、思うと少しは気持ちが楽になる。

令和2年度学修成果発表会

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片桐研究室の2名が今年修了で、発表をした。今年はオンラインで行うことになってしまったのが残念である。コロナ禍の影響というよりも、雪害により登校不安があったからだ。

2人とも堂々と発表し、副査からの質問にもテキパキと答えて、成長の度合いが伺えた。

オンラインだと、発表前、発表後の雰囲気を受けとることが出来ず、見守る私としては、緊張感が感染しないので、それはそれでいいのだが、やっぱりその雰囲気は共有したいと思ってしまう。発表が終われば「はい、それまでよ。」となってしまう。オンラインの不便さを切に感じた。

発表会が終わったとしても、まだまだあと2カ月くらい残っている。そこで現場教員になる前の準備を十分にしてほしいと思う。現場で働くと、実践、実践の毎日だから、大学に籍を置いているうちは、理念を積み重ねて言って欲しいと思います。いわゆる「現場で活きる新たな視点の創出」だ。意味を自分で見つけてほしい。

冴えない授業デザイン(国語)の作り方 ♭

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プリント学習

授業プリントを使い、授業を行うと、とても楽だ。その授業時間に取り組む内容が一覧になっているので、めどが付けやすいというメリットがある。これは授業者にとっても学習者にとってもメリットになる。学習者は、授業者の頭の中にある、「いったい、次は何を問われるのか?」という不安から解放され、目の前のプリントに取り組むだけでよくなる。その時間の目標が提示されない時の学習者の負担感を感じていない教員は多い。その時間の目標、その単元の目標を一切提示しない高校教師の多さからも伺える。

教師にとっても事前にその授業の流れを作っていくことで、脱線することを免れる。授業に取り組んでいるかどうかの判断をプリントをやっているかどうかで見とることが出来るのでとても楽なのだ。導入、展開、発展がその1枚のプリントに示されていれば、どこまで進んだか一目瞭然だ。

学習者は、もう分かっていること、分からないことがはっきりするし、教師のいらぬこだわりや、他の学習者との無駄なやりとりなんかを無視して、プリントを書いていくことで、その授業時間頭を働かせることができる。つまり、教師のペースに乗らないで、自分のペースで学習を進めることができる。これが意欲的な学習者にとって最もよいことだと思う。

プリント学習の弊害

とはいっても、弊害はある。往々にして国語において作られたプリントは以下のような弊害を持つ。

知識補填のプリント

一問一答式で、問いに対する答えが1つしか無いもの。知識を問うもの。教科書から抜き出すもの。それだけで構成されているプリントは、意欲的な学習者にとっては、どんどん自分で進めていくことができるが、意欲的では無い学習者は、「結局、答えは後から示されるのだから、その時に写せばいいや」ということが分かっている。

決まった答えを導き出す時に使われる頭の働きが重要なのだが、その頭の働きの重要性や面白さを教師が語らないで、正解という結果だけを重視する。

あだちがはらさん、空欄Aにはなんて書いた?
はい。猿と書きました。
え?猿?そうじゃなくて、他に考えられるでしょう?
じゃあ、鳥
うーんと、惜しい。

そうですね。猪ですね。

なんていうやりとりをよく見てきた。これって、「答え」を「当て」る授業だよね。あだちがはらさんに答えさせる国語授業的意味はあるのだろうか?

ストーリーが決まっているプリント

知識を問うものではなく、考え方を問うプリントも国語授業では作られる。例えば、論理的思考を学ぶ授業で、

  1. この時ヒグマが見つけたものは何か?
  2. ヒグマはそれを見つけてどのような考えを持ったか?
  3. ヒグマのその考えはどのような情景描写で描かれているか?
  4. その情景描写はエゾシカにどのように影響しているか?
  5. エゾシカは何を象徴しているか?

と、自由に考えられるように作られているように見えて、順を追ったストーリーを作っていかなければならない。しかも、そのストーリーは、教師が作品から得られたストーリーであって、そんなストーリーを学習者が追えるのかというと、そういうわけではない。着目点は人それぞれ違っているのであって、教師が得た着目点が絶対ということでは無い。しかしそれを押しつけたら、自由な発想は生まれない。

なぜこうなる?

「国語は決まった答えが無いから嫌だ」という大昔からの子どもたちの意見に答えるために、「ある条件を課せば、国語だって1つの答えに集約されるんだよ。」と言って、テスト問題を作る。テストが全てだと思っている(思わされている、思わなければいけない)国語教師にとって、「決まった答え」信奉が、こんなプリントを作らせている。何でこんな授業なの?何でこんなプリントを作るの?と尋ねたら、「テストで何を勉強していいか分からない」という生徒の意見に答えるためと返答する。

じゃあ、その答えが書かれてあるプリントを始めに配っちゃえばいいんじゃない?

と、言うと、きょとんとされる「じゃあ、授業では何をすればいいのか?」と言うことなんだろう。

知識伝達、空欄補充ではない国語授業とは

調べれば分かる知識、教師が小出しにして、最後に提供する「答え」を全て材料にして、何を学べるのか?を授業の目標にすべきである。知識伝達の授業は100年前から行われているのに、未だ日本の授業は変わらない。ネットで調べればすぐに分かる「答え」を時間かけてプリントに書いたらどんな学びが生まれるのか?今の多くの学校では、ネットで調べりゃすぐに分かることを、調べる手段に制限をかけて、無理矢理その情報に届かないようにして、時間をかけさせて紙に書かせている。

なぜネットに繋がる携帯端末を授業で使うことを禁止しているのだろう?すぐに答えが分かることって悪なのか?子どもたちはそんな「まやかし」にもう気づいている。いや、気づかせないようにしているから、「ネットは匿名で簡単に他人を傷つける便利なツールだ」としか思わないと教師が思っているから、使わせないのだろうか?高校卒業したら、ネットを駆使して簡単に情報に行き着き、そしてそこからクリエイトしていかなければいけないのに、ネット検索コピペ止まりのレポートしか生まれないのかもしれない。

情報を組み合わせる

共通テストの国語問題、私が数年前、「試行」として作られた問題を解いたことがあったが、結局その時の目新しさからかけ離れ、よくある問題に落ち着いていた。主になるテキストがあり、そのテキストに関連した別のテキストが提示され、解くというもの。「試行」の問題は、あまり関連性がないと思われるような情報を組み合わせて書いていく問題だった。あれには衝撃を受けたが、いろんな「文句」が出て、結局高校入試でよくあるパターンの問題になったのだろう。はっきり言ってがっかりだった。

どんなものでも出題者の意図が反映しているもので、出題者のストーリーで解いていかないといい点数は取れない。しかし、ほんとうにそれが「国語」だろうか?目の前にあるテキストから読み取った情報や、自分の経験上の情報、感覚をこねくり回して解釈するのが国語であってほしい。誰かのストーリーに自分の思考手順を当てはめて1つの予定調和な「答え」を紙に書くのを「国語」だなんて思ってほしくない。

私が今までに作った最高の定期テスト問題は、「1年間の国語の授業で「生きるために役に立つ」と学んだことを2,000字以内で書きなさい。」だと、今でも思っている。

冴えない授業デザイン(国語)の作り方

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教員養成大学の教員なので、学生や院生の模擬授業、現役の先生の公開授業を観ることが多い。国語の授業を観ていると、「え?これ、国語なの?」と思ってしまう。国語教科書の内容を扱っているのだから、国語だと考えてしまうのだろうけれど、その授業を行うことで、どんな力がつくのかを意識出来ていない場合が多い。

国語授業とは?

目標や課題の種類を大きく分けると、2つある。1つはテキストそのものを読むもの、もう1つは言語活動をおこなうものだ。教科書作品の内容理解は「テキストそのものを読むもの」であり、話し合い活動、感想を述べる、作品を作り替える、小論文を書く、というように、言語を駆使して表現力を磨くのが「言語活動」である。

全ての教科で「言語活動」を導入しなければならないのだが、言語活動の力を付けることを目標にしているのは国語だけである。他の教科において、言語活動は手段であるが、国語にとっては、手段であり目標でもある。

冴えない授業デザイン(国語)の作り方

とは、この2つの目標をごっちゃにすると簡単に作れる。

例えば、詩を取り扱ったとして、「この詩は四季の移り変わりの美しさを描いているが、皆さんが感じる四季の美しさを絵に描いて周りの人に説明しよう。」という課題を考える。そしてその詩を学んだと勘違いしてしまう。

教材として選んだ詩をざっくり読んで、その詩のテキストから離れた課題を設定し、言語活動をさせ、その詩を扱ったと授業者が勘違いしてしまうのだ。こういう国語の授業をさんざん見てきた。テキストも読まず、話し合って、伝え合って終わりにする。内容理解も言語活動もどっちつかずで何を学んだか分からないという冴えない授業が行われる。

話し合って終わり

話し合って、伝え合って終わりだったらコミュニケーション力の授業であり、もちろん国語はコミュニケーション力を付ける教科でもあるので、そっちにフォーカスすればよい。究極にいえば、教材はその詩ではなくてもよいということになる。さらにコミュニケーション力を付ける目標だったら、どうなればコミュニケーション力がついたのかという評価基準も設定されていない。授業者はコミュニケーション力を付ける授業に設定していないからだ。

模擬授業の場合は、時間が限られているので、目標をテキストの読み取りにするのか、言語活動にするのか、どっちかにすればいいのに、と思うのだが、その違いを理解していないので、このようなことが起こる。現場の実際の授業の場合も、言語活動だけをやらせただけで、テキストを読み取った授業だと勘違いしている場合がある。

じゃあどうするの?は、次回。