学部科目「教育実践基礎論」の模擬授業(各教科)の英語教育の意義で学生さんが必ず出してくるのが「グローバル社会に対応するため」というものだ。
この、「グローバル社会に対応するため」というのは、中学、高校時代から英語教育のいろんな場面で伝えられ、「洗脳」まがいの仕打ちを受けていると思われる。そして、英語が好きな、英語教育をしたいと思っている学生さんには、「本当にそうなの?」「本当にそれが必要なの?」とツッコむ。
そうするとハタと立ち止まって考える。そして、なかなかその必要性を説明することが出来ない。
先日「じゃあ、先生が好きな古典の授業の意義は何なんですか?」という質問を受けた(いい切り返し!)ので、メールで返信をした文面が以下の通り。
昨日の対話はとても面白く、いろいろ発見があるものでした。
話の流れで古典学習の必要性について述べることが尻切れとんぼになってしまったので、簡単にお伝えします。
これは英語でも同じなのですが、言葉の学習は次の3点があります。
①目標言語
②目標文化
③言語構造
①の目標言語というのは、②の目標文化(=学びたい対象の文化)を学ぶための手段です。多くの英語授業は、英語は文化を学ぶための手段であるにもかかわらず、それを無視して、英語を習得することが目標(または目的)となってしまっています。
古典に置き換えると、古典文法等は手段であり、古典作品が作られた時代の文化を学ぶためのものです。文化を学ばなければ古典文法を覚える必要性はありません。
英語学習も、古典学習も共通で、ある程度まで両方の言語を習得すべきだとは思いますが、複雑な部分は必要な人だけが学んでいけばいいと思っています。ですので、「関係代名詞」というような複雑な文法は、できればそれを使わなくても「通じれば」いいのでは?というのが私の考えです。
古典も、例えば、昭和初期、江戸時代、室町時代、鎌倉時代、平安時代と時代を遡るにつれて、現代の日本の言語とかけ離れていきます。じゃあ、現代の日本の言語だけを学べばいいのかというと、そうなると、昭和初期、江戸時代の情報にアクセス出来なくなります。どこまで遡って学べばいいのか、完全なる線引きは出来ません。
しかし、平安時代に、世界的に名を馳せている優れた文学作品があるのだから、それくらいは辞書を駆使してでも読めるようになるべきだということで、高校古典はその作品を読むことにしています。
辞書を使わず、文法を暗記してペーパーテストを解けるように、というのは、全ての高校生がおこなっているものではなく、受験対策校のみが行っている古典学習です。
残された③言語構造ですが、実はこれが他言語を学ぶ一番大切なものだと私は考えています。
言語によりものの見方・考え方は規定されているという「エクリチュール」という捉え方です。だから、英語を使う人は、英語の見方・考え方(=言葉の檻)を持っていて、日本語を使う人は、日本語の見方・考え方を持つようになります。
昨日話題になった形式主語「IT」は、日本人にはすんなり理解出来ない捉え方です。しかしその言語構造を考えていくことで、英語の見方・考え方(=英語圏の文化)に触れることが出来ると思っています。実は英語を全ての義務教育学校で行うのは、これがいちばんの理由だと思います。
古典に関しては、上記のことを置き換えてください。
以上、簡単に書きましたが、さらに対話することで新たな発見があるかもしれません。興味を持ったら、また対話をしましょう。
返信は来なかった……。