ということで最終回です。ほとんどこのタイトルで3連載をやりたかっただけなのですが。
冴えない授業デザイン(国語)とは
- テキストを読み取らない
- テキストから発想しない
- テキストに戻らない
に尽きます。
テキストを読み取らない
例えば、「この写真からのイメージを文章化しましょう」は、国語の授業としての可否はどうなるか?もちろん目標によるのだが、写真を読み取るというのは、国語の範疇かというと厳密に言うと美術の範疇になる気がする。それを読み取って、文章化するとなると、美術における言語活動とも取れる。
しかし、その後、表現された文章(テキスト)を読み取る(検証する、評価する)活動が入るとなると、国語授業として成立してもいい気がする。表現して終わりとなっては、「何でもアリ」であり、何でもアリの表現は日常的に行われている。日常的に行われいる表現活動(会話)を国語授業だとしていいはずは無いだろう。
テキストから発想しない
つまり、「テキストを読み取る」だけで終わる授業だ。この授業は日本国中至る所で行われている。「その文章を正確に読み取る。」という、「教科書に書かれてある文章は、正確に読み取れる」という幻想を元に行われている国語授業だ。国語のテスト問題には必ず唯一解があるという勘違いを持っている教師が陥ってしまう授業だ。テキストを読み取るだけだったら、テストは作りやすい。絶対的なテキストがあり、文法や、文のかかり受けや、穴埋め問題を作っていればいい。なぜその穴にはそれが入るのか?なんていうことは問わなくていい。
いろんな授業を提案すると、決まって「テストはどうやって作ればいいのですか?」と問われる。テスト前提の国語授業だったら、本当の国語の力はつかない。テストに授業を合わせてどうするんだ?授業にテストを合わせないといけないのに。合うペーパーテストが無いのであれば、違う形式で行うしか無い。
テキストに戻らない
「教科書を読み取って、自由にストーリーを描いてみましょう。」、「教科書から読み取った感想を、お友だち3人に伝えましょう。」という課題、それはそれでいいのだが、その表現活動がテキストに即しているのか、テキストから読み取ったのか、テキストで伝えたいことを踏まえているのかという検証がなされず、伝えて終わりということになってしまっている。伝えることが目標だったら、それはコミュニケーションの授業で、「そのテキストじゃ無くていいよね?」と言うことになる。そのテキストを学ばせたのではないという自覚があるのだったらいいのだが、こういう授業をやって、テキストを学びましたと勘違いしている授業者は多い。
テキストを読むのか、コミュニケーションを学ぶのか、しっかりと意識しておこなうべきである。授業者の設定した目標が曖昧では、学習者はどこに向かって学んだらいいかわからないからである。
短歌の授業デザイン
先日、国語授業研究会で短歌の授業デザインを考えた。そのデザインを上記条件に当てはめながら考えると以下のようになった。
- 短歌の語句の最低限の意味の提示《テキストを読み取る》
- 文語であったら、現代語訳や、難しい語だったらその意味の提示。
- 場合によっては、学習者が各自で調べても良い。
- 短歌1首につき1つの課題を提示し、それを考えさせる《テキストを読み取る》
- 課題作成が授業デザイナーの腕の見せ所
- その課題を考えることで、その歌の話者と相手との関係や、時間設定、行動の理由など多くのことを考えようとさせるもの。
- 「青林檎与へしことを唯一の積極として別れ来にけり」だったら、「誰が誰となぜ別れたのか?」という課題。
- 最初から「「青林檎」は何の象徴か?」なんていう野暮な課題は避ける。それは、この歌の場面を考えるうえで、副次的に考えていくことであり、そこまで到達しなくても、この歌を読んだことにはなる。
- 通説や良くいわれている解釈などは絶対に提示しない。そこに縛られると自由な発想は生まれない。短歌は個人的な読みを楽しむものであって、誰かが読み取ったものを押しつけられたら、もう読まなくなる。
- 読み取った歌を脚本化する《テキストから発想する》
- 役者にその場面を演じてもらうために、歌に書かれていないものを埋める作業をさせる。
- その歌のリアルな場面を設定するのもいいし、全く違う世界(異世界、異能力者登場、未来、過去、外国等、自由に)を設定してもOKにする。
- リアルな場面を考えさせるだけだと、どこかにある「正解」を見つけ出すものとなり、イメージが膨らまない。
- その脚本を発表し、歌の書かれていない部分は、どうしてそのように読み取れるのかを示す《テキストに戻る》
- 思いつきの荒唐無稽なストーリーを書くのでは単なる表現の授業で、短歌の授業では無くなる。
- 作品に対するオマージュも持たせたい。
- 文学作品の授業は、「書かれていないこと《も》読み取る」というものであるので、書かれてあることから、書かれていないことをどのようにイメージしたのかを意識させる必要がある。