Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

学校は会社や工場ではないはず

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新潟県で20年前に新設された県立高校2校が募集停止になった。

新設した県立学校がたった20年で閉校(募集停止)となる。「中等教育学校は大学進学率が全国ワーストだった新潟県の教育水準を底上げするなど約20年の歩みの中で一定の役割を果たしてきた。」という意見もあるようだが、「役目が終わった(ニーズがなくなった)から閉校」というストーリーは、学校教育において、あるべき姿ではない。

例えば、佐渡中等教育学校は、両津高校に併設して作られた。その後両津高校が募集停止となり、結果的に佐渡中等教育学校が吸収した。

50年以上もの伝統があった両津高校(創設時は「新潟県町立両津高等女学校」)は、たった20年しか続かなかった佐渡中等教育学校に吸収されて消えてしまったことになる。

単に大学進学率順位を上げるためだけに伝統ある学校がなくなってしまうことに、「学校」というものの捉え方の違いを感じる。

学校は会社や工場ではない。交換可能な何かを生産したり、右から左に流すだけで利益を得るような組織ではない。

児童・生徒が1つの学校にいるのはせいぜい数年間(小学校や中等教育学校だったら6年前後)でありながら、その後の人生、良きにせよ悪しきにせよその時に経験したり、感じたりしたものに影響されながら生きていく。その学校があっという間に無くなった時の虚無感は、計り知れない。

私は幸い小、中、高、大と通った学校は現存しているけれど、保育園は無くなってしまった。中学か高校の時に新聞記事で母園である保育園が閉園という記事を見て、自転車で訪れた。幼少時の3年間通った保育園でも、かなり寂しい気持ちになった。母校が閉校という経験をしている人は世の中にたくさんいるとは思うけれど、きっと私の感じた虚無感以上のものを感じていると思われる。それほど通った学校への思い入れは強いはずだ。

なぜこれほどまでの思い入れを持ってしまうのか、というと、その理由の1つに、得た知識、技術、資格等の数値で計れる以外のものもたくさん得ることができたからだろう。「雰囲気」や、「匂い」や、「人とのつながり」というようなものだ。

例えば、工場だったら、良い製品を作るために日々改良がなされ、「もっと効率よく、もっと質の良い製品を作るため」だったら、工場の移転、建て替えは資金があれば率先してなされる。なぜなら、工場が移転、建て替えしても、作る製品は同じ(または、さらに良いもの)だからだ。

しかし、学校はそうはいかない。古い校舎に愛着はあるし、思い出、思い入れは建物や場所に宿る。移転、建て替えされると、そこに宿った思い出、思い入れはリセットされたような気がするものだ。津波被害で高台に町を移転させた地域もたくさんあると思うが、移転した地域への愛着は、簡単に生まれるものじゃないだろう。

学校の統廃合を「進学率順位向上のため」を理由に簡単におこない、「役目が終わった」「ニーズがなかった」からといって、簡単に廃校にしようと考えちゃう人は、学校を市場経済に当てはめてしか考えられない人なんだろう。そもそも本当に「大学進学」が県民のニーズに合っていたものなのか?20年前の県民は、新潟県外から出てでも大学に行きたがっていたのだろうか?その進学の「夢」を叶えさせる大学入学予備校的な高校を望んでいたのだろうか?

「大学進学率順位最下位クラス」からの脱却という思いが主になって、この教育政策が行われたとしか思えない。じゃあ、今、「最下位クラス」から脱却しているとして、高校教育が20年前と比べてどのように良くなっているのだろうか?

今年の新潟県高等学校新採用者数(中・高採用)は、約20人。(専門科目のみ。国、数等の「普通科目」は採用無し。)という状況で、若い教員が若い生徒に接する機会を阻んで、年齢構成をいびつにしている状況が、高校生にとって良い状態だとは思えない。(ちなみに、隣県の長野県の採用予定数は90名前後だった。)高校教員志望の優秀な教員は、どんどん隣県に流れていく*1

市場経済だったら、市場にニーズがなかったら簡単に生産を中止したり、制度を廃止する。同じように、ニーズのある、今流行りの学科を簡単に作り、10年後不必要になったら簡単に廃止するという単純な編制方針を考える人は、生徒を工業製品のように考えているとしか思えない。

学校は、社会に目に見えて役に立つ(=経済的利益を生む)人を輩出するためだけにあるわけではない。

「大学進学率向上」のために中等教育学校が林立された時期、私の「どうして進学率順位を上げなければならないんですか?」「最下位じゃだめですか?」にきちんと答えてくれた人はいなかったんだよな。

*1:もちろん、再任用という雇用保障政策があるのは解っているが、それでもいびつすぎないか?

福田村事件(を観て考えた差別を生み出す構造)


2023年 日本 高田世界館視聴

毎月1日映画の日でも、高田世界館は、割引じゃないのか。1,700円払って(会員カード紛失!)観たが、いやぁ、払うだけの価値はあった。

新潟県内でこの日上映しているのは高田世界館だけ。全国では9月上旬ロードショー開始だったが、高田世界館では、この金曜日からかけられた。私の性格として観るのを延ばし延ばしにすると、見る機会を逸するので、さっそく観に行った。

www.fukudamura1923.jp

森達也監督は、今までドキュメント映画を作っていたが、ドキュメントではないものは今回が初作品だということだ。全てのドキュメント映画同様、森達也監督のドキュメント作品も、ある程度の脚色(編集・意図)が入っているのだが、初めからドキュメントではないという映画を作ることで、この事件の解釈が入り、むしろそっちの方が「真実」を映しだしているのでは?と思えてくる。

いろんな人に観てほしい映画だから、この投稿で細かく書くのだが、ネタバレになっているという矛盾を孕んでいる。

「差別」が生まれる(露わになる)状況を考える

学校教育に携わる身としては、「差別」、「いじめ」は避けて通れない教育問題だ。それらが生まれる要因、条件、要因、構造、状況、原因を考えていかなければならないと思っている。「きっかけ」ではなく、「原因」などだ。学校において「きっかけ」を取り除いたとしても、差別、いじめは無くならない。原因等がくすぶっていれば、どんなきっかけでも露わになってしまうからだ。

映画「福田村事件」では、様々な差別を生む条件、状況が複雑に入り組んで、その結果、悲劇的な事件が起こってしまったのだと思われる。それらを洗い出してみたい。

一般化、抽象化、「くくる」という人間の能力

人間は様々なセンサーが体に付いていて、たくさんの情報が体の中に入ってくる。その全てを取り入れて処理していくと、オーバーフローを起こしてしまって、パニックになる。よって、今まで入ってきた情報を一般化、抽象化してひとつひとつにこだわらなくてもいいような状態にする。「似たものをひとくくりにする」という能力だ。この能力があるからこそ、「同類」や、「差異」を認識できるようになる。

「くくり」は、決められたものがあるわけでは無く、それぞれがそれぞれの感覚で捉えて、「あ、これは似ている」「これとは違う」と感覚だ。とても大切なセンサーと感覚なのだが、「これは同じ」という判断がなされることにより、「これは違う」というものが自ずと生まれる。

映画の登場人物は、ほとんど「日本人」、「朝鮮人」という「くくり」で人を捉えていた。これは現代でも当たり前の感覚ではある。街を歩いていて、日本人っぽくない姿形の場合、「あ、外国人だ」と必ず意識してしまう。先日東京主張の時も、外国人観光客が多くて、「あ、外国から来たんだな。観光客が増えてきているんだな。」と思った。

しかし、この映画は、「朝鮮人関東大震災に乗じて襲ってくる」というデマがはびこり→「我が村を守らなければ→朝鮮人を殺すべきだ」という図式になり、日本の行商の人たちを虐殺する事件を描いている。

どうして「襲ってくる」というデマを信じてしまったのかも考えなければならない。

人間は「くくり」をしてしまう生き物

一般化、抽象化し、「くくる」ことをすると、「同じ」「違う」という認識が生まれる。問題は、その後だ。「同じ」だからどうなのか?「違う」からどうなのか?

  • 「同じ」だと嬉しい、「同じ」だと嫌だ。
  • 「違う」と嬉しい、「違う」と嫌だ。

どちらの感情もある。もちろんどちらの感情も生まれない場合もある。

「福田村事件」に描かれている差別意識は、特別のものでも無く、我々が生み出す差別意識そのものが描かれていると思うが、「「違う」と嫌だ」というものが露骨になったものだった。

福田村のものは襲ってこないが、朝鮮人は襲ってくる。
福田村は日本人の村で、日本人は襲ってこないが、朝鮮人は襲ってくる。
福田村という日本人の村には朝鮮人は入れない。
福田村という日本人の村に入ってこようとする朝鮮人は排除すべきだ。
福田村という日本人の村に入っている朝鮮人は殺すべきだ。

という思考手順で虐殺が行われたように思われる。

「くくり」で考えれば、以下のように福田村にはいろんな「くくり」を設定することができる。

家族 //A// 組織(役目) //B// 我々の村人 //C// 日本人 //D// 朝鮮人

そしていろんなくくりで対立(ちょっとした喧嘩、いさかい、トラブル)が起こっている。過激に考えて朝鮮人を排斥しようと考えている水道橋博士をを長とする退役軍人会とデモクラシーを推奨している村長(豊原功補)は事あるごとに対立していた。これは、組織内外の対立となる。退役軍人会にとっては、村長は自分の組織ではなく、我々の村人となり、//B//のくくり外の人となる。しかし、村長は、退役軍人会を「我々の村人」と捉えている。

家族の捉え方で、対立したり、許容したりするのも映画内でもあるし、我々の身近なところでよく起こっていることだ。

くくりの内外をどこに設定するかで、「我々」の範囲が変幻自在となる。

なぜ「我々」という意識を持つのか?というと、安心するためだ。家族と顔を合わせる度に、「こいつは今何をしてくるか解らない」と思っていたら、身が持たない。本当に何かをするわけじゃないというのは分かっていても、毎回毎回それを確認していては、精神的に参ってしまう。つまり、「安心」するために、「くくり」を設定する。

退役軍人会だったら、このメンバーだったら、考えも同じだし、喜怒哀楽を共有できると思うことで、安心する。


映画でも、退役したが、軍人会に入っていない東出昌弘が

戦争から帰ってきても軍服を着て、事あるごとにつるんで、そんなに軍隊がいいのか!俺はいつも殴られてばっかりだった。

と批判する場面があった。東出昌弘は退役軍人ではあるが、軍人会に入らない。軍人会の「外」の存在である。そして対立も起こす。同じ福田村内でもさまざまなくくり内外によって対立が起きる。軍人会の中で、東出昌弘の味方をする人はいない。

「違い」を認識するだけか、排除・攻撃するのか

「くくり」をしてしまうのは、自然なことだとは思うが、くくって、くくりの外にある存在をどう考えるのかは、人それぞれであり、くくり外の存在を必ず排除するというのは、陥りやすい罪なのかもしれないが、自然なことではない。

「同じ」を認識し、くくって、「違い」を露わにした外の素材を「排除」「嫌悪」「攻撃」する必要は無い。ただ、くくり外の存在が「ある」と認識するだけでいいはずで、負の感情を抱く必要はどこにあるのか?

考えられる理由として

「くくり内」を認識して、「くくり外」を排除、嫌悪、攻撃することによって
1.「くくり内」に危害が加わらないようにする
2.排除、嫌悪、攻撃することにより、「くくり内」の「くくり」を壊したくない
3.「くくり内」を変化のない居心地の良い場所にしたい

この2つが考えられる。「いじめ」の構造には2.が生じていると思われる。外に敵がいれば、内がまとまるというものだ。ただ、いじめにおける「くくり」は簡単に変動するもので、攻撃対象がいなくなった場合、「くくり」が変更され、くくり内の存在がくくり外に追い出され、攻撃対象となる場合が良くある。

1.は、くくり外の存在が危害を加えてこなければ、排除、嫌悪、攻撃の必要性は無くなる。

3.に関しては、永続的に変化しないということはあり得ないので、くくりは常に微調整される。


退役軍人会の長水道橋博士は、朝鮮人が攻めてくるというデマを聞いたのだけれど、「いくら何でもそんなことは無いのでは?それほど武装しなくてもいいのでは?」という意見を漏らした途端、ほかの軍人会メンバーに「びびっているのか?日和っているのか?」とバッシングを受けた。

他のメンバーは、水道橋博士がくくりから外れるのを恐れたし、水道橋博士自身も、このままでは外されてしまうと感じ、「そんなことは無い」と、武装することに賛成し、以後、朝鮮人排斥の先鋒として指揮していくことになる。攻撃することにより、くくりの中に仲間を引き戻したという2.の例でもある。


朝鮮人の中にもよい人もいれば、悪い人もいる」と主張する田中麗奈。親の仕事の関係で、朝鮮で暮らしていたのだ。しかし、「朝鮮人」というくくりを持った人には聞き入れられない。一度くくったものの中は全て同質であるはずだという思考停止が起こっている。

「これらとあれらには違いがあるな」と認識するだけで終われば、差別は生まれない。「違いますけど、何か?」となるだけだ。人間は石に対して差別意識は持たない。全く違う存在だからだ。

だから、差別が生まれる背景には、ある程度共通点(同じ人間)があり、ちょっと違っている点(他の村、他の国、他の人種……)がある場合となり、そして、上記1.〜3.が関わっている場合だ。全く関わらなければ、関心も持たず、何も感じない。排除、嫌悪、攻撃するのは、利害関係が関わった場合だ。

約200年前、福島県山口県が大きな戦争をしていた。いや、日本全国で戦争をしていた。新潟県も新政府軍(山口県、鹿児島県等の連合軍)と戦争をした。2023年の今、そんなこと信じられないと感じるはず。それは「くくり」が大きく変わったからだ。「藩」というくくりが無くなり、「日本国」というくくりになった。「キングダム」の始皇帝もそういうことを考えて戦争をしかけたのだろうか?しかし、戦争を無くすための手段は戦争しか無いって、自家中毒に陥っているように思える。

「ランキング」と「優劣(優越感、劣等感)」の意識の繋がりは?

「くくり」をおこない、「違い」を認識したあと、次に生じるのは「優劣の判断」だ。

優劣の判断はしなければならないこと、必然のことなのだろうか?

「2位じゃだめなんでしょうか?」という有名なフレーズがあった。ランキング信奉者に冷や水を浴びせるいい言葉だと思う。ランキングしたら上の順位の方が「良い」というのは、幻想なのでは無いか?ランキングすることと、上の順位の方が優位というのは連動しているものではない。ランキングは(主に)数値による客観的なものである。そして上位の方が「良い」と捉えるのは、感情的なものだ。

初めからランキングを競うゲームだったら、1位がいいのはゆるぎない事実だ。プロスポーツはランキング上位になるために行っている。しかし、社会は競っていない、競う必要も無いことにも無理矢理ランキングを付けて、競わせようとしている。「住みやすさランキング」とか、「満足度ランキング」とか。そもそも教育に競争は必要ない(むしろ競争させると教育効果は落ちる)のにも関わらず、何かに付けランキングを付ける。

差別意識は、「俺よりもあっちが上」、「あっちが下」と思うことだ。


福田村を訪れた行商の人たちは、被差別部落出身だ。移動している最中、朝鮮の女性が朝鮮飴を売っていた。仲間の一人が「朝鮮人だったら飴の中に何入れているか分からないぞ」という発言をする。親方(永山瑛太)はそれを咎めて、仲間のみんなに朝鮮飴を買ってやる。「今日の親方は珍しく気前がいい。どうして?」と一人が訊いたら「以前、俺も『おまえたちの薬に何が入っているか分からない』といわれたことがあった。」と答えた。

あるシーンで行商の1人が「朝鮮人と、俺たち、どっちが上なんだろうな。」とつぶやくシーンがあった。

あるシーンでは、行商の人たちが、病気(明言はされていないが、見た限り、ハンセン病)で苦しんでいる人に「治る」と言って、薬を売っていた。そして「俺たち下のものは、もっと下のものから金を取っていかないと生きていけない。」と言う。

人間は「上」とか、「下」とか、意識せずには生きられないことなのだろうか?もちろん「下」に見られ続けていたら、気分は悪いし、生きる気力も無くなるけれども、「自分は上だ」と思わないとやっていけないのだろうか?「上」とか、「下」とか、何も感じなければ、淡々と生きていけるのでは無いだろうか?

下に見られ続けている人が、自分は「上」だと思うことで、生きる気力を奮い立たせることになるだろう。しかし、そもそも下に見る人は、どうして自分以外の存在を下に見る必要があるのか?下に見ないとやっていけないのだろうか?他から下に見られているからそういうことをしているのだろうか?

そう考えると差別意識は連鎖することになる。「上」と思われる人が「下」と思われる人に対して差別意識を持ち、「排除」「嫌悪」「攻撃」する。差別された人が自分は少しでも「上」と思うために「下」を見つけて差別意識を持ち、「排除」「嫌悪」「攻撃」する。じゃあ、一番「上」の存在は何なのだろうか?その人は劣等感を抱くことは無いのだろうか?

ドラマでもよく描かれているが、政治や企業のトップで、虚勢を張り、威張り散らしている存在は、絶対的に自分がトップだと思っているのか、虚勢を張らないとやっていけないからそうしているのか?そもそもそんな人はドラマだけの存在で、現実にいるのかいないのかよく分からない。


日清戦争に行って帰ってきた老人柄本明は、村の若者の出征出陣の宴会で出征者を鼓舞するために「戦争で戦ってきた話をしてくれ」と請われる。何人もの敵をどんな風に殺したかをは話してくれと言われる。柄本明は話し出さない。その後別のところで喧嘩が始まり、この件はうやむやになるのだが、家に帰ってきて息子に戦争で人を殺したのは噓だと告げる。自分は馬番で、人を殺したことは無い。たくさんの死体を片付けただけだ。おまえたちに尊敬されたくてそんな噓をついたと告白する。

そんな虚勢を張らないと人は生きていけないのだろうか?

こう考えると、自分は「上」と思ったり、自分の「下」がいると思わせないと人間は生きていけないのか?と思えてくるが、本当にそんなことがあるのか?人間の本質なのか?そうなると上には上がいて、本当のトップになる人は、全世界でたった1人ということになってしまう。全世界で1人を除いてその他全ての人は「不幸」ということになってしまう。

本当だろうか?

足るを知る

老子の言葉で

足るを知る

というものがある。「全世界で1人を除いて幸せと感じている人はいなくなる」ということが起きていないのは、「自分はこれくらいで幸せだ」と思うからだ。問題なのは「これくらい」がどのくらいなのかだ。満足と不満足のボーダーラインは誰が決めるのか?

一番いいのは自分で決めることなのだろうけれど、自分で決めるボーダーラインは様々なものに影響される。家族、学校、世間、会社などである。周りが「そんなんで満足してちゃだめだ」「もっとできるはずだ」「もっと上を目指せ」などと「教育」することで、ボーダーラインはどんどん上がる。その上げられたボーダーラインにとうてい届かなくなったとき、劣等感が生まれる。

もちろん「上を目指させる」教育全てが悪いわけでは無い。本人が望んでいる場合、そう伝えて励ます場合は効果がある。問題なのは本人が望んでいない場合だ。周りの希望と本人の意思の齟齬により不幸が生まれる。

格付け機関になっている学校

さて、学校はどうなんだろうか?何でもランキングを付けて、ランキングにそぐわないものにもランキングを付けて、競わせて、上を目指させ、「そんなので満足しちゃいけない」とボーダーラインを無理矢理上げさせ、他人の価値を押しつけ、不幸を生み出していないだろうか?そもそも点数で測れない「学力」に点数を付けている。何のために点数を付けるのか?学力レベルを可視化するためだけだったら何とか許容できるが、ランキングを付ける、競わせるために点数化しているのが現実だ。

「2位じゃだめなんでしょうか?」じゃなくて、「最下位じゃだめなんでしょうか?」。だめじゃ無いと思う。だめだという人は、その理由を「幸せ」という視点で述べてほしい。


ランキングで上位が良い、下位がだめというのは、教育のたまものであるし、その思い込みを壊すことができるのも教育であるべきはずだ。福田村村長はデモクラシー推進派だが、それも教育によってなされたものだ。いろんな思い込みは、教育によって解放される。教育の成すべきことは大きい。

「幸せ」という視点で物事を捉えてみる

他人を下に見て優越感を得て生きていく人生は幸せなのか?

他人を下に見て優越感を得る人は、常に上からも下に見られているという意識がある。そんな気持ちを抱いて、常に誰かよりも上になることを考えていて、幸せを感じることができるのか?

「足る」と感じたそのボーダーラインは、誰からも意見を言われる筋合いが無いものであるはずだ。問題なのは、世間が劣等感を抱かせようと働きかけていることだ。人生に「優劣」なんて存在しないのに。

「かもしれない」という恐怖心

非常時の「かもしれない」

原因不明の流行病、目に見えないものが襲ってくるかもしれないという噂(例:もののけ口裂け女?)、突然起こる大災害、戦争などが発生すると、差別意識が顕在化する。

「福田村事件」では、関東大震災だった。

最近でも熊本地震では、ライオンが逃げて街を歩いている、とか、東日本大震災では、東北地方では誰かが商店を襲って物品を強奪している、とか、中越地震では、テレビ局の中継車が避難所に押し寄せて、支援物資を届ける自動車の通行の邪魔になっている、とか、コロナ禍では、トイレットペーパーが品薄状態だ、とか、コロナウイルスにはイソジンが効く、とか。

平常時では「いやいやいやいや、そんなこと無いでしょ?」とツッコミを入れられるのに、非常時だとその判断ができない。できにくい。もちろんツッコミを入れられる人も中にはいるのだが、それがたくさんの声にかき消されてしまう。100人中、1人がツッコミを入れて、99人に否定された場合、ツッコミを入れたその1人がずっと主張するのはとても難しい。そういうことも「福田村事件」では描かれていた。

関東大震災に乗じて、朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」
朝鮮人が井戸に毒を入れて回っている」
「暴動が起こっている」

そんな噂が流れ、それをどんどん触れ回る。映画の中では、噂の出所の1つを、刑事としていた。刑事が自転車で街を回って噂を触れ回っているシーンがあった。そうしている理由があまり描かれていなかった。国(もしくは、警察)は、そうすることによって、朝鮮人を弾圧しようとしていたのだろうか?

「いや、そんなこと、あるはずがない。」と登場人物で否定する人は、事あるごとに登場するのだが、「いやいや、ありえる。」とそれを否定する人が描かれる。否定されたら「それをあなたは本当に見たのか?」と反論する。「いや、みんな言ってる。」としか答えられないのだが、その噂はどんどん広がる。

「そんなこと、あるかもしれない」という恐怖を止めることは難しいのだ。

報復されても当然だという負い目

朝鮮人が襲ってくるかもしれない」という恐怖を生み出すもう一つの要因に、「日本人は朝鮮を併合し、朝鮮人を虐げているから、報復してくるかもしれない。」という考えも当時蔓延していた。つまり、日本は朝鮮に酷いことをしているという認識があったということだろう。酷いしたことの報いで襲ってくるかもしれない。つまり、自分たちがしてきたことと同等(またはそれ以上)のことをしてくるのでは?という恐怖だ。

これは恐怖をどんどん大きくする。どんな酷いことを自分たちはしていたのか計り知れないのに、それと同じようなことをしてくるかもしれないという恐怖。それを防ぐために朝鮮人を殺そうということになってしまう。

進撃の巨人


進撃の巨人」には、これらが全て描かれている。物語は突然の巨人の出現によって始まる。圧倒的な暴力である巨人が人間を殺戮する。なぜ襲ってくるのか、どうやれば撃退できるのかは全く分からない。なんだかわからないものが自分たちを襲ってくる。それに対する圧倒的な恐怖。巨人を討伐しなければ人類が滅びる。いつ襲ってくるのかもしれない存在として巨人は描かれ出す。

その後ストーリーが進むと、民族間の報復合戦となってくる。滅ぼしに来るかもしれないのなら、先制攻撃をしかけようということになる。

そして、なぜ滅ぼしに来るのかというと、1,000年以上前の先祖が行ったことを起こさないためにその民族を根絶やしにしようとしていることが分かってくる。

進撃の巨人」は突発的な大災害、感染症、人知を越えた存在、人種差別等々による戦争を描いている。差別、戦争の構造は、人間の営みであるので2つの作品で共通して描かれていることが分かる。

「かもしれない」で人を動かす

「かもしれない」を植えつければ、人を簡単に動かすことができる。「本当にそうなの?」というツッコミを消し、恐怖は洗脳するのに好都合だ。

「いい子にしていないとサンタが来ないかもしれない」
「英語を学んでいないと、将来困るかもしれない」
「進学しないと、職に就けないかもしれない」
「いうことを聞かないと孤独になるかもしれない」

無知であるということをいいことに、不安を煽り、いうことを聞かせようという教育は現代でもなされている。上記の事例は大人になれば、「そんなことは無いよ」と簡単に否定できることだ。つまり、「かもしれない」を払拭するのは、「大人になる」、「世の中はそう単純じゃ無いよ」と、複雑になる教育が効果的であるということ。

権力に対する付き合い方

マスコミの存在意義


地方新聞社の編集長ピエール瀧は、政府が出した、朝鮮人暴動に対する自警団組織の通達を新聞に掲載しろという。配下の記者は暴動なんてあり得ないから掲載するべきでは無いと反対する。編集長は掲載しなかったら、どんな圧力があるか分からないと応え、掲載する。

記者が目撃した1人の朝鮮人を数人が寄ってたかって殺したことを記事にするという。ピエール瀧は、掲載できないという。

この当時、マスコミは政府のプロパガンダとなっていた。政府に都合の良いことを掲載し、逆は掲載しない。新聞が「暴動なんてあり得ないのでは?」という意見を載せるだけでも、殺人の数を減らすことができた可能性はある。

何を報道しなかったのか?

マスコミを問う時に、「何を報道したか?」では無く、「何を報道しなかったのか?」を問うべきだということを知った。

しかし、これにおいては、起こった事象に触れていない人は「何を報道しなかったのか?」を検証することができない。この映画においては、1人のか弱い、無抵抗の朝鮮人(朝鮮飴売り)が、寄ってたかって殺された事件は編集長によって握りつぶされた。つまり、政府のプロパガンダだということだ。

権力寄りのマスコミは、その存在自体が罪だということが分かる。

最近ジャニーズ性被害問題がたくさん報道されているが、被害を訴え始めたとき、ほとんど報道されなかった。1人が声を上げたとき、各社が報道すれば、次の被害者は出なかった可能性がある。この記事だと、1960年代からあったという。
news.yahoo.co.jp

しかし、それを報道しなかったということは、マスコミは芸能界で圧倒的な力を持っているジャニーズ(事務所)に迎合していたということが分かる。

もう一つジャニーズ性被害問題でおかしいと思うのは、ジャニーズ事務所所属タレントをどんどんCMから外しているということだ。そうしている背景には、圧力をかけてジャニーズ事務所を追い込もうという意図があるのかもしれないが、所属タレントには何の罪も無い。「あそこの国のトップや幹部の政策が気に食わないから、その国民を迫害しよう」という構造と同じだ。

田中麗奈が言った「朝鮮人にはよい人もいれば悪い人もいる。日本人も同じ。」という考え方と真逆だ。

圧倒的に力を持っている側の情報や圧力に従う

同時期に盛り上がっている労働運動についても描かれている。関東大震災が起こった後、労働運動は徹底的に弾圧され、牢獄に入れられ、混乱に乗じて運動家が殺害されていることも描かれている。労働運動をしていた場所に、旗が破られ散らばっていて、弾圧された様子をみて、通行人は「お上に逆らうから、こういうことになるんだ。」とつぶやく。

圧倒的な力に迎合しようというところにも、思考停止が起こる。

新聞記者は見てきた事実を書こうとするが、編集長は圧倒的な力に対抗しない。

今まで逆らえなかった力が存在しなくなって、世間のジャニーズバッシングの機に乗じて、CMからタレントを外す。ジャニーズ事務所所属タレントや、それが生み出した作品の良さは色あせないと擁護する意見を表明する人もバッシングする。

「ツッコミが入れられない雰囲気」は、差別を生み出す土壌となる。

まとめ

差別を生み出す構造は?

無知と恐怖で差別意識が生み出される。

「くくり」を作る思考を止めることができないが、優劣を感じなくてもいいこと、恐怖しなくてもいいことは、教育でどうにでもなる。

そのためには、情報の取り扱い能力が問われる。何でもすぐに信じない。触れ回らない。受けとった情報にツッコミを入れてみる。大多数の意見や雰囲気に簡単に流されない。全て今の日本の教育現場で大切だとされていることだ。

しかし、非日常が起こると、そんなことひっくり返されて、ネット上に根も葉もない噂がはびこる。だから、「こういうことがあったんだ。」と言うことを継承する必要がある。この映画は、そのためにも存在しているのだろうと思う。

上映館

新潟県内の上映館を調べてみたら、なんと、イオンシネマなど、大きな映画館でもこれからかけられるじゃないか。観に行きやすい。私は高田世界館で観るべき映画だと思って、行ったのだけれど。

東出昌弘が良い演技をしているから、是非観に行ってほしい。

永山瑛太の最期の一言、心に刺さるから、それを聞きに行ってほしい。

子ども扱いされて嬉しいのは、50を超えてから


先生は自分のことをなんて呼ぶ?

このシチュエーション、小学校で、体験入学をしに来た幼児が迷っているらしき姿を見た先生が声をかけたというもの。

先生が言う「お父さん」はこの幼児のお父さん。先生が言う「ぼく」は、この幼児のこと。

このシチュエーションのこの発話を聴いて、日本人なら、「ごく当たり前のこと」と思える。

日本の文化では、その場の最年少の人に合わせて人称代名詞を使うというものがある。この絵のシチュエーションもその通りのものだ。

「お父さん」は、先生のお父さんではないし、女性の先生が「ぼく」と言っているわけではない。もしそうだったら、この先生、自分のお父さんが来ているのか、来ていないのかわからない状態ということになってしまう。

「子ども扱い」しているかどうかの目安


次のシチュエーションは、中学校でのこと。中学生が、PTAの行事で保護者とどこかの会場に行くという設定。ところが、この中学生は1人で来て、どこに行けばいいのかわからない状態だったので、先生が案内しようか?というもの。

先生は、少々成長している中学生に対して「わたし」とは言わず「あなた」と読んでいる。

この風景も、「ごく当たり前のこと」と我々は思ってしまう。

しかし、「学校でのみ」ごく当たり前ということなのだ。

この先生は自分のことを「先生」と呼んでいることに注意してほしい。この場面の最年少の人に合わせて人称代名詞を使っているのだが、最年少の人が「こども」の場合、このルールが適応されるのだが、「大人」の場合そうとはならない。

「先生が」とは言わず「私が」と言わないのだろうか?

大学で教師が自分のことを「先生」と呼ぶことはほとんどないのでは?高校ではたまにあるかもしれない。中学校、小学校では、かなりの割合であるのではないか?

つまり、教師が児童・生徒と話をする時、自分のことを「先生」というのは、相手を「子ども扱い」しているということが分かる。

大人が医者にかかったとき、診察で、

先生が処方箋を出しましょうね。

とは言わないのでは?

「いい子」は褒め言葉?

児童・生徒・学生に対する褒め言葉で、

素直でいい子たち

というものがある。個人的には子どもに対してだったらまぁ、許容範囲なのだが、成人した大人に対してこの言葉を使う先生は多い。高校3年生の中には、成人している人もいる。

人に対して、「素直ないい子」って、褒め言葉なのだろうか?

素直であるということは、謙虚さを持っている面がある一方、自己主張していないという面もある。大人になって自己主張できないって、人の言うがままじゃん?これは我々が求める人間像かというと、そうでは無い。

「みんな素直でいい子」という人は、褒めているので、「それほど目くじら立てなくてもいいじゃん?」と思うかもしれないけれど、大人に対して「褒め言葉じゃない」ということは分かってほしい。だいたい、「みんな素直でいい子」のはずがない。子どものうちからそれぞれドロドロしているはずだ。

これを言う人は、「素直でいい子」と思い込みたいのかもしれない。しかし、目を逸らしている可能性もある。「いい子」は「都合のいい子」である場合もある。

50を過ぎたら、「素直でいい子」と言われる機会がめっきり減るので、たまには言われてみたい気もする。子ども扱いされて嬉しい(時がある)のは、50を超えてからだ。

限られた時間と予算の中での「探究的学び」提案


新潟県立新潟西高等学校に呼ばれて総合的な探究の時間推進のための講演会をしてきた。

最近は元同僚がいろんな役職について、呼ばれることが多くなった。めちゃくちゃな高校教師をしていたにもかかわらず、こうして呼んでくれて再会を果たせるということはとてもありがたいことだ。「お久しぶりです」といって声をかけてくれる。年月というのは、嫌な部分は都合良く忘れ去ってくれるものなんだろう。ありがたいことだ。

新潟西高等学校には、2020年にも探究の講演会をした。その当時は「これから導入するけれど、どのような学びを作っていけばいいのか?」というものだった。今回は新カリキュラムになって始めたけれど、もっと良い学びにするにはどうすればよいのか?ということで依頼を受けた(と思っている)。

探究といっても、総合的な学習の時間から変わり、「探究」にフォーカスして学びを作っていかなければならない。かといって、時間と予算が特別に確保されたわけではない。今までは「総合」ということである意味「ごまかせた」部分もある。「教科以外の学びを作っていけばいいのかな?」とか、「教科を組み合わせた『総合的』な学びを作っていけばいいのかな?」とか。

しかし「探究」なのだから、探究しなければならない。当たり前だ。SSHを導入していない普通高校が出来ることはとっても限られているので、この投稿のタイトルで講演を作った。

1. 探究的学びが求められる背景

  • 一般的に考古当学校の教室で行われている授業では、探究的学びが難しいから「総合的な探究の時間」が導入された

2. 探究での学びとは?

  • オリジナリティーが大事
  • 「問い」を自ら見つける
  • 探究方法を自ら見つける
  • 信用できる情報をエビデンスとする
  • 過去の「分かったこと」の上に新たなものを積み上げる
  • 自分の出した「答え」に自分で「意味」を見いだす
  • ランキングには表せない探究成果
  • 教科の枠におさまらないことも学べる
  • ペーパーテストで点を取るための力では身につかない力を身に付ける

3. 限られた時間と予算の中でやれる「探究の時間」デザイン

  • 担当の先生は、ファシリテーターとなり、専門家に任せる
  • テーマは各自が決めることにより、主体的になる
  • インターネット、大学を活用する

4. 意義と裁量と公開が「主体的な学び」のキーワード
5.「成熟」とは「複雑化すること」

ChatGPTの話も出して、ChatGPTで答えてくれるような結果を学習者に出させるんだったら、AIに任せちゃっていいのでは?オリジナリティーが大事なんだから、誰も気づかない問題、誰も到達できない結果を求めなければ「ペーパーテストで点を取るための力」と同じような力しかつかないよ、として話を終えた。

かといって、大仰な探究テーマを求める必要は無く、私が2006年国語表現で行った「日本語に関する論文」という課題研究っぽいものの事例を紹介した。

入試作業中、学年末考査期間でありながら、たくさんの人が来てくれた。ありがたいことだ。時間をかけて準備をした甲斐があった。

これで今年度の出前講座や講演会はおしまいの予定。

「相手の意見は否定しないで」で対話は生まれるのか?

否定しない会議

先日の片桐研究室全体ゼミで、ちょっと時間が余ったので、私が最近もやもやすることをぶつけてみた。

学部2年生の模擬授業の指導案で、「相手の意見を尊重する」っていう文言があったのだけれど、「相手の意見を尊重する」ってどういうことなんだろう?また、会議やディスカッションの方法として、「相手の意見を否定しない」ということを授業者やファシリテーターが真っ先に言うのだけれど、それが「相手の意見を尊重する」っていうことなの?

相手の意見を否定しなかったら、自分の意見を自分の中で否定したり、または、相手の意見を否定しないままスルーすることになって、対話なんて生まれないと思うのだけれど。

以降のディスカッションをかいつまんで記載する。

「否定しない」というのは、頭ごなしにダメ出ししないということ。

ブレーンストーミングでは、否定しないということが、効果を上げる。取るに足らない意見でも、どんどん上げることで、実はその中から他の意見と結びついて、いいアイディアが生まれる可能性があるからだ。

しかし、ここでの話は「対話」を生むディスカッションなので、この件は横に置いておく。

「否定しない」というのは、その場を成り立たせたり、その人が喋っていたら、最後まで聞くということ。

小学生のディスカッションでは、自分の意見を強く主張して他人の意見を聞かなかったり、自分と違う意見だったら即座に反対し、ディスカッションが成り立たない場合がある。ディスカッションのルールを覚え込ませるためには、まず、相手の意見を最後まで聞くという習慣づけのために必要だということなのでは?

小学生に限ったことではないけれど、ディスカッションルールを習得していない段階では、「相手の意見を否定しない」というルールも必要になるときはあるのだろう。話している途中で他人に遮られたら、あんまりいい気分はしないし、そんなことが続けば、ディスカッションで発言しようという気にはならない。

途中で相手の話を止めてもいいはず

大人になると、歳を重ね、ある程度の地位に就いた人の話は長い。そしてその話を「長いよ」と遮る人は皆無だ。話が長い人は、自分の話がすぐれたものだと思っていて、聴衆は聴き惚れていると勘違いしている。または、聴衆の反応を気にしようとはしない。だからどんどん長くなる。

学校現場では「先生の話は黙って聞くものだ」という洗脳がなされている。分からないことがあっても、途中で口を挟んではいけない固定観念がある。「分からないのは自分が悪いんだ」と児童生徒学生は思わされていることもある。だから先生の話はどんどん長くなる。(場合によっては初めから聞かれていない。)

ある程度ディスカッション技能が高まってきたら、「途中で相手の話を止めてもいい」ということを学んだ方がいいのでは?

だってこのまま聞き続けていたらどんどんわからなくなるのだから。話を止めて質問をするという「技能」を良いディスカッションにするためには身に付けなければならない。

しかし、いつまでも、大学生のディスカッションでも「相手の話は否定しない」とファシリテーターが言う場合がある。

ああ、この人は、ディスカッション内容を活性化させようとしたいのではなく、誰も傷つかず過ごせるディスカッションを目指しているんだな、と思う。

「否定しない」という「呪い」

ある学生さんがこんな発言をした

「相手の意見を否定しない」と言われると、ディスカッションはお座なりになって盛り下がるよね。
意見を発表して、みんなが拍手をして、次の人が発表してみんなが拍手をして……。何も考えなくなるし、何の発見もないし、学びもなくなるよね。

もちろん、授業者やファシリテーターはそんなことを期待してはいず、相手に気持ちよく意見を発表させて、その先、ディスカッションが活性化すればいいと思っているはずだ。だが、「否定しない」という「呪い」にかかり、「相手に何か言ったらだめ」「自分の意見を主張したらダメ」と空気が流れてしまう。

じゃあ、「否定しない」という呪いをかけず、別の言葉にするべきなのでは?という話になった。

適切な「ツッコミ」が入ることで、ディスカッションは活性化するはず

適切な反応やツッコミを入れながらディスカッションしましょう

ではどうだろうか?

わからない時には、即座に質問し、でも、その質問のタイミングは、喋っている人が一息入れたときが「適切」なタイミングだし、ボケたらツッコみ、話す内容がぼやけていたら、「つまり、◎◎ということ?」という援助をし、自分の意見と合わないときは、「こういう場合はどうなるの?」と、違う視点での捉え方を話してもらう……。

かなりの高等技術だ。これらができれば、「対話」になるだろう。これを互いにできるようになればいいのだ。考えてみれば、個人ゼミの時に私がしようと思っていることだ。

ある院生さんが

先生と1対1の場合はそうしているつもりなのですが、3人以上のゼミになるとなかなか……。

と言っていた。そうか。1対1だったら対話は生まれやすいが、3人以上になると、「今、話を止めてこのツッコミ入れていいのか?」と気後れするというのも分かる。かなりの高等技術なんだな。

私の大学院時代のゼミの飲み会はツッコミ合戦だった。

私は20年以上前、上越教育大学大学院で●川研究室だったのだが、そこでの飲み会は、壮絶なるものだった。他研究室との合同新歓や送別会などでは、1人1人話す機会があるのだが、必ず喋っているときにツッコミが入り、場が盛り上がる。1人がツッコんだら、別の人がさらに「追いツッコミ」をしかけて、話者の話が全く進まないことが日常茶飯事だった。「オーバーラップ発話」が生まれていた。

あのツッコミは、いわゆる歌舞伎の大向こうのかけ声のようで、適切なときに、適切な声の大きさで、みんなに聞こえるように声をかけなければならない。しかも、誰よりも速く。そこで鍛えたからか、内容はともかく、ツッコミのタイミングは外さなくなった気がする。

ツッコまれたら話者がそれに返し、掛け合い漫才のようになる。西●研究室のメンツはみんなそんな力を養っていたし、全体ゼミでのディスカッションはヒリヒリするものでもあった。

先日の全体ゼミではみんなに、「まだまだ、このゼミでは、オーバーラップ発話が生まれないし、まだまだ対話が活性化していないのでは?」と伝えた。担当者がレジュメに沿って延々と喋って、「どうですか?」では、ツッコミも入らないし、何しろ初めに気づいた疑問も説明の最後では忘れてしまう。それは担当者の配慮も必要だし、話を聞いている人のツッコミ力も必要だ。

何に対して「適切」なのか?

「否定しない」じゃなくて、

適切なツッコミ(反応)をしながらディスカッションしましょう

という案が出たのだが、「何に対して「適切」なのか?」というツッコミが出た。

ボケたときに「否定しない」だったらそのボケがスルーされて、ボケた人は悲しい気持ちになるので、適切にツッコむ必要が生まれる。

じゃあ、話を遮られたくない人で、延々とつまらない話をし続けて気持ちよさにひたっていたら、それにツッコまなくてもいいのか?という疑問となる。

いや、良い「ディスカッション」を生むためには、ツッコまなければならないでしょう。

つまり、「適切な」というのは話者に対してでもあるが、それよりも優先することとして「ディスカッション」に対してということになる。

「否定しない」と方法を示すのではなく、

対話の生まれる良いディスカッションにするためには、どうすればよいのか?考えて参加しよう。

に尽きるのかな?

拍手よりも質問

拍手をしたらそこで終わりで、対話は生まれない。先述したとおり、「否定しない」ディスカッションで、よくある風景だ。

私は授業をして拍手されたことはほぼ無いが、模擬授業ではなぜか、授業者が「これで授業終わりです」というと拍手をしようとするが、私が遮る。「拍手したらそれで終わりですよ。」

もちろん、労をねぎらう気持ちで拍手をしているのだろうけれど、私の労は誰もねぎらってくれないのはなぜ?

講演会では必ず拍手を司会者が促してくれる。でも、私は拍手よりも質問がほしいと常々思っている。そしてそれが難しい。質問がたくさん生まれるような講演会ができたらいいと思っている。百の拍手よりも一の質問がほしい。

拍手されるともちろん嬉しい。それは否定しない。喜ばせようと思って拍手をしてくれる。私も拍手はする。でも、質問や意見やツッコミがほしいなー。

「尊重する」というのは、その存在を認め、関心を持つこと。否定しないでスルーすることではない。スルーすることのどこにも「尊重」の要素は無い。

チームのトップが目立つ効果

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そのチームが人気が無かったり、優秀な選手がいなかったり、メディアの注目を集めたいときに、トップがスターになって目立たせることに意味があると思う。

でも、あまりにもトップが目立っている場合、チームの構成員はどんな風に思うのかな?と、いつも目立たなかったいろんなチームの構成員だった私は思う。

先日、アルビレックス新潟がJ1昇格を決めた試合後のパフォーマンス、松橋力蔵監督が珍しく参加してボーリングのボールを投げる役をした。


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ボール役の松田詠太郎が「私と代わりませんか?」と目立つ役を譲ろうとしたけれど、固辞していた。キャラじゃ無いということもあるだろうけれど、Jリーグの監督って、意識的に目立とうとする人は少ないと思う。

「選手が主役」ということをよくわかっているのだと思う。

「児童・生徒が主役」の学級づくりって、そういうことなんだよな、きっと。

点数ばかり取らせていた過去


花澤香菜のひとりでできるかな」の「私は小さな人間です」という器の小ささを告白するコーナーを聞いた。

その投稿に、

学校で、隣の人の返されたテストを見ると、間違っているのに○が付いていて、先生に伝えようかどうか次の次の授業まで迷っていた。

というものがあった。確かに……と思ったが、それを聞いて現役高校教師だった時代に、テストの返却をして、「採点ミスがあったら持って来なさい。」と言ったら、

「先生、これ、間違っているのに○が付いています。

と持ってくる生徒が結構いたのを思いだした。

その当時は、どうして持ってくるの?そのままにしておけば点数が高いままなのに……と理解に苦しんでいたのだが、教師のそのような考えそのものが、

点数至上主義

を生んでいたのだと、今更ながら気づいた。点数至上主義という固定観念で教員をしていたということを実感させられた。

点数なんかよりも、正しいこと、正直なことがその生徒にとって優先順位が上だったのだ。

そんなことにどうして当時気づけなかったのかな?数点の差なんて誤差なのに、その数点を異常に重く見ていた教員時代の私があった。