8月20日の日記にいろいろコメントを頂いたので、「人との距離の言語化」について考えたことをさらに書いてみます。
生徒で、距離感が分からない子どもがたまにいます。話すとき、私に対して異常に近づいてきたり、用があって教務室に私を訪ねに来たとき、私が電話をしている途中でも、つかつかとやってきて、すぐ近くでピッタリ待っていたり、仲間同士で面接練習をしているとき、その視界に入るところで、全く別のことをしたり……。
それじゃあ、そういう子どもにどのように距離感を分からせるか……。なんと言えばいいのか。結局私は「それはおかしいから、このように行動しなさい。」と指摘するしかない。しかしその指摘は、その場合だけであって、別の場合の行動を支持することはできない。
つまり、言語化しようとすると全ての行動パターンに対して事細かに何万語かを使ってしなければならない。これは不可能なことである。
「相手に不快に思われない行動をしなさい。」という一言ですむわけだが、そもそも「不快に思われない行動」自体が分からないから、行動できないのである。周りを見てそれを学んでこなかった(もしくは、学ぶ機会を逸していた)のである。
人との距離感は空気みたいなものだ。(だからといって「KY」でいう「空気」とは全く違う。)そこにあることは分かっているが、つかもうとする(言語化しようとすると)とつかめない。結局は経験でしか身につけることはできない。
しかし、少なくとも『学び合い』は、「今までの学校社会で当たり前になされていた教師と子ども、子ども同士の距離感を疑問視しよう」ということを投げかけていると言える。
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生きていく上で「人との適度な距離感」というものは自然に身についていくものです。障害によりそれが身につかない人もいるということを聞いたことがあります。
学校社会にひたっていると、距離感が麻痺してくるというのも事実である。それは子どもも教師もだ。
教師は子どもに対して平気に罵倒したり、または関わり合いを避けたり、プライバシーを侵害したり。
企業では絶対無いことだが、なぜか対外的に身内に敬語を使う。外から電話が来て、「△◎先生はおられません。」と答える年配の先生は数多い。教師の権威を固持せんがために身内をあまりにも敬いすぎるのが原因だろうか?
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