Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

えちご川口温泉

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年休を取って、1日がかりで新潟市から上越市に帰ればいいかな、と考え、えちご川口温泉経由で十日町を通って行くルートを考えた。

えちご川口温泉のサウナは、新潟県内で最も好きなサウナの1つだ。広くて、清潔で、熱い。そこそこの湿度もある。ただ、テレビがあるのが玉に瑕だが、丁度甲子園の時期だったので、それほどガチャガチャした感じはしない。サウナにテレビがあったら、最悪スポーツ中継だったら許せる。

今まで2回ほど訪れていたのだが、なんだか感じが違う。そうか。今まで入ったことが無い方の湯だった。きっと男湯と女湯、交換しているんだろう。

サウナにはいる時に大量に積まれているマットを1枚取ってセルフで敷く。こうするといつも綺麗なマットを尻に敷ける。コロナ対策なのだろう。えちご川口温泉は、昨年、コロナ禍で軒並み営業自粛していた新潟県内の中でも、早期に温泉を再開したところだ。コロナ対策が万全だった。ここの対策と比べると、他の施設が生ぬるく感じる。

浴室に入るドアに貼られてあるこの言葉が気に入った。

黙浴

いい言葉だ。平日昼間ということで、ほとんど客がいなかったが、人数が少なくとも、それほど換気をしていないサウナ室で喋る勘違いオッサンが良くいる。できればサウナ室内にも貼ってほしいポスターだった。

水風呂も冷たく、久しぶりに整えるか?と思っていたのだが、雨模様だったということもあったり、または、露天風呂の広い方は、冬季閉鎖中だったし、寒かったので、休憩がうまく行かなかった。いつぞやみたいに、露天風呂の外縁の石の上に寝そべって休憩がしたい。4月から広い方の露天風呂は再開だそうだ。

go to eat券も使える眺めのいいレストラン昼食を食べて帰った。途中ミゾレが降ってきたのには驚いた。まだまだ完全に冬にはならんなぁ。十日町の積雪量はハンパなかったし。

今日のととのい度→2 ☆☆★★★

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

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約8年前の2012年に「Q」を子どもたちと観に行った。え?8年前?次男は小2で長男は小6くらいじゃないか。当時はTジョイでしか上映していず、Tジョイは、全くの割引が無い。大人1,800円で、子どもは1,500円位だったんじゃ無いかな?約5,000円を使ってしまった、というショックが当時からまだ続いていた。高すぎる。

今回、次男は最近たくさん放映していたテレビ放送を全く見ずに観に行った。私だって、ちょっと前に「Q」のBS放送を観て、全く覚えていなかったのに気づいたぐらいだ。小2で観た映画を覚えているはずもない。まぁ、覚えていなくても楽しめる内容だったけれど。

今回は、ユナイテッド・シネマで、私は6point無料、長男大学生は1,500円、次男高校生は1,000円で、合計2,500という「Q」の約半額で観られた。映画環境も当時と比べてずいぶんと変わったものだ。休日午後でも、満席では無かった。前方の席に座っている客はいなかった。次男と数年前に行った「ボヘミアン・ラプソディ」は同じ会場で超満員だったな。それから、いつの間にか席を離さずに座れるようになっていたんだろう?

 2時間50分という長さだったが、ずーっと楽しめたし、「映画は体験」という言葉がぴったり当てはまる映画だった。内容としては、「いろいろ辻褄合わせて終わらせた」という感じ。エヴァンゲリオンだったら、もっともっと謎めいて終わらせても良かったとは思うのだけれど、ちゃんとシンジを大人にして、親殺しをさせて「エディプスコンプレックス」を昇華させていたし。まぁ、終わりにするにはそれしか無いと思う。

しかし、この映画は自分の子どもと、特に、父親が息子と観に行くには、複雑すぎる内容だなぁと観ていて思った。子どもたちはどう感じていたんだろう?訊けなかったけれど。

テレビシリーズからのファンも満足させるために、いろいろ入れ込んでもいた。テレビシリーズで、時間が無くて、今では考えられない禁じ手「ラフ画のまま動画にして放映する」というシーンもあった。

子どもたちと話し合ったけれど、わからなかったこと。

  • マリはだれ?
  • 結局たくさんのシトはどこから出てきたの?
  • ゼーレって何?
  • シンジは眠っていた13年間で体が(心も)成長していなかったけれど、アスカはどうしてちょっと大人っぽくなっている?それでも「エヴァの呪縛」で26歳ほどにはなっていないか。 
  • 「ヱヴァ」が「エヴァ」になったのはなぜ?

こんなところかな?エヴァにそれほど詳しくは無いから、「そんなのここを観れば、明らかだよ。」というのがあるかもしれないけれど、最近は「わからないところ」は「わからないまま」引き受けるような映画の見方をするようになった。モヤモヤ感をずーっと引きずり、いつかまた観た時に「なるほど!」とわかる見方の方が面白い。だからネットを漁って分かりやすい「答え」を見つける気は無い。知り合いと対話するのが面白い。

さらに、予告で流れた細田守監督最新作「竜とそばかすの姫」が楽しみだ〜。


『竜とそばかすの姫』特報【2021年 夏公開】

資本主義の終焉と歴史の危機

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

内田樹の娘、内田るんが対話本の中で紹介していたので、読んでみた。データの説明なんかは、私には難しかったのだが、かねてから疑問に思っていたことがクリアーになった気がする。

約20年くらい前、私は経済教育について興味があったし、経済的視点で学校教育を考えていた部分もあるし、「社会に出てから役に立つ」教育を意識しだしたのも、このくらいだ。

しかし、その時から、「経済成長」って、成長する地域や国はいいけれど、どっちかが成長すれば、どっちかが衰退するのでは?と漠然と思っていて、ある国が成長するということは、ある国を食い潰しているんじゃないか?と思うようになった。そんな疑問を社会科教員にぶつけても、納得できる答えは返ってこなかった。

この本では、歴史をふりかえり、経済成長のためには絶えず「周辺」を創り出し、周辺から搾取することで、成長して来たという分かりやすいモデルを提示して述べている。そうか、そうだよな、と思った。

帝国主義国にとっての植民地が「周辺」だし、IT企業にとってのエンドユーザーが「周辺」だ。開発が進み、国内や世界に「周辺」が無くなってくると、「格差」を敢えて生み出して、「周辺」を創り出す。今アメリカや日本に起こっている「格差」はそのものじゃないか。政府は今までのモデルを継続することで、資本主義を進めようとする。自然と格差が増大していくという論に納得した。

だから、SDGsを進めて、新たな価値(まはた新たな意味)を創り出し、そこに資本を流していくようにしているのか?とも思った。(この本が書かれた年は、まだSDGsはそれほど周知されていなかったけれど。)

じゃあ、資本主義が終わって(終わらせて)、次はどんな社会になるのか?ということについては触れていない。それは民主主義を崩さず、資本主義を終わらせるやり方が想像つかないからだという。なるほど。そう単純にはいかないものなのだな。ベーシックインカムに移行する場合、社会主義に傾いていくということなんだし。

学級経営(広義の)で最も心がけけておかねばならぬこと

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後期の大学院授業では、学級経営(集団づくり)も受け持っている。そこではディスカッションを中心に、あるべき学級担任の姿を掘り出すことをしている。

学級(教科)担任には当たり外れがある

学級担任制の功罪を話題にした時、若い院生さんは、「自分は学級担任を外れだと思ったことがなかったので、学級担任制を廃止しなくても良いと思っていた。」という回答があった。そう、学級担任には当たり外れがある。しかし、それは児童・生徒にとって絶対的なものではなく、そのクラスのある生徒にとっては当たりでも、ある生徒にとっては外れであるという現実がある。

問題は、学級担任を児童・生徒は選べないということなのだ。

選べればいいのか?

それじゃあ、流動学級制をしいて、一定期間後担任を選べるようにすればよいのか?ということになる。そうなると、その先生を好きな児童・生徒がそのクラスにどんどん集まることになり、その先生を支持する人たちのクラスが出来上がる。その先生が右といえば右に、左といえば左に向くようになるのではないか?という話になった。生徒たちにとって「当たり」の学級担任である。これって、いいクラスになるのだろうか?

そうなると何が起こる怖れがあるのかというと、先生の周りは自分を支持する人ばかりなので、「腐敗」が起こる。その先生に意見を言う人がいなくなる。文句を言う人がいなくなる。これって、健全な集団を作るために弊害にならないか?忖度ばかりする集団がどうなっているのかは、周知の事実である。児童・生徒にとってばかりか、先生にも成長がなくなる。

というと、一概に、「当たり(=いい先生)」に持たれたからといって、いいことは起こらないのではないか?という話になった。

様々な人と様々な機会で接することができる

いわゆる「抱え込み」が弊害をもたらす。ある先生(当たりでも、外れでも)がずーっとその生徒に接しなければならないということが弊害を生み出すのだから、それをやめればいいということになる。つまり、「ローテーション」だ。子どもたちにとって(もちろん大人たちにとっても)、ある一定期間でいろんな人と接することができるシステムを作れば良い。学校でいえば、教科担任制である。

しかし、教師は抱え込みたくなる。そのクラスの担任だとなると、「自分が全て面倒を見たいし、他から口を出されたくない」と思ってしまう。実際の所そこが問題なのだ。しかし、教科担任制が敷かれると、子どもたちは1日にいろんな先生と接することになるし、逆も然りだ。そうなると、世の中には「合う人間、合わない人間」、「信じられる人間、信じられない人間」、「きらいだけど正しいことを言う人間、好きだけれど、いい加減なことを言う人間」がいるということを体験していく。

その中で、社会に出てからの「耐性」を養うことができる。「大人のいうことは全部信じろ」、「先生のいうことは何でも従え」ということにはならなくなる。児童・生徒が取捨選択出来るし、合わない児童生徒がいた場合、どのように接していけばいいのか教師は考える。

「教職員が一丸となって」はいいこと?

「教職員が一丸となって」という指導方針が必要と言う人が多くいるが、一丸となって同じ方向に向かせようとした場合、その方向は絶対的に「正しい」と言うことができるのか?間違っている場合だってあるじゃないか?絶対的な「正しさ」というのは、「死なない、殺さない、裏切らない」程度しか無い気がする。それは教職員が一丸となって指導するべきものなんだろうけれど、他の場合は、いろんな指導があってよい。いろんな指導に触れさせることも必要だ。

最終的には児童・生徒が自分で選べる力をつける環境作りを「一丸となって」するのが良いのだと思う。

今日から北海道

札幌の定山渓温泉でおこなわれる群読全国大会に参加してきます。旭山動物園にも行ってこようかな?札幌から100kmぐらい離れているんですよね。北海道の距離感がいまいちよくわからない。

月曜日に帰ってきます。

文章がうまくなりたいって思っているのかな?

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院生と「喋れるのに書けない」ということについて、そして「どうして文章を書くのを毛嫌いするのか?」について対話した。作文の課題で、なかなか書けない時に、質問をするとそれに答えられる。「じゃあ、それをそのまま書けばいいんだよ。」と伝えても書けない。喋ることと書くことの間にどのような壁があるんだろうか?

上手な文章を書きたいと思っているか?

私は、学生時代たくさん文章を読んでいたと思う。たくさん読んでいると自分に心地いい文章が自ずと見つかるので、そんな文体で書けるようになったらいいな、という憧れがある。それは筒井康隆のような、どんどんと狂気に向かって行くような文章だったり、奥の細道のような超簡潔で、行間から伝えたいことがにじみ出るような文章だったり、最近では、西尾維新のようなことば遊びとストーリーとちょっとのエロが入っている文章だったりする。

児童生徒はそんな文章への憧れというものがあるのだろうか?という話になった。このような憧れって、たくさん触れないと生まれない。たくさん文字を読まないと生まれない。文章を読む機会がどんどん減っている現代では、そういう憧れを持つ児童生徒は減ってきているのではないか?という話になった。

いや、もしかすると私の年代でも「憧れの文章」というものを持っている人って、そうそう多くはないのかもしれない。

文章教育はほかの教育に比べて欠落している何かがあるのでは?

幼児の時に、お絵かきをしていて、親など周りの大人はその絵を見ると、「おー、○○ちゃん、上手に絵が描けたね。」と褒める。それは小学校に入っても続く。同じように歌を歌ったら、どんな歌でも褒める。褒め続ける。中学ぐらいまでそういうことは続くのではないだろうか?

ところが、ことに文章になると、文章を書いたら小さい頃は褒められるのだろうけれど、だんだんと、字が汚いやら、漢字が間違っているやら、平仮名が鏡文字やら、そんなことを指摘されてしまう。しかもかなりの低年齢時から。そんなことされたら、文章を書くのが嫌いになってしまうのは必至だ。

絵を描いていて、見た目の色と絵に塗られた色が全く違っていても、「おー、個性的だね。」とか、「もしかしたら、この子はピカソの再来か?」とか、デッサンがぐにゃぐにゃでも、「もしかしたら、この子はダリの再来か?」、芸術は爆発だ!という評価がなされることが多い。

ところが文章に関してはそうではない。書いてあることが支離滅裂だったら、「この子は大丈夫なのか?」と思ってしまう。狂気じみていたら「この子は筒井康隆の再来か?(存命中)」と思うことはあまりない。どうして文章に関しては「写実的なもの」が求められるんだろう?

もちろん実用的な文章を書く場合はそういうことは、重要な要素だが、文章は自由なもので、実用的な文章だけを書いているわけではない。他の芸術と同じような自由な部分も伸ばしていかなければならないはずなのに、それが欠落している。

文章の模倣はタブーなのか?

美術を学ぶ時、模写という手段がある。優れた絵描きのデッサン、色使い、筆使いを学ぶためにある。音楽を学ぶ時にも、優れた歌手の歌い方を真似る。ところが文章を学ぶ時に、優れた作家の文章を真似るという手段はあまりとられない。なんとなく自分の中にある文章の断片を自分の直感に従って文字に書き起こしていくやり方しかない。文字化されたものは既に結果であり、その結果についてとやかく指導される。文章を紡ぎ出す過程についての指導は学校ではあまりなされることがない。

作家の文体を真似て書くという課題がもっとあってもいいのではないか?とも思う。しかし、教材化はとても難しい。なぜなら国語教師は文体についてほとんど学んでいないからだ。「漢文調」、「和文調」などざっくりとしたものは授業では取り扱うが、「村上文体」とか、「筒井文体」とか、私も「これがそうだ」と示すことが難しい。

それでも、こういう授業、面白そうだと思うし、国語授業で文体について取り扱ってみたらいいのではないか?

  • ギャル語で自己PR文を書く
  • ラップ調で環境問題についての小論文を書く
  • ダジャレをふんだんに交えて、理科のレポートを書く(西尾維新調)

そうすりゃ、作文も楽しくなる。

実用的な文書はどのくらいの人に必要なのか?

学校教育で求められているのは、「きちんとした文章」だ。誤字脱字が無く、かかり受けが正しく、文体も統一している文章だ。通知文書や指示文書のようなもの。でも、これって、どのくらいの人に必要なものなのだろうか?実用的な文書は理解する必要はあるけれど、書ける必要はあるのだろうか?大体、実用的な文書はテンプレートがあって、それに日付やタイトル、場所などを差し替えればいいだけのものがほとんどだ。実用的な文書をイチから作成する職業って、ほんの一握りの職業に限られている(我々研究者は「論文」という実用的文書の粋みたいなものを書いているけれど)。

だから、高校で小論文を書く指導がなされている。もちろん小論文を書くことによって思考が整理されるということはあるのだが、じゃあ、書かされた高校生のうち、どの位の人が論文を書く必要があるのかというと、大学に行く人くらいしかいないのでは?しかも、大学でも卒業論文を課さないところもたくさんある。そして大学を卒業したら、そんなものを書くことはほとんどの人が無くなる。

つまり、実用的な文章を書かせようとして、その文章自体実用的なものではなくなっているという矛盾がある。そんなことも考えないで、学校ではせっせと小論文を書かせている。小論文、本当に必要なんですか?入試のためダケジャナイですか?

生涯にわたって文章制作を楽しむ

現代はかつてなかったほど人類が文章を書き、文字データが全世界を行き交いしている時代だ。今の児童・生徒はそのような中で生きて行くのであり、じゃあ、文章を書くこと自体を楽しめるようにすることも学校教育に必要なのではないか?とも思う。スポーツを行うのは、プロになるためだけでは無く、生涯にわたってスポーツを楽しむためであるように、文章を書くことも生涯にわたって文章制作を楽しむためであるべきだ。

そういう視点を持つことによって、「文書嫌い」の児童生徒を減らすことができるのではないか?と思う。

作家になるためだけに文章を書くのではない。Jリーガーになるためだけにサッカーをしているわけではない(写真は駄洒落でした)。

ディエゴ・マラドーナ 二つの顔

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ユナイテッド・シネマで鑑賞 2019年 イギリス

サッカーファンでありながら、マラドーナが活躍していた時は、大学生だったので、サッカーなんてワールドカップをちらっとしか見ない時だったので、マラドーナがどれほどすごいプレイヤーなのかわからずにいた。

2019年制作の映画だが、先日亡くなってしまったので、日本でも上映されるようになったのだろうか?

とにかく、マラドーナは虐げられていた人たちにとっての身方、英雄、神であったからこそ、引退してからの行動はいろいろスキャンダルだったけれど、今でも愛されているというのがわかった。

フォークランド紛争が劣勢のままメキシコワールドカップが開かれ、準決勝で紛争の代理戦争と呼ばれたアルゼンチン対イングランドが戦った。そこでの「神の手」+「5人抜き」でアルゼンチンは勝利をつかみ、決勝では西ドイツに勝ち、優勝する。

「神の手」も「5人抜き」もそれぞれ映像で見たこともあるし、有名なプレイだが、このイングランド戦で行われたということをこの映画を見て初めて認識した気がする。1試合でこんな奇跡的なプレイを2つもして、しかもイングランドに勝つなんて、それだけで神格化される理由は充分にある。

BCバルセロナからSSCナポリに移籍していたのだが、1980年代のセリアAの応援なんて、今のJリーグだったら無観客試合レベルのひどいことを言っている。特に、北部の南部への差別意識が強く、南部にあるナポリは、生活環境も良くなく、虐げられていて、北部チームのサポーターは、例えば、「臭い、風呂に入れ」とかいう汚い言葉をチャントで張り上げる。もちろんナポリのサポーターもそれに対抗してはいるのだけれど。

そんな時代にマラドーナナポリに入り、今でもビッククラブのユヴェントスやら、ACミランなんかを下すのだから、すごいことだった。サポーターが熱狂するのもうなずける。しかしこの熱狂がマラドーナをどんどん追い詰めていくというストーリーだった。

ナポリでは英雄のアルゼンチン人が、次のワールドカップイタリア大会では、準決勝アルゼンチン対イタリアの試合で自国の代表と戦うとなった時、サポーターとしてはどちらを応援するのか、これは悩ましい問題だ。

例えば、アルビレックス新潟を優勝させる活躍をした外国人選手がいて、ワールドカップでその外国人選手が代表に入っている国と日本が対戦した時、私はどちらを応援するか。多分その国なんだろうと思ってしまう。本当のサポーターは代表ではなく、代表に誰がいるかで応援するかどうかを決め、代表戦よりも地元チームの優先順位が高いということは良く言われる。

マラドーナの活躍により、イタリアを二分してしまい、マラドーナを守っていた勢力もどんどん離れていってバッシングを受けるようになったというストーリーで描いていた。きっとそうなんだろう。

今、マラドーナが亡くなって、どんどん神として崇める存在になっていくんだろうと思う。