Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

『学び合い』盲信の危険性

フォーラムの公開ゼミで「朝の読書は『学び合い』だ!」ということを主張しました。朝の読書にずいぶん昔から取り組んできて、今に至りますが、その結論はこれも『学び合い』であるということです。共通点が多いのです。ですので、『学び合い』の具現化したものが「朝の読書」と思っております。

朝の読書もそうだったのですが、「朝の読書をやりさえすればよい」という考え方の人がたくさんいます。朝10分読書の時間を設ければ、教師は何もしなくても子どもたちは本を読み、落ち着き、遅刻が無くなる……。でも、そんなことはあり得ません。

『学び合い』もそうです。課題を設定し「さあやれ」と言って、教師は何もしなくても『学び合い』になるのかというと、そんなことはありません。

『学び合い』を絶対に受け入れようとしない人もいますが、まだ実践してはいないのに、盲信する人もいます。盲信して実践して、失敗する人もいます。得てして若い人に多いです。なぜこのようなことがおこるのか、考えてみました。

若き実践者は子どもとの距離感をまだつかめない人が多い。ここで、『学び合い』を盲信すると、生徒との距離感をぐーっと離してしまうんじゃないでしょうか?「『学び合い』は子どもとの関わりを避ける」と捉えてしまうからです。

子どもとの距離感が離れてしまうと、子どもは「先生は、何をやっているのか分からない。」という不信感に陥り、どうもうまく行かないんじゃないか?と思うのです。

極端な例で考えると、いわゆる「熱血教師」は、子どもとの距離感をぐぐーっと縮めます。縮まれば、「先生はこういうことを考えている。」と子どもたちに分かるようになる。信頼関係は生まれる。という構造になります。(しかし、この場合は近づきすぎて、子ども同士の関係は疎遠になる可能性が高い。)

若き実践者はここに気がつかない。なぜなら子どもとの距離感は文字化が難しいことであり、『学び合い』に必要な「近い距離を我慢して離す」なんてのは、なかなか説明できないことだから、文字情報として伝えられないのです。(つまり、『学び合い』関連の本やブログに書けないこと、書いても伝わらないことなのです。)

もちろん、失敗することでそれに気づくのだし、私だって若い頃は「距離感」なんて全く分からず、子どもに近づこうとしたり、離れようとしたり、試行錯誤して今の立ち位置を見つけました。だから若い実践者が失敗して苦労しているのを「かわいそう」なんては思いません。「頑張れ」と思います。

『学び合い』という考え方に全てをゆだねるのではなく、人と人が関わって教育が生まれるのだから、教師として、人間として、目の前の生徒に接しなければ、『学び合い』は生じないと思うのです。

西川先生のおっしゃる「教師としての直感が正しい」というのは、そこなんじゃないかな?と思うのです。