Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

子どもたちをよろしく

2019年制作 シネウインドで鑑賞
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そろそろ新潟でも上映終了なので、休みを取って平日に行った。10名に満たなかったので、感染リスクは低い。

ここに出てくる大人は誰一人として本当のことを言うものはいなかった。誰一人として周りのためにも生きている人はいなかった。

見ていてとても辛いし、目を背けたくなるシーンばかりだった。本当にこんな事が実際に起こっているの?とも思ったが、綿密な取材の上で、あえてフィクションとして描いた作品だという。だからなおさら辛く思う。私はこういう世界にはあまり触れないで生きていた。もしかしたら本当は見えた風景なのかもしれないけれど、目を背けて教師をやっていたのかもしれない。そう思った。

教師は様々な家庭環境の子どもを受け持つ。だから、「想像力」が必要だ。自分の人生で接したことが無い環境の子どもを受け持つ。そういう子どもの目に見える部分だけを真に受けて、その背景にある見えない部分を無視していたら、何の教育もできない。見えない部分があるのだと想像するだけでも、目の前の「見えている姿」に一喜一憂することもない。

住んでいる部屋を綺麗に保つのには、ホコリを拭いたり、ごみをごみ箱に入れたり、脱いだ服は洗濯場に持っていったり、洗濯したり、干したり、たたんだり、食事を作ったら、食べた後に食器を洗ったり、食材のパッケージをゴミ袋に入れたり、流しを磨いたり、トイレを磨いたり、風呂桶を磨いたり、排水溝にたまったクズを取ったり、読んだ本を本棚にしまったり、そういう当たり前のことを日常的に行わなければあっという間に「ごみ屋敷」になってしまう。

日常的に綺麗にする仕事を大人がしていかなければあっという間に「汚れて」しまう。「姉」の「優樹菜」が自分のことを「汚れている」と言ったのはそういうことなんだろうと思った。

「子どもたちをよろしく」って誰が誰に「よろしく」と言っているのか。きちんと考え続けないといけないな。
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キキはどうして飛べなくなったのか?

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魔女の宅急便を次男とテレビで観た。次男はまだ観たことがなかったそうだ。小学校の音楽の時間にリコーダーで挿入曲を演奏したことがあったけれど、ストーリーは全く知らなかったということだ。私も久しぶりに観て、ストーリーの細かいところはほぼ忘れていたから、一緒に観た。

そこで気づいたのは、キキはどうして飛べなくなったのか?ということだった。別にキキが悪いことをしたわけでも、驕りがあったわけでもない。突然飛べなくなります。ネットで検索すると、いろんな回答が出てきて、「それがみんな理由だ」という感じで書かれてあります。息子に聞いてみたら、

スランプになったからじゃ無い?
どうしてスランプになったって聞いているの。

という会話になった。

今まで浮いていたから浮かなくなったんじゃ無い?

なるほど。上手いこと言うね。

トンボに「初めて飛んだときのこと覚えている?」と聞かれたら、「小さい頃だから忘れちゃった。」というような返答をしていた。つまり自然に飛べていたのだ。「血で飛ぶ」とも言っていた。

一晩どうして飛べなくなったのか?と考えて、思いが行き当たったのが、トンボに質問されたり、仕事として飛ぶようになって、

何で飛ぶのか、どうやって飛ぶのかを考えることによって飛べなくなった

ということだ。人間は考えるとそれまで体で自然にやっていたことができなくなる。思考が肢体を制御するのだ。テニス部顧問だったとき、球出しをそれまで当たり前のようにしていたが、突然まともに球出しができなくなったときがある。「あれ、どうやって今まで球出ししていたっけ?」と考えれば考えるほどたまは真っ直ぐ飛ばず、部員が構えているところから明後日の方に飛んでいった。あんな感じなのかも、と思った。

そのキキの「スランプ」を打破したのは、結局「思い」だった。考えることで頭と体がばらばらになったが、思いによって一体化した。きっと何度も自分の意味を考えてスランプに陥り、それを克服していくのかな?とも思う。キキの未来も順風満帆ではない。

ナステビュウ湯の山

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2020年新規訪問サウナ2件目
やっぱり免疫力を上げるためには、サウナだよね、ということで、今まで行ったことのないサウナを選んで行ってみた。ここのご主人のブログが、いろいろなことをきちんと考えて書いてあるので面白い。更新も頻繁で、「雪が少ない」とか、「人が少ない」とか、赤裸々に書いている。コロナウイルス感染症対策についてもしっかりと書いてあり、信用ができる。

松之山は六日町や新潟市に住んでいるときは「超山奥」という印象だったが、上越からは1時間ちょっとで行ける近さだ。なんだ、こんな近かったら、ちょくちょく行けば良かった。歴史的小雪の今シーズンでありながら、まだ道路脇に雪が残っている。根雪では無く、数日前の寒いときに降ったものなのだろう。雪が懐かしく、施設の駐車場脇に積もっていたものを写真に撮って触ってしまった。

入湯料は650円とリーズナブルで、施設も綺麗になっている。働いている人も若い人も多く、なんだかそれだけで活気を感じる。各種電子マネーが使える。

温泉は、石油臭のするもので、95℃の源泉がチョロチョロ足されている。石油臭は嫌いではない。ぬるめと熱めの内風呂と眺めのいい露天風呂がある。露天風呂は広くて、開放的で、新緑や紅葉や雪の時期だったら気持ちよかったんだろうな、と思うが、今は雪が無くなった、茶色の世界で、あまり眺めは良いとは言えなかった。まぁ、今を選んできたのだから、しょうがないか。

サウナだが、5人入ればキツキツの狭さだったが、数人いた客はサウナには興味がないらしく、入るのは私だけである。温度は96℃〜100℃を指していたが、カラカラに乾燥していたので、それほど熱いとは感じなかった。ちょっと乾燥しすぎで、喉が渇く。サウナ環境にはあまり手を入れていないのだろうか?清潔にしてあるのは、とてもいいのだが。

水風呂は1人しか入れぬ壺型のもの。地下水がチョロチョロ足されている。水温は15℃と書かれてあったが、もうちょっと冷たい感じがする。1〜2分で我慢できなくなる。私が初っぱなに入る直前に超巨漢の客が入ったため、水量がかなり減ってしまっていた。たし水の量が少ないため、なかなかいっぱいにならない。やっぱりサウナに関しては、あまり環境を整えてくれるつもりは無いのかぁ。

そして、ホームページに外気浴スペースの写真が載っていたので、楽しみにしていたら、冬期は閉鎖だった。広いところに多くのデッキチェアが並べてあったのだが、それが使えない。がっかり。もう雪は無くなっているのだから、設置してもいいものなのに……。

ということで、温泉だけ入りにくるのであれば、とてもいい日帰り温泉施設だと思う。全体的に綺麗だし、2階の休憩施設もマンガがたくさんありくつろげる。桜餅ソフトクリームもおいしかった。

今日のととのい度→2 ☆☆★★★★

Most likely to Succeed

2015年 アメリ
上越教育大学での上映会に参加


Most Likely to Succeed Trailer- Japanese from Innovation Playlist on Vimeo.

今後AIにより、職が奪われ、その時のための学校教育はどうあるべきか?というテーマの映画。アメリカのチャータースクール「High Tech High(HTH・高校)」のドキュメント映画だ。

HTHはそのために新しく作られた。日本はSociety 5.0を見越してこれからの教育はどうあるべきかと授業改善を謳っているが、現状のカリキュラムをどう微調整すればいいのかというスタンスだが、HTHは全てを新しく作った。その中で語られている内容に耳新しいものはあまりなく、日本で「これが必要だ」と考えられていることとほぼ共通する。しかし、カリキュラムが全く違うので、説得力がある。

映画を見ていて、『学び合い』で語られていることが実現しているんだな、と思った。うらやましいのは、教科の枠に囚われない活動が中心であり、その活動から教科の枠での学びができているということ。2つ活動が紹介され、1つは演劇だったし、もう1つはからくり(機械)を作るというもの。日本の教育活動に当てはめてみると、1つは文化祭であり、1つは「ロボコン」のようなものだった。これを1年間通しておこなう。これが絶対的に日本と違うところだ。

保護者、生徒のコメントも流される。否定的なものは案の定、「大学入試対策をしてほしい。」とか、「大学に行けるかどうか不安だ。」とか、日本でも想像できるコメントだ。国は変われど、人間は同じなんだな、と思った。HTHは、カリキュラム内容をわかって生徒、保護者が選んでいるし、選抜は、クジで行われるのだけれど。好きで来ているんじゃないの?なんて思ってしまった。

このカリキュラムの計画、導入、指導、評価を全部しなければならない教師が一番大変だな、と思った。かなりの能力が無ければ1年間続く「文化祭」を保たせていけない。「この学校にはどんどん優秀な教員が集まってきた。」というコメントもあったが、さもありなん、という感じだ。評価はもちろん数値によるものではない。最後の発表を仲間、教師、専門家、保護者、地域の人が観る。そして全てが終わった後クラスの生徒の前でリフレクションを行う。生徒は自分の活動の意味を十分わかっているが、この時、教師が適切なことを伝えられないと、1年間の活動を更に意味あるものにもっていけない。

今現在日本で行っている教育は、約100年前の社会が要請したものであり、それに応えるために作ったものだ。しかし、これからがらりと社会、世界が変わることに対応しようということで、教育を変えなければと考えている。これまでの枠組みでは必要な能力は育たないということで、授業内容を変えようとする。または実際に変えたものを実践している。ところが、評価が今のままだ。伸ばしたい能力に対応した授業をしているのに、教育の評価はペーパーテストだけでおこなおうとしている。そんなので測れるはずが無いのに、ペーパーテストにこだわる。教師が100年前の評価の枠組みから抜け出せないのだ。それじゃあ適切に評価できないだろう。

数値化すれば適切に評価できると思ったら大間違い。数値化するということは、数値の枠に入らないものを切り捨てているということなんだし、これからの社会には、今まで切り捨てていたものが大切だと、この映画では言っていたのだから。

セレモニーの意味

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全国一律休校の措置が講じられて、卒業式がたくさんのところで中止になった。残念だ、開催してあげたいという声が上がる一方、「そもそも児童生徒は式なんかに思い入れは無いよ。」なんていう教員の書き込みも目にした。

実際に卒業式が中止、縮小となっていき、それでも動画のみを通じて卒業式を配信したり、縮小して卒業式をおこなったり、なんとか開催しているところもあった。そんな中でMinecraftを使って電脳世界で卒業式を開こうという小学生たちもいたようだ。これらから、「式なんかに思い入れは無いよ」という発言は、子どもたちをみていない教員の発言であることがわかる。

学校にはいろいろなセレモニー(式)があるのだが、何のためにセレモニーを行う必要があるのか、それの意味を感じない人には「思い入れなんか無い」という考えしか無いのだろう。セレモニーに意味を見出せなければ、その意味を子どもたちに伝えることもできない。

高校教師時代、在校生から「なんで我々が卒業式に出なければならないんですか?」と聞かれたものだが、「今まで在学していた卒業生を温かく送り出すとともに、来年、再来年の自分の姿をそこに見いだし、あのような姿に自分を作っていく自覚をするためだ。」と伝えていた。卒業式は、イメージトレーニングの一環でもある。

また、全てのセレモニーは、「句切り」の意味もあるし、「終わった」や「始まった」などの意味を植えつける作用もある。機能BSで放送していた「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」で解説していたが、漫才の「ツッコミ」みたいなものだ*1。ぼんやりしたものに意味を与えるものがセレモニーである。

上越教育大学は、卒業式も入学式も中止であるが、戦時中中止になったものが、何年かたった後、開催されたことがあるように、「あの時の卒業生、集合」という形で2019年度卒業式として開催されることになるのだろうか?

*1:このシリーズの番組、久しぶりに面白かったし、ためになった。

ジュディ 虹の彼方に

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2019年 アメリカ・イギリス作品
JMAXシアターで鑑賞

小学校低学年の頃「オズの魔法使い」のテレビドラマが好きだった。熱心に見ていたと思う。赤と青のセロファンで作られた3Dメガネでテレビを観ると、立体的に見えるという放送をしていて、ドロシーが長い棒を持ってこちらに向かって振るというシーンで初めて立体で見えたのに感動した。「オズの魔法使い」のストーリーはあまり把握しないで観ていたような気もする。ライオンやかかしやブリキの兵士と旅をしていて、全体的に切ない感じは覚えていた。そこでかかる「虹の彼方に」の曲がとても好きだった。

そこでドロシー役をしていたジュディーガーランドの晩年の物語で、子役の時は超売れっ子だったから休みもなく、食事制限もされ、会社によって薬漬けにされ働かされていた。その影響で歳を取っても不眠で不安で不信になっている。子どもと暮らすことだけが生きがいなのだが、借金まみれで親権を手放さなければならなくなりそう。それを解消するためにロンドンに行き金を稼ぐことにする。

子ども時代から超売れっ子で、晩年(といっても47歳!)、公演のためにイギリスで過ごすって、マイケルジャクソンを思い出してしまった。マイケルジャクソンも薬漬けだったし。

「観客との友情を信じている」と最後の方でジュディーガーランドは言っていた。どんなにその公演が盛り上がっても、賞賛されても、人と人との繋がりがほしかったのだと思う。私が大好きで、欠かさずコンサートを観に行って、絶対に外れはない公演をしているミュージシャンも、そういうことを考えているのか?とも思った。

レネー・ゼルウィガーは2020年アカデミー主演女優賞受賞。境遇がジュディーガーランドと重なっているということだった。

認定式

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片桐研究室ゼミ生第1号の堀君がこの春修了する。今シーズンはコロナウイルス感染拡大防止ということで、大人数の会合は避けようというお達しがあったが、幸い私のゼミは少人数なので、修了式ならぬ「認定式」を行った。会場は高田商店街にある「男塾」。私のゼミは男ばかりだったし、「少年ジャンプ」フリークの堀君にとっては最適な場所だっただろう。バックにある井川遥の巨大ポスターがいいかんじだ。

「認定式」とは、「永世ゼミ生」の称号を認定すること。本人にとってはうれしいことかどうかわからないけれど、今後も活躍して、後輩の面倒を見てね、という意味がある。

学卒で片桐ゼミにやって来て、高校教師となる。大学院で理論を学び、実践を積んで、教職の楽しさと難しさを学んで現場に行く。そして学び続けて高校教育を今よりももっと良くしてもらいたいと思う。片桐研究室ゼミ生のお手本になるんだからね〜。