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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

ペーパーテストの限界


学部3年生が卒論テーマの一部として、「ペーパーテストの限界」を調べている。

ペーパーテストでは、学力のうち、何が測れて、何が測れないのか?ということだ。しかし、世には学校で身に付けさせる力は、ペーパーテストで測れる力のみと考えている教員もいる。ペーパーテストで測れない力を伸ばす労力を削る、もしくは「他に任せる」と豪語している管理職も現実にいる。

問題なのは、〔学校の成績=ペーパーテストで得た得点〕と思っている学習者、教員だ。そこで、ペーパーテストでは、何が測れて何が測れないかを明らかにする必要がある。以下の記述は、学部3年生ゼミ内での対話によって今現在確認したことをまとめている。

学力の三要素

学校教育法第30条第2項が定める学校教育において重視すべき三要素では、

  • 知識・技能
  • 思考力・判断力・表現力等
  • 主体的に学習に取り組む態度

と定められている。その中で、「主体的に学習に取り組み態度」は、ペーパーテストで測るのは難しいというのは何となく思えてしまう。しかし実際、ペーパーテストの結果が良いということは、「主体的に取り組んでいたのだろう」と推測している人もいる。

「知識・技能」は測れるのか?

「覚えた知識」は、文字として紙上に記載できる。だからきっと測れるのだろうと思われる。しかし、言語以外の知識は、紙上に再現することはできない。例えば図形や絵や動きとして記憶されているものだ。ある程度は再現できるものはあるが、動きは不可能だろう。

また、「技能」はどうか?言語の「技能」だったら、紙上への再現性は高いだろう。国語だったら「日本語として通じる文章を書く」とか、「○字以内で表現する」とすると、技能を使わなければならない。しかし、理科の実験の技能は、適切な実験の方法を紙上に再現しても、実際に実験でそれが出来るかどうかは不明だ。理科のテストを確認したが、「実験時の知識」しか問うていなかった。

「技能」は、部分的に測れるのではないか?ということを確認した。

「知識」とは、「検索力」?

記憶の奥底に沈んだまま表層に出てこないものは「知識」と言えるのだろうか?

ペーパーテストでは、時間内に覚えたはずの知識を引き出さなければならない。これができないと点数を取れない。テストが終わってから思い出すなんてことは良くあったことだ。だから、覚えていても表層に出てこないと「知識」とは言えなくなる。つまり、「知識」よりも「検索力」が必要になる。

しかし、検索力は、インターネットが発達した今、人間の力によるものはほぼ必要無くなり、インターネットに頼れば良くなる。そして、知識もクラウド上にあるものの方が人間の脳内より膨大だ。攻殻機動隊のように、人間の能力としてクラウド内を検索できれば、それに置き換わる気がするが、スマホを使っての検索はNGで、能力としてだったらOKというのは、どうしてだろう?

人間はペン等を使わないと紙上に字は書けないのに、ペンという道具はOKでスマホという道具はNGという根拠はなんだろう?

覚えたパターンに当てはめるのは、「思考力」、「判断力」か?

例えば、数学の問題を解く場合は、「思考力」、「判断力」を測っていると言えるかもしれないけれど、果たしてそうだろうか?

数学の問題を解く場合、今までの学習で習った公式を問題に出された数字に当てはめて解いていくことが多い。これは、「思考力」と言えるのだろうか?思考しているのだろうか?知識としてある「公式」を目の前の問いに当てはめているだけじゃないだろうかか?検索しているとも言える。

特に定期テストの場合、授業で学んだことが出るのだから、学んだことを問いに当てはめていくことがおこなわれていくことが多い。

今まで学んだことがない、出会ったことがない問題を解いている場合は、思考力、判断力は働いていると思われるが、定期テスト、入試問題では、ほとんどの場合ないといっていいだろう。

「表現力」は測れそう?

言葉による表現力限定だが、これは測れると言っていいだろう。ただし、文字言語の表現力だけで、音声言語の表現力は不可能なのは当然だ。

ペーパーテストで求められる力

ペーパーテストを解く際にどんな力が使われているのかを考え、それって、社会で生きていく上で、どんな風に役立つのだろう?を対話してみた。

制限時間内に「正解」を引き出す力

5分とか、40分とか、90分とか、決められたかなり短い時間内集中して解答をしなければならない。これらはそれなりに力が必要だというのは当然なのだが、果たして生きていく上で、こういう場面ってあっただろうか?

もちろん働く上で試験をパスするという機会はある。そこには必要な力だし、それを上げれば試験の点数は良くなる。しかし、それ以外に使える力なのか?というと、そうでもない気がする。

生きていく上で「期限」はあるが、それは○日や○カ月ぐらいの単位だ。その中で、仕事や生活をやりくりして、時間を生み出し、それに当たっていく。○日間集中してそれ以外取り組まなくていいなんていうことはあり得ない。時間を与えられ、テスト問題を解く以外は何もしない環境なんて、試験以外、社会の中であり得ないと言っていい。学校を卒業したら、試験を受けずに生きていく人なんてたくさんいる。

ペーパーテストを解く場というのは、かなり特殊な環境と言ってもいいだろう。クイズ大会はそれに近いとも思う。日本人がクイズ番組大好きなのは、学校で培った力を発散したいからなのか?

誰かが作った「正解」を当てる力

ペーパーテストには、必ず「正解」がある。そしてその正解は誰かが作ったものだ。世の中の真理を見つけているわけではない。科学や数学の「正解」も、とりあえず今の段階で妥当だと思われている考えを「正解」としているにすぎない。学問研究のレベルになったら、誰かが作った「正解」を当てる力なんて何の役にも立たない。誰かが作った正解の矛盾を考える力を付けなければならない。

大学入試共通テストに代表されるような選択肢の問題を解く力なんて、生きていく上で全く役に立たない。人生のうち、いくつか選択肢があって、1つだけが「完全正解」なんてあり得ないからだ。生きていく上で、Aの道をたどるか、Bの道をたどるか、のような選択の場面はたくさんあるが、どちらかが必ず正解ということはあり得ない。

むしろ、どっちも間違いということもある。

または、Aを選んだ場合、そのAという選択肢を「正解」に自分の力で近づけていくということがとても大切だ。自分で「正解」にする力の方が生きていく上で役に立つ。

最適解や納得解を考えるテスト

ペーパーテストでは、主に唯一解を当てる作業になるのだが、思考力や判断力を測るのであれば、最適解や納得解を答えるものにするべきだろう。

例えば、

「李徴は本当は妻子のことなんて全く気にしていない。」とした場合、その理由を論ぜよ。

というような、出題者も正解が分からない問題だ。正解は分からない(「正解」がないから分からない)が、論述の妥当性は測れる。それで評価することは可能だ。ちょっと難しいけれど。

生きていく上で、黒を白にする、白を黒にする。失敗を糧にする、成功体験で物事を測らない、というような力がとても大切だと思う。

終わりに -「思考力」とは-

「思考力」とはどこからどこまでを指すのか?はまだ明らかにしていない。知識を呼び起こすのも「思考力」だ、とすれば、「思考力」は簡単に測れることになるが、きっと違うのだろう。ぼんやりといろんな思いを巡らせていても「思考」だと言っていいのかどうか。ここの定義を明らかにする必要がある。

「実用的な文章」学級日誌


今日の大学院授業「中学校高等学校国語科授業づくり演習」では、今年度から始まった「現代の国語」の実用的な文章を取り上げ、みんなで「どんな課題を設定して授業をしたらいいのか?」と、考えた。その教科書には「実用的な文章」として学級日誌が例の1つとして挙げられていた。

学級日誌って、高校でしか使っていないということを知ってびっくり。そういえば、小・中では連絡帳みたいな感じで教師と児童・生徒はやりとりしている。だから学級日誌って、無かったのか?とも思ったが、そもそも学級日誌って何のためにあるのだろう?と考えた。

「日誌」という名称だけあって、記録のためにあるのだが、日々その授業の科目名や担当教師名、欠席者名などを書いて、それは「実用的」になっていたのだろうか?と思い返した。

※学級日誌の実用的な側面

  • 遅刻、早退などがあった場合、出席簿に表れない(選択授業など)部分での生徒の記録で確認する
  • 昨年の今頃、どんな連絡をしていたのか確認する

等が思い当たったが、それほど頻度は高くない。

私の場合、「交換日記」的な側面があったかもしれない。

生徒には、ある程度の量の記事を課していて、それに必ずコメントを付けていた。週番が日誌を書くことにしたのだが、その週番の生徒とのコミュニケーションに使っていたとも言える。今となっては、20年以上(写真上)、約8年(写真下)前の記事を見て、懐かしがるという意味しか無いのかもしれない。

本来は「日誌」なので、その日の連絡などを記入して、聞き漏らした人がそれを閲覧して確認するという側面もあっていいはずだが、朝膨大に伝えられる連絡を記入するのは難しい。日誌には全くそれらが書かれていないのは、考えてみれば、朝の連絡を伝えていたのは週番だったからかもしれない。

「現代の国語」での授業では、どのように扱えばいいのか?とアイディアを出し合ったが、

学級日誌をもっと実用的なものにするため、どんな記入欄を設ければいいのか、レイアウトをどうすればいいのか?

を考えるというものが挙がった。

または、

日誌というのは、その日あった出来事を記載するものだから、「記事」と「所見」の欄を分け、事実のみを記入する練習をするのも面白い。

とも挙がった。

各教科書会社、「実用的な文章」の取扱いには、迷走しているようだった。

VR空間研修(メタバース)の可能性

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体育ICT研究会メタバース研究会にVRゴーグル(Oculus Quest 2)で参加した。私はVR酔いがひどいから、どうなることやら?と思って参加したが、2時間なんとか持ち堪えた。

体育ICT研究会の実践や発表内容の質の高さに驚くとともに、今後のメタバースを使用したオンライン研修会の可能性を体験できた。

VR空間に参加するのは、体力的な負荷はちょっとあるけれど、私にとって精神的な負荷はZoomなどの平面画面よりも無いということが分かった。今後、メタバースを使っていろんなことをしてみようと思えた研修だった。

メタバース空間のメリット

参加者同士の距離感がいい

Zoomで参加すると、全員が同じ画面に平面でこちらを向いている。私はこれが結構つらい。全員に見られている感じがしてストレスがかかる。しかし、話題提供者が画面共有をすると、その画面だけが見え、他の参加者の存在が感じられなくなる。

体育ICT研究会のメタバース研究会では、Spatial
spatial.io
というアメリカのサービスを使用していたのだが、ちょうどいいホールの空間が用意されていて、開放的で、しかも近くに移動すると、「あ、近い!」と思えるし、遠くの人は気にならなくなる。人間としての距離感の感覚が丁度良かった。

没入感があり、そしてよそ見ができる

Zoomだと、画面に強制的に共有画面、または参加者の顔(もしくは、ビデオOFFした人の名前)が表示される。それを見ていなければならないが、メタバースだと、首を振れば、他の景色が見える。これは、その研修会に没頭できるとともに、ちょっと気をゆるめてよそ見をすることも許される。これはVRゴーグルを付けているからなのだけれども、スマホ等で参加した場合は、どうなるんだろう?スマホの向きを変えると別の景色が映るようになるのだろうか?なっていればいいなぁ。

人がいるのを感じられる

このメリットをもとに、バーチャル模擬授業を仕組んでみようか?と思っている。オンラインでの模擬授業、はっきり言って学習者からの反応が全く感じられず、授業者の訓練になっていない。対面で行うのが一番いいのは決まっているが、それが出来ない場合、参加者の存在を感じられる。参加者がどこを向いて、どんな動作をしているのか、その雰囲気を仕組むことができる。来年度、それをやってみたいと思う。

Spatialのメリット

メタバースサービスを検索して、Clusterと、horizon Workroomaを見つけていた。しかし、Spatialが一番使いやすいと感じた。

アバター参加とVR空間

horizonは、スマホ等で参加した場合、参加者はアバターになれない。Zoomのような平面画面に動画で映される。Clusterは、スマホでもアバターで参加できるのだが、独自の空間を作るのが一苦労。かなりのプログラミング技術がないと、まともな空間は作れない。

しかし、Spatialはある程度しっかりした空間が用意されている。独自の空間を時間をかけて作るよりも、用意されているものを簡単に使えた方がよい。

アバター作成

これは良し悪しなのかもしれないが、Spatialは自分の顔が自動でアバターの顔となる。工夫したり、選んだりという必要はないが、PCやスマホのカメラで撮った顔が3Dアバターに加工される。自分のものを見るとちょっと気持ち悪いのだが、他の人のを見てもそんなことは感じないから、それはそれでいいのかもしれない。アバターは上半身だけで、シンプルになっている。

メタバース空間のデメリット

首が凝る

Oculus Questが重いせいだが、2時間付けっぱなしだとかなり首が凝る。1時間程度が限界かな?もうちょっと軽いVRゴーグルも対応してほしい。

動画再生が止まるかも

Zoomに比べて、データ量が多いから、たまにいろいろ不具合が生じた。これは今後改善していくんだろうけれど、用意された動画が流れなかったり、音声が一旦途切れて、その後圧縮された早口の発言が流れたり、アバターの動作がおかしかったりと、ちょっとそれは気になった。

酔う

軽いVR酔いにはなった。メガネをしてVRゴーグルを付けているせいもあるのかもしれない。目を酷使しているという感じになり、ちょっと酔った。Oculus Questに付ける矯正レンズを買うしかないかな?しかし、ClusterのVR空間に比べたら、全く酔わなかった。Clusterのユーザーが作った、オープンの空間に行くと、ちょっと移動しただけでぐらぐら酔ってしまう。Spatialはそこの部分は工夫されているのかもしれない。

グループ討議では、他の声も入ってくる

今日は同じ空間で、グループ討議が組まれていたのだが、Spatialには、「近くの人同士で会話ができる」というメニューがあるらしい(有料プランのみ?)。しかし、近くの人の声も入ってくるが、別グループの人の声も入ってくる。だから近くの人の声が聞き取れない状態になってしまった。もっと距離を空けないといけなかったのかもしれない。別のRoomを用意することで回避できたのかもしれないが、それも手間だろう。Zoomはブレイクアウトルームでそれが簡単にできる。

総評

データ量を食うので、モバイル通信で参加するのは難しいかもしれないが、今後改善されていくだろう。コロナ禍で対面の学会、研修会が軒並みオンラインになっているが、コロナ禍が明けたとしても、インターネット通信環境が整っている場合、旅費をかけて参加するのは難しいけれど、メタバースだったら、と参加しても、十分満足感は得られると思う。リアルの参加者とオンライン参加者が融合して参加できるようになるともっと面白いのだと思う。

VR空間は自由にいろいろできるので、今度オンラインゼミでやってみよう。Oculus Quest 2、もっと買わなきゃか。

手書き文字教育は続くのか?

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片桐研究室の学部2年生Hさんは、毎日その日の出来事を手で書いて残しているそうだ。いわゆる「日記」なのだが、「手書き」である必要があるのか?というところから発想し、1人1台タブレットが配布され、手書きで文字を入力せずとも、タブレットフリック入力、そのうち音声入力できるようになったとき、学校で行われている「紙に鉛筆等で文字を書く」という指導は必要になるのだろうか?という問いから、いろいろ考え出している。

今日の全体ゼミではそのことについてゼミ生たちが意見を出し合った。

手でも字が書ける人が珍しい存在に?

生まれたときからデジタル入力機器が周りにある子どもは、手書きで文字を入力するようになるのだろうか?今だって、手で字が書けないけれど、スマートフォンを操作できる子どもはざらにいる。その子たちはフリック入力で字を入力しているのだろうか?いや、文字という認識が確立していないときに、文字を入力するのだろうか?

それはよく分からないけれど、手書き文字を書かないまま育った人は、文字は読めるけれど、手で書けない(書かない、書く必要がない)ということになる。

えー、字って手で書けるんですか?

なんて驚かれる時代も来るのだろうか?

心がこもる?

手紙をもらったとき、手書きの方がうれしい気がする。もし、プリントアウトされたものだったらがっかりする、などという感情から、「心を込める」ために、手で字を書くことは残るかもしれない。「希少性」という価値を付けるためだ。じゃあ、手書きでレタリングして活字のような綺麗な字で手紙をもらったら、同じようにうれしく思うのだろうか?

好きなタレントのサイン、肉筆の方が価値が高い気がする。肉筆を印刷したものよりも、生で書いた方が価値が高い気がする。「希少性」があるからだろうか?でも、肉筆の手紙をもらったとき、「希少だ」と思って読むことはほとんどない。世ほどの有名人じゃないけれど。今のようにPCやプリンターが普及していないときでも、肉筆の手紙をもらったときに嬉しく感じた。これはなんだろう?

「心を込める」とは?

私の好きなアニメ「Vivy - Fluorite Eye's Song」では、AI歌姫ロボットが「歌で人を幸せにする」という使命をもとに、どうすれば「心のこもった歌が歌えるのか」を模索しながら生きて(?)いく。

どうして手書きだと「心がこもっている」と感じるのか?ここから研究を開始しなければならない。本当は心はこもっていない文章でも「心がこもっている」と錯覚してしまうのか?手書きで文字を書く必要性は何なのだろう?と、感情の部分ではなく、人間の能力、機能の面で研究を進めていかねければならない。

「美しい字」を書く指導は必要?

小学校の国語や、習字の時間、いわゆる「書き方」の課題では、薄く印刷された活字の上からなぞる練習をする。これは、いわゆる「整った字」を身に付けようとするものだ。この指導は必要になるのだろうか?

ある程度整った字は書けるようになった方がいいのかもしれないが、フリック入力で文字を出力できるようになった場合、手で書く必要はなくなるのだから、「最低限『その字』と判別できる程度の字」が書ければよくならないだろうか?いや、そもそも手で字を書かなくなるのだから、そんなことも必要ではなくなるのかもしれない。

「個性ある字」が書けることこそ必要?

先のタレントのサイン、いわゆる「整った字」ではない。そっちの方が有り難がられる。「なんて書いてあるの?」なんていうものが色紙に書いてあった方が有り難がられる。希少性が生まれるからだ。学校ではそこまで崩さなくても、「その人らいし字」であれば、いいのではないか?

「文字を書くのが嫌い」というゼミ生がいる。どうして?と聞くと、「自分の字は汚いから」と答える。「綺麗、汚いは感覚的なものだよね」とは返すが、「綺麗な字」信仰はほとんどの人にある。私も「綺麗な字」を読んでいる方が心地よい。それは、学校で「綺麗な字」信仰を浴びたからそうなのであり、その「綺麗な字」とは、活字だ。活字が漢字練習帳に薄い色で印刷され、それをなぞる修行を何年もくり返したら、そのようになるに決まっている。

しかし、それもいらなくなる。「読めればいい」、いや、「字なんて書けなくてもいい」となれば、手で字を書く場合、最低限「よめればいい」ということになり、そこに「綺麗」「汚い」という価値判断はなくなる。そうすれば、「字を書くのが嫌い」というのは、「書いた結果がどうだから」ではなく、「手で字を書くのは疲れる」という肉体疲労の面の理由になる可能性はある。

つまり、「自分の字を見てげんなりする」ということがなければ、「字を書くのが嫌い」という人はかなり少なくなるのでは?ひいては、「作文を書くのが嫌い」という人も少なくなるのでは?と予想できる。そもそもフリック入力で作文を書けば、そんな懸念も無くなる。今の大学生、手書きでレポートを書く人はほぼいない。

つまり、今後、文字を書く指導があった場合、「整った字」では無く、「その人らしい字」を目指すようになるべきなのでは?という予想である。「書き方」でも、「習字」でもなく、「書道」になっていく。

「美しい声」を出す指導ってされている?

音楽の時間、「美しい(整った?)声」を出す指導って「美しい(=整った)字」を書く指導に比べたら、それほど強いものではない。乱れた字を書く生徒に「字が汚いなぁ」とは言えるけど、美しい声じゃ無い生徒に「声が汚いなぁ」とは言わない。言わないようにしているということでは無く、その声自体を認めているのだ。「綺麗」「汚い」という価値判断で声を判断するのではなく、「その人の声(=個性)」として認識しているのだ。

自己表現の手段である手書き文字だって、そのように判断されてもいい。「その字」と認識されれば、声と同じように「それはそれでいいもの」と認識されれば、これほど「字を書くのが嫌い」と思う人もいなくなるはずだ。

文字を手書きするとき、どんな能力が開発されているのか?

これはしっかりと調べないと分からないことだ。逆に言うと、文字の手書きを全くしなくなったら、どんな能力が欠落するのか?ということだ。これを根拠に「手書き文字の練習が必要」と主張しなければならない。Hさんの来週の調査成果に期待するしか無い。

3D絵画がキー?

「ノートの決まったところに収まるように文字を書くと、空間認識能力が付くのでは?」という意見が出た。なるほど。その微調整を肉体で行うというところに能力開発のポイントがあるような気もしてくる。先日VRゴーグルのアプリを調べていたら、「3D絵描きアプリ」があった。もちろんヴァーチャル空間になのだが、ゴーグルを付けて、筆を持って、3Dの絵画を描くことができる。空間認識力が開発されるような気もする。今まで人間ができなかったことが、VRゴーグルで可能になる。今まで開発されなかった能力が開花される可能性はある。

余談だが、私はVR酔いがひどい。すぐに気持ち悪くなる。VR酔いにならない人に比べて、何かの能力が未開発(劣化?)なのだろうな、と思う。

手書き文字はお札、フリック入力されたデジタル文字は電子マネー

おじいちゃんから「お年玉だよ」と言われて、5,000円をもらう。その時におじいちゃんが

PayPayで上げるから、スマホの受け取りQRコード出して。

と言われたら、「えっ?」と思うのだが、それは、我々の感覚だからであり、この数年生まれた子どもたちは、物心ついた時に「現金」というものは無くなっている可能性がある。最近では、神社や寺の賽銭を電子マネーで払えるようになっていると聞く。銀行でのコインのやりとりに手数料がかかり、そうせざるを得ないそうだ。

そのうち結婚式や葬式のお祝い、香典を払うときに、祝儀不祝儀袋では無く、受け付けにQRコードが掲示されるかもしれない。いや、もうそのようにされているところもあるのだろうか?

「手書き文字」も「お金(現金)」も、その価値以外のところにも「思い」が「乗る」部分があるんだろう。それが「心を込める」ということになるのだろうが、少なくとも「手書き文字」の練習がなされなくなる(=手書きで文字が書けなくなる)と、

「心を込められる何か」は存在しなくなる

ということは明らかだ。自分が「心を込め」たいと思ったときに、それが無いということは、「自己表現の手段が狭まる」ということに繋がることは言える。

科学の進歩とは、人間の能力を削ぎ落としていくもの?

いろんなもののデジタル化がなされていくが、デジタル化すればするほど、「本質」のみ残り、「枝葉末節」は切り落とされていく。だから「便利」と言えるのかもしれないけれど、「不要不急」に意味を見いだすのが人間であり、そこで生きている人もたくさんいる。

「本質」=「同質」なのであり、「同質」=「交換可能」となる。

学校教育は交換可能な「人材」を作るところでは無いと思っている。「その人がいて良かった」と周りが思うように成長させるところだと思うのだ。「その人がいて良かった」というのは「枝葉末節」の部分に宿っているのでは?と思う。

こんなぼんやりとしたまとめをして、とりあえず「続く」ハズ。

今年やろうと思うことごと

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新年になって、1カ月も過ぎて、今年やろうと思うことごとがだいたい固まってきた。ぼんやりと頭の中に置いておいても良いのだけれど、ブログで公表しておいた方が自分の励みにもなるし、ふりかえりにもなる(年末には年頭のことなんて忘れてしまう可能性が高いから)ので、書いておく。

メタバースで教室を作る

VRゴーグルを手に入れた。これが思いの外凄い。今までのVR空間のイメージは、のっぺりとしたCGの世界に入って行くというイメージで、上下左右360°を見られるだけの感じで、2DのCG映画を大スクリーンで観ている感じだと思っていたけれど、最新のものは、立体視ができる。完全に自分の前にそれがあると錯覚してしまう。触れるのでは?と、思わず手が出てしまう。これは驚きだった。

horizon Workrooms

メタバースといえば、Facebookから社名が変わったMetaでしょう、と思って、horizon Workroomsを試してみた。
www.oculus.com
結構簡単にアバターを作り、ワークルームも事前に用意されていて、簡単に空間を設置できるのだが、いかんせん、VRゴーグルで入らないと、アバターが機能しない。PC等でも入れるのだが、それはZoomと同じような表示の仕方だった。スマホやPCでもアバターでは入れるところは無いのかな?

cluster

そんな中見つけたのがclusterだった。
cluster.mu
自由に空間を作れるし、日本の企業だし、社名が、タイムリーだけれど、2016からの会社だった。たくさんの企業や学校が導入していて、学校説明会やオープンキャンパスなどもこのサービスを使ってオンライン開催している。

これは、VRゴーグルでもPCでもスマホでも、自分のアバターを作成して同じように空間に入れる。例えば、模擬授業など、今後コロナ禍で人が集まれなくなったときに、たくさんの学習者相手に授業者の訓練ができるのでは?と思ったのだ。授業者役がVRゴーグルを付ければ、視点や移動をリアルにできて、訓練にもなるかな?とも思ったりして。

私には全くプログラミングの技能は無いのだが、労力と時間をかければ私でもVR空間を作れなくもない気がしてきた。どこかの誰かが用意した教室空間を自由に使わせてもらえればいいのだが……。

しかし、困ったことが起こった。VRゴーグルでclusterに用意されている空間に入ったところ、5分でVR酔いをしてしまった。これには参った。VR酔いを調べてみると、コントローラーを使って移動した場合、自分の体は移動していないのに、視覚が移動したと判定し、体と感覚でずれが生じてしまうことが原因らしい。

作り込まれたVR空間(例:有料ゲーム)は、それがなるべく起きないような工夫がされている。そんな工夫、素人ができるはずもない。

それでも、可能性は見出せた。まぁ、自分が作らなくとも、作ってくれる人を見つければいいだけのことだろうか?

投資をする

うちの家計は火の車とは行かないまでも、かつかつなので、老後の資金を蓄えるために何とかしなければな、と思いだした。きっかけは、ラジオで厚切りジェイソンの話を聞いたからなのだけれど。株式投資は今までもしているのだけれど、それはアルビレックス新潟スポンサーのコメリ亀田製菓の株を所持していて、毎期配当が来ている、というだけで、老後の資金というまでも行かない。今から少しずつでも分散投資をしておいたほうがいいな、と考えた。

楽天証券

www.rakuten-sec.co.jp
とりあえず、米国株インデックス・ファンドを月々5,000円ずつ積み立てることにした。子どもたちの学費の支払いがあり、それほど余裕があるわけでもないけれど、この1〜2年、飲み会が急激に減り、そこに費やすお金をこちらに回せるかな?と思ったのだ。あともうちょっとで住宅ローンを完済できるので、そうなったらもうちょっとこっちに回せるのかもしれない。すぐに引き出すお金じゃないから、厚生財団の積立よりも、こっちの方が確実(ではないけれど、長期的視点で)に貯められるのかな?と思った。

楽天証券は、ずいぶん前にコメリ亀田製菓の株を買ったときに講座を開設していたので、思い立ったらすぐに申し込めた。しかし、投資開始日は3月で、結構時間がかかるのね。

面白いことに、楽天ポイントからこの投資に回せるのだ。私はポイントがお得なときにApple Gift Cardを購入し、iPhoneアプリのサブスクを支払いしている。楽天ポイントもプラスで付く。今まで、ポイントをためていても利子は付くことがないので、溜めずにその都度使っていたが、投資に回せるということで、運用してそれが増える。例えば、楽天ポイントが100Pあった場合、次回の投資金額は4,900円とポイント100Pで完了するということだ。これは面白い。

PayPayボーナス運用

ポイントの運用で見つけたのが、PayPayボーナス運用だ。
paypay.ne.jp
去年から主なキャッシュレス支払いをPayPayにした。PayPayCardも作った。それでPayPayボーナスがそれまでよりも獲得できるようになった。PayPayCardを作ったボーナスがある程度ドッサリ来たので、これを運用に回せるのが、PayPayボーナス運用だ。まぁ、ボーナスはボーナスなので、損することは考えられない。だって、現金で払っていれば確実に得られなかった「ポイント」だから。それが増えるというので、初めてみた。

運用先は3種類あって、米国株インデックス・ファンドのような、主要株にまんべんなく投資するスタンダードコース(長期投資向け)と、テクノロジーコースとチャレンジコース(短期投資向け)だ。スタンダードコースにだいたいを投資し、他の2つをちょっとずつ割り振った。面白いのが、PayPayボーナスが付与されるごとに、3つのコース順番に振り分けていく設定があるのだ。ボーナスは全て運用することにした。まぁ、マイナスになることもあるだろうが、遊びみたいなもんだし、それをすることで、株価の動向も意識するから、いいかな?とも思った。

ふるさと納税

昨年末からふるさと納税をするようになった。かつて住んでいた南魚沼のおいしいものを手に入れたいな、と思ったのがきっかけだが、返礼品は国産の質のよいものばかりが並んでいるので、質の高いよいものを手に入れるには、ふるさと納税が最適だと思うようになった。
www.satofull.jp

新潟の冬を乗り切るのには、半纏が欠かせないのだが、良い半纏を店で見たことがない。大きいスーパーで売っている半纏は、薄っぺらい、化繊の全く暖かくないようなものばかりだ。今まで1着持っていたのだが、それは10年以上前、東京の百貨店で購入したもので、上越のアパートに持って行ってしまった。新潟の家で使う半纏が欲しい。新潟の老舗呉服屋を覗いても、薄っぺらいものしかなかった。もちろん、衣料量販店がおいているものはひどいものだった。

久留米半纏

そこで、ふるさと納税で久留米半纏を見つけた。
www.satofull.jp
これがとてもいい。縫製も温かさも肌触りも申し分ない。大手通販サイトで購入するよりも信頼がおけるということがわかった。ということで、いいものを手に入れるためにふるさと納税をすることにしたし、南魚沼の米や酒を手に入れるためにも月に1万円ずつぐらいしようかな?と思った。丁度1に1万円ぐらいで、上限となる。

南魚沼の美味しいもの

www.satofull.jp
高千代は、新潟市で見かけない。鶴齢はおいてあるのに。十何年ぶりに高千代を飲んだ。いやぁ、美味しかった。私が日本酒好きになったのは、最初の赴任地六日町で飲んだ、高千代と白瀧だ。残念ながら返礼品に白瀧はない。

www.satofull.jp
さとふるサイトで初めて知ったのだが、これも上手かった。また申し込もうと思う。

【吟精無洗米】『南魚沼産コシヒカリ』精米2kg×1 | お礼品詳細 | ふるさと納税なら「さとふる」
言わずと知れた南魚沼のコシヒカリ。今後米はふるさと納税で手に入れることにする。

目標でも、何でもなく、「やりたいこと」なのだ。

目標は例年「現状維持」に変わりない。このご時世、「現状維持」が益々難しくなっている。そんな世だから「微増」でも御の字。

短時間で問題が解けると何かいいことがあるのか?

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いろいろと水を差すようだが、水を差していろんなことのバランスを取るのを勝手に今年の目標としたので、こんなことを思ってみた。

短時間でテスト問題や授業の課題を解くのに意味があるのか?

先日、学部2年生の授業で、教育関連のもやもやを挙げてもらい、それにまとめて答えるということをしてみた。挙げられたもやもやの中に、

時間内に解く、なるべく早く解く」という評価規準に意味があるのか?じっくり課題に取り組み、時間がかかっても解いていたことも評価すべきではないか?

というもやもやがあった。私はその通りだと答えた。そこで、ふと、解いた時間が短ければ短いほどよいと学校では考えているが、そうできることで人生においてどんな力が養えるんだろう?と疑問に思い、みんなに聞いてみた。大学は大学入学共通テスト前で授業はオンラインでおこなう事になっていたので、チャットに記入してもらった。

問題を早く解けると、実生活に役に立つと思えること

「テストの点数が良くなる(時間内に全て解ける)ということ以外、人生で役に立つと思えることを挙げてみてください」と質問したら、以下の回答があった。

問題が早く解けると、時間を他のことに回せる

なるほど。でも、そもそも問題を解かなければ、解いている時間を他のことに回せるよね。人生において、あのように時間を計られて問題を解くのって、昇進試験や資格試験、テストの時だけだから、それに良い点数を取るという力は付くかもしれないけれど、そんなことって、長い人生の中の一時しか無いし、そもそも学校を卒業した後全く無い人だっている。

進学試験、就職試験、資格、昇進試験等の試験をパスするための力は付くだろうけれど、それ以外の力は付かないのでは?

仕事をする上で、仕事を早く終わらせることができる。

授業の問題を早く解けるようになると、就職して仕事をしたときに早く終わらせることができるのだろうか?数学の問題を早く解ける人は、仕事をテキパキと終わらせることができるのかな?そもそも仕事って、「数学の問題を解く」というような、シングルタスクでは無く、想定以上のマルチタスクをこなさなければならない。1つの問題に没頭してそれを解く力と、マルチタスクをこなせる力って違うような気がする。

例えば、私にとって実生活での最大のマルチタスクって、料理なのだけれど、数品目の料理を作り、料理が完成したときには、使用したフライパンやまな板、包丁などが洗われているのが理想だ。これってかなりのマルチタスクで、それが達成することって、私の歳でも難しいのだけれど、数学の問題をあっという間に解ける人って、これはできるのかな?

焼き魚を焼いている間、味噌汁を作り、目玉焼きを作り、目玉焼きを作ったフライパンを洗い、ああ、味噌汁ができたと思ったら、焼き魚を焼いていることを忘れてしまうことなんてしばしばだ。こうなると真っ黒な焼き魚でご飯を食べることになる。

「そんなの慣れればできる」という人は、じゃあ、「仕事を早く終わらせる」ということも「慣れればできる」ということになり、数学の問題を早く解けることとは全く繋がらない。マルチタスクをこなせる人って、全く別の力が付いている気がする。

だからこれも当てはまらないのでは?

満足感を得られる

これが最も多かった回答だった。満足感、達成感を得られると思うが、じゃあ、学校卒業後、その満足感、達成感を得るために、自ら設定してなるべく早く問題を解こうとするだろうか?期末テストでも無いのに、時間を計って、数学の問題を解いて、「ああ、昨日は3分で解けたけれど、今日は2分50秒で解けた。やったー。」と思うだろうか?

それは、半強制的に「テスト」ということを設定されているから起こる満足感であって、学校卒業後や、資格試験などが無くても、そんなことを進んでやっている人はほとんど知らない。

それよりも、若いときに感じた疑問が30年後の今わかった!ということの方が満足感を得られる。20代に読んだ小説で、「どうしてこんな表現になっているんだろう?」と思うのだが、50代で読み返してみたら、それが解明できたという喜びは大きい。そうなると、早ければ早いほど良いのでは無く、遅ければ遅いほどこの喜びは大きいと思う。

結局テストでいい点数を取るという目的のため

「リフティング連続100回を達成する時間が早ければ早い方が良い」という課題がサッカースクールで出されたとしよう。スクールメンバーは一斉に行い、100回達成した人から座っていく。達成できない人は続けている。早く達成するためにリフティングを練習する。早く達成できた人の方がリフティングが上手いということになる。その力はどこに活きるのかというと、サッカーというゲームに活きていく。個々のボールを扱う力が上がれば、サッカーというゲームで勝つ可能性が高くなる。しかし、人生においては活かされない。当たり前の話だ。サッカーが上手くなりたい、サッカーのゲームに勝ちたいという人の集まりだったら、そういうことは当たり前だ。

でも、学校という多種多様な人たちの集まりで、「問題を解くのが早ければ早いほうがいい」という「固定観念」が蔓延しているのはおかしいのではないか?「テスト」というほんの一部の「ゲーム」のために、全員にその能力を付けさせる必要はあるのか?そう思い込ませる必要はあるのか?

そもそも、どうしてテストに制限時間が課せられているのか、というと、学校側の都合だ。一斉に時間を区切っておこなった方が「公平」という「固定観念」、成績を付けるタイムリミットがあるという学校側の都合(それは当然のことだと思うが)を、時間を限定した評価方法でおこなわざるを得ない(もちろん入試も)のだ。いやいや、定期テストを廃止している学校も出現してきた。

問題を解く時間が短ければ短いほどいいというのは幻想

私が若い頃、市民マラソン大会に積極的に参加している同僚がいた。その方は40代だったと思うが、「どうして上位入賞できないとわかっている、あんな苦しいマラソン大会に参加しているんですか?」と質問した。その時の答えにびっくりしたのだが、ジョギングを始め、マラソン大会に参加するようになった今、その答えがとてもわかる。

足が速い人は短い時間しか走れないけれど、私だったら長い時間楽しんで走れるでしょ?

もうあの頃には戻れない

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かまいたちのネタに、「おれ、となりのトトロ見てない!」というものがある。見ていないことを自慢する大好きなネタなのだが、見ていないからこそ、これから見る楽しみがあるということを自慢するのだ。

そういうことってあるよな、と思う。初読というのは、人生のうちに1度しか経験できないのだ。初読を人生のどの時期に充てるかによって、その作品のとらえ方が全く違ってくる。夏目漱石「こころ」は人生のうちで最も再読している作品だが、初読は確か20代だった。これを10代で読んでいたらどんな感じになったのだろう?10代だったらきっと高校の現代文の授業でだっただろうが、悲しいかな、私が通っていた高校では「こころ」を授業で扱わなかった。

ある程度読み取りの力が付いていた時に読むか、そうでもない時に読むかで作品のとらえ方は全く違ってくる。読み取りの力が付いていたほうがいいかというと、そういうことでもない。なんでも「わかった気」になって読むと、作品は楽しめないと思うからだ。しかし、読み取りの力が一旦付いてしまうと、それを削って読むことができなくなる。

あの頃には戻れなくなる

のだ。

今、「傷物語」を再読している。最初に読んだのは2018年。次男が中学校から借りてきて、私も読んだのだ。「化物語」シリーズのアニメはAmazon Prime Videoで見ていたが、「傷物語」はAmazon Prime Videoのリストには無かった。小説が先だったような気がする。

物語シリーズは、時系列やその他設定が、前ぶれ無く降ってくる。「なんで?」、「なんで?」と思いながら、アニメを見るしかなかった。事前情報を全くなくアニメを見出したからだ。しかし、それだったからこそ楽しめた。原作者の西尾維新はまだ発表していない「続き(時系列的に過去の場合もある)」を前提に書いているので、「一体過去に何があったのか?」と思いながら、シリーズを順番に見ていくしかなかった。

一通り見終わった後、じゃあ、時系列で見よう、副音声を聞きながら見よう、とか、3〜4回は通して見ている。

しかし、1回目のあの分けのわからない不安で、ワクワクする気持ちは、もう2度と訪れない。今、原作本の2回転目を読んでいるのだが、ある意味「確認作業」のようなものになっている。それでも面白いのだが。

これから「物語シリーズ」を初めて見る人がうらやましい。