Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

オオカミの家


2018年 チリ 高田世界館視聴

伊集院光深夜の馬鹿力で、ハライチ岩井に伊集院光がお勧めされたと話していて、気になっていた。こういう映画はさすが、高田世界館でかけられるので、これも今のうちに観ておかなければならないと思い、足を運んだ。

ストップモーションアニメ。2018年に公開されているが、なぜか5年後、日本で公開されているのが不思議だ。なぜ5年後?

ストーリーは、ほぼわからない。非常に不気味な感じはするが、ブタが子どもになったり、子どもがブタになったり。誰かの狂気が映像化されているのか?とも思えてくる。個人的には疲労感があった状態で、たまに眠くなりながら見たので、夢うつつで、映画世界にそのまま入ってしまったような感じがした。

現実なのか、アニメなのか分からない状態で撮影されていて、小屋の壁がスクリーンになったり、突然紙くずが集まってきて登場人物になったり。プロジェクションマッピングなのか?と思いきや、実際に部屋の壁に描いて、ちょっとずつずらしながら描かれ、消したところは、その前のコマの絵の具の景色れていない後が残っていて、それがさらに不気味な感じになっている。

部屋の家具もそのまま使っていたり、家具の凹凸関係なく絵が描かれていたりと、観ているとなんだか分からなくなってくる。こんなストップモーションアニメは初めて観た。いったいどれほどの時間をかけて作られたのだろうか?たまに立体物を動かすときに使われた支えている糸が見えたりして、作り物感も感じるのだが、映画に入り込むと、本当に生きているようにも見える。

リアルと作り物感がどんどん入れ替わって感じてしまって、これも分けが分からなくしている原因だ。

これを高田世界館で観たということに、雰囲気を増幅させているのだろう。きっと自分の部屋の小さな画面で見たって、没頭できず、こんな気持ちにはなれないはず。

学校は会社や工場ではないはず

www.asahi.com

新潟県で20年前に新設された県立高校2校が募集停止になった。

新設した県立学校がたった20年で閉校(募集停止)となる。「中等教育学校は大学進学率が全国ワーストだった新潟県の教育水準を底上げするなど約20年の歩みの中で一定の役割を果たしてきた。」という意見もあるようだが、「役目が終わった(ニーズがなくなった)から閉校」というストーリーは、学校教育において、あるべき姿ではない。

例えば、佐渡中等教育学校は、両津高校に併設して作られた。その後両津高校が募集停止となり、結果的に佐渡中等教育学校が吸収した。

50年以上もの伝統があった両津高校(創設時は「新潟県町立両津高等女学校」)は、たった20年しか続かなかった佐渡中等教育学校に吸収されて消えてしまったことになる。

単に大学進学率順位を上げるためだけに伝統ある学校がなくなってしまうことに、「学校」というものの捉え方の違いを感じる。

学校は会社や工場ではない。交換可能な何かを生産したり、右から左に流すだけで利益を得るような組織ではない。

児童・生徒が1つの学校にいるのはせいぜい数年間(小学校や中等教育学校だったら6年前後)でありながら、その後の人生、良きにせよ悪しきにせよその時に経験したり、感じたりしたものに影響されながら生きていく。その学校があっという間に無くなった時の虚無感は、計り知れない。

私は幸い小、中、高、大と通った学校は現存しているけれど、保育園は無くなってしまった。中学か高校の時に新聞記事で母園である保育園が閉園という記事を見て、自転車で訪れた。幼少時の3年間通った保育園でも、かなり寂しい気持ちになった。母校が閉校という経験をしている人は世の中にたくさんいるとは思うけれど、きっと私の感じた虚無感以上のものを感じていると思われる。それほど通った学校への思い入れは強いはずだ。

なぜこれほどまでの思い入れを持ってしまうのか、というと、その理由の1つに、得た知識、技術、資格等の数値で計れる以外のものもたくさん得ることができたからだろう。「雰囲気」や、「匂い」や、「人とのつながり」というようなものだ。

例えば、工場だったら、良い製品を作るために日々改良がなされ、「もっと効率よく、もっと質の良い製品を作るため」だったら、工場の移転、建て替えは資金があれば率先してなされる。なぜなら、工場が移転、建て替えしても、作る製品は同じ(または、さらに良いもの)だからだ。

しかし、学校はそうはいかない。古い校舎に愛着はあるし、思い出、思い入れは建物や場所に宿る。移転、建て替えされると、そこに宿った思い出、思い入れはリセットされたような気がするものだ。津波被害で高台に町を移転させた地域もたくさんあると思うが、移転した地域への愛着は、簡単に生まれるものじゃないだろう。

学校の統廃合を「進学率順位向上のため」を理由に簡単におこない、「役目が終わった」「ニーズがなかった」からといって、簡単に廃校にしようと考えちゃう人は、学校を市場経済に当てはめてしか考えられない人なんだろう。そもそも本当に「大学進学」が県民のニーズに合っていたものなのか?20年前の県民は、新潟県外から出てでも大学に行きたがっていたのだろうか?その進学の「夢」を叶えさせる大学入学予備校的な高校を望んでいたのだろうか?

「大学進学率順位最下位クラス」からの脱却という思いが主になって、この教育政策が行われたとしか思えない。じゃあ、今、「最下位クラス」から脱却しているとして、高校教育が20年前と比べてどのように良くなっているのだろうか?

今年の新潟県高等学校新採用者数(中・高採用)は、約20人。(専門科目のみ。国、数等の「普通科目」は採用無し。)という状況で、若い教員が若い生徒に接する機会を阻んで、年齢構成をいびつにしている状況が、高校生にとって良い状態だとは思えない。(ちなみに、隣県の長野県の採用予定数は90名前後だった。)高校教員志望の優秀な教員は、どんどん隣県に流れていく*1

市場経済だったら、市場にニーズがなかったら簡単に生産を中止したり、制度を廃止する。同じように、ニーズのある、今流行りの学科を簡単に作り、10年後不必要になったら簡単に廃止するという単純な編制方針を考える人は、生徒を工業製品のように考えているとしか思えない。

学校は、社会に目に見えて役に立つ(=経済的利益を生む)人を輩出するためだけにあるわけではない。

「大学進学率向上」のために中等教育学校が林立された時期、私の「どうして進学率順位を上げなければならないんですか?」「最下位じゃだめですか?」にきちんと答えてくれた人はいなかったんだよな。

*1:もちろん、再任用という雇用保障政策があるのは解っているが、それでもいびつすぎないか?

福田村事件(を観て考えた差別を生み出す構造)


2023年 日本 高田世界館視聴

毎月1日映画の日でも、高田世界館は、割引じゃないのか。1,700円払って(会員カード紛失!)観たが、いやぁ、払うだけの価値はあった。

新潟県内でこの日上映しているのは高田世界館だけ。全国では9月上旬ロードショー開始だったが、高田世界館では、この金曜日からかけられた。私の性格として観るのを延ばし延ばしにすると、見る機会を逸するので、さっそく観に行った。

www.fukudamura1923.jp

森達也監督は、今までドキュメント映画を作っていたが、ドキュメントではないものは今回が初作品だということだ。全てのドキュメント映画同様、森達也監督のドキュメント作品も、ある程度の脚色(編集・意図)が入っているのだが、初めからドキュメントではないという映画を作ることで、この事件の解釈が入り、むしろそっちの方が「真実」を映しだしているのでは?と思えてくる。

いろんな人に観てほしい映画だから、この投稿で細かく書くのだが、ネタバレになっているという矛盾を孕んでいる。

「差別」が生まれる(露わになる)状況を考える

学校教育に携わる身としては、「差別」、「いじめ」は避けて通れない教育問題だ。それらが生まれる要因、条件、要因、構造、状況、原因を考えていかなければならないと思っている。「きっかけ」ではなく、「原因」などだ。学校において「きっかけ」を取り除いたとしても、差別、いじめは無くならない。原因等がくすぶっていれば、どんなきっかけでも露わになってしまうからだ。

映画「福田村事件」では、様々な差別を生む条件、状況が複雑に入り組んで、その結果、悲劇的な事件が起こってしまったのだと思われる。それらを洗い出してみたい。

一般化、抽象化、「くくる」という人間の能力

人間は様々なセンサーが体に付いていて、たくさんの情報が体の中に入ってくる。その全てを取り入れて処理していくと、オーバーフローを起こしてしまって、パニックになる。よって、今まで入ってきた情報を一般化、抽象化してひとつひとつにこだわらなくてもいいような状態にする。「似たものをひとくくりにする」という能力だ。この能力があるからこそ、「同類」や、「差異」を認識できるようになる。

「くくり」は、決められたものがあるわけでは無く、それぞれがそれぞれの感覚で捉えて、「あ、これは似ている」「これとは違う」と感覚だ。とても大切なセンサーと感覚なのだが、「これは同じ」という判断がなされることにより、「これは違う」というものが自ずと生まれる。

映画の登場人物は、ほとんど「日本人」、「朝鮮人」という「くくり」で人を捉えていた。これは現代でも当たり前の感覚ではある。街を歩いていて、日本人っぽくない姿形の場合、「あ、外国人だ」と必ず意識してしまう。先日東京主張の時も、外国人観光客が多くて、「あ、外国から来たんだな。観光客が増えてきているんだな。」と思った。

しかし、この映画は、「朝鮮人関東大震災に乗じて襲ってくる」というデマがはびこり→「我が村を守らなければ→朝鮮人を殺すべきだ」という図式になり、日本の行商の人たちを虐殺する事件を描いている。

どうして「襲ってくる」というデマを信じてしまったのかも考えなければならない。

人間は「くくり」をしてしまう生き物

一般化、抽象化し、「くくる」ことをすると、「同じ」「違う」という認識が生まれる。問題は、その後だ。「同じ」だからどうなのか?「違う」からどうなのか?

  • 「同じ」だと嬉しい、「同じ」だと嫌だ。
  • 「違う」と嬉しい、「違う」と嫌だ。

どちらの感情もある。もちろんどちらの感情も生まれない場合もある。

「福田村事件」に描かれている差別意識は、特別のものでも無く、我々が生み出す差別意識そのものが描かれていると思うが、「「違う」と嫌だ」というものが露骨になったものだった。

福田村のものは襲ってこないが、朝鮮人は襲ってくる。
福田村は日本人の村で、日本人は襲ってこないが、朝鮮人は襲ってくる。
福田村という日本人の村には朝鮮人は入れない。
福田村という日本人の村に入ってこようとする朝鮮人は排除すべきだ。
福田村という日本人の村に入っている朝鮮人は殺すべきだ。

という思考手順で虐殺が行われたように思われる。

「くくり」で考えれば、以下のように福田村にはいろんな「くくり」を設定することができる。

家族 //A// 組織(役目) //B// 我々の村人 //C// 日本人 //D// 朝鮮人

そしていろんなくくりで対立(ちょっとした喧嘩、いさかい、トラブル)が起こっている。過激に考えて朝鮮人を排斥しようと考えている水道橋博士をを長とする退役軍人会とデモクラシーを推奨している村長(豊原功補)は事あるごとに対立していた。これは、組織内外の対立となる。退役軍人会にとっては、村長は自分の組織ではなく、我々の村人となり、//B//のくくり外の人となる。しかし、村長は、退役軍人会を「我々の村人」と捉えている。

家族の捉え方で、対立したり、許容したりするのも映画内でもあるし、我々の身近なところでよく起こっていることだ。

くくりの内外をどこに設定するかで、「我々」の範囲が変幻自在となる。

なぜ「我々」という意識を持つのか?というと、安心するためだ。家族と顔を合わせる度に、「こいつは今何をしてくるか解らない」と思っていたら、身が持たない。本当に何かをするわけじゃないというのは分かっていても、毎回毎回それを確認していては、精神的に参ってしまう。つまり、「安心」するために、「くくり」を設定する。

退役軍人会だったら、このメンバーだったら、考えも同じだし、喜怒哀楽を共有できると思うことで、安心する。


映画でも、退役したが、軍人会に入っていない東出昌弘が

戦争から帰ってきても軍服を着て、事あるごとにつるんで、そんなに軍隊がいいのか!俺はいつも殴られてばっかりだった。

と批判する場面があった。東出昌弘は退役軍人ではあるが、軍人会に入らない。軍人会の「外」の存在である。そして対立も起こす。同じ福田村内でもさまざまなくくり内外によって対立が起きる。軍人会の中で、東出昌弘の味方をする人はいない。

「違い」を認識するだけか、排除・攻撃するのか

「くくり」をしてしまうのは、自然なことだとは思うが、くくって、くくりの外にある存在をどう考えるのかは、人それぞれであり、くくり外の存在を必ず排除するというのは、陥りやすい罪なのかもしれないが、自然なことではない。

「同じ」を認識し、くくって、「違い」を露わにした外の素材を「排除」「嫌悪」「攻撃」する必要は無い。ただ、くくり外の存在が「ある」と認識するだけでいいはずで、負の感情を抱く必要はどこにあるのか?

考えられる理由として

「くくり内」を認識して、「くくり外」を排除、嫌悪、攻撃することによって
1.「くくり内」に危害が加わらないようにする
2.排除、嫌悪、攻撃することにより、「くくり内」の「くくり」を壊したくない
3.「くくり内」を変化のない居心地の良い場所にしたい

この2つが考えられる。「いじめ」の構造には2.が生じていると思われる。外に敵がいれば、内がまとまるというものだ。ただ、いじめにおける「くくり」は簡単に変動するもので、攻撃対象がいなくなった場合、「くくり」が変更され、くくり内の存在がくくり外に追い出され、攻撃対象となる場合が良くある。

1.は、くくり外の存在が危害を加えてこなければ、排除、嫌悪、攻撃の必要性は無くなる。

3.に関しては、永続的に変化しないということはあり得ないので、くくりは常に微調整される。


退役軍人会の長水道橋博士は、朝鮮人が攻めてくるというデマを聞いたのだけれど、「いくら何でもそんなことは無いのでは?それほど武装しなくてもいいのでは?」という意見を漏らした途端、ほかの軍人会メンバーに「びびっているのか?日和っているのか?」とバッシングを受けた。

他のメンバーは、水道橋博士がくくりから外れるのを恐れたし、水道橋博士自身も、このままでは外されてしまうと感じ、「そんなことは無い」と、武装することに賛成し、以後、朝鮮人排斥の先鋒として指揮していくことになる。攻撃することにより、くくりの中に仲間を引き戻したという2.の例でもある。


朝鮮人の中にもよい人もいれば、悪い人もいる」と主張する田中麗奈。親の仕事の関係で、朝鮮で暮らしていたのだ。しかし、「朝鮮人」というくくりを持った人には聞き入れられない。一度くくったものの中は全て同質であるはずだという思考停止が起こっている。

「これらとあれらには違いがあるな」と認識するだけで終われば、差別は生まれない。「違いますけど、何か?」となるだけだ。人間は石に対して差別意識は持たない。全く違う存在だからだ。

だから、差別が生まれる背景には、ある程度共通点(同じ人間)があり、ちょっと違っている点(他の村、他の国、他の人種……)がある場合となり、そして、上記1.〜3.が関わっている場合だ。全く関わらなければ、関心も持たず、何も感じない。排除、嫌悪、攻撃するのは、利害関係が関わった場合だ。

約200年前、福島県山口県が大きな戦争をしていた。いや、日本全国で戦争をしていた。新潟県も新政府軍(山口県、鹿児島県等の連合軍)と戦争をした。2023年の今、そんなこと信じられないと感じるはず。それは「くくり」が大きく変わったからだ。「藩」というくくりが無くなり、「日本国」というくくりになった。「キングダム」の始皇帝もそういうことを考えて戦争をしかけたのだろうか?しかし、戦争を無くすための手段は戦争しか無いって、自家中毒に陥っているように思える。

「ランキング」と「優劣(優越感、劣等感)」の意識の繋がりは?

「くくり」をおこない、「違い」を認識したあと、次に生じるのは「優劣の判断」だ。

優劣の判断はしなければならないこと、必然のことなのだろうか?

「2位じゃだめなんでしょうか?」という有名なフレーズがあった。ランキング信奉者に冷や水を浴びせるいい言葉だと思う。ランキングしたら上の順位の方が「良い」というのは、幻想なのでは無いか?ランキングすることと、上の順位の方が優位というのは連動しているものではない。ランキングは(主に)数値による客観的なものである。そして上位の方が「良い」と捉えるのは、感情的なものだ。

初めからランキングを競うゲームだったら、1位がいいのはゆるぎない事実だ。プロスポーツはランキング上位になるために行っている。しかし、社会は競っていない、競う必要も無いことにも無理矢理ランキングを付けて、競わせようとしている。「住みやすさランキング」とか、「満足度ランキング」とか。そもそも教育に競争は必要ない(むしろ競争させると教育効果は落ちる)のにも関わらず、何かに付けランキングを付ける。

差別意識は、「俺よりもあっちが上」、「あっちが下」と思うことだ。


福田村を訪れた行商の人たちは、被差別部落出身だ。移動している最中、朝鮮の女性が朝鮮飴を売っていた。仲間の一人が「朝鮮人だったら飴の中に何入れているか分からないぞ」という発言をする。親方(永山瑛太)はそれを咎めて、仲間のみんなに朝鮮飴を買ってやる。「今日の親方は珍しく気前がいい。どうして?」と一人が訊いたら「以前、俺も『おまえたちの薬に何が入っているか分からない』といわれたことがあった。」と答えた。

あるシーンで行商の1人が「朝鮮人と、俺たち、どっちが上なんだろうな。」とつぶやくシーンがあった。

あるシーンでは、行商の人たちが、病気(明言はされていないが、見た限り、ハンセン病)で苦しんでいる人に「治る」と言って、薬を売っていた。そして「俺たち下のものは、もっと下のものから金を取っていかないと生きていけない。」と言う。

人間は「上」とか、「下」とか、意識せずには生きられないことなのだろうか?もちろん「下」に見られ続けていたら、気分は悪いし、生きる気力も無くなるけれども、「自分は上だ」と思わないとやっていけないのだろうか?「上」とか、「下」とか、何も感じなければ、淡々と生きていけるのでは無いだろうか?

下に見られ続けている人が、自分は「上」だと思うことで、生きる気力を奮い立たせることになるだろう。しかし、そもそも下に見る人は、どうして自分以外の存在を下に見る必要があるのか?下に見ないとやっていけないのだろうか?他から下に見られているからそういうことをしているのだろうか?

そう考えると差別意識は連鎖することになる。「上」と思われる人が「下」と思われる人に対して差別意識を持ち、「排除」「嫌悪」「攻撃」する。差別された人が自分は少しでも「上」と思うために「下」を見つけて差別意識を持ち、「排除」「嫌悪」「攻撃」する。じゃあ、一番「上」の存在は何なのだろうか?その人は劣等感を抱くことは無いのだろうか?

ドラマでもよく描かれているが、政治や企業のトップで、虚勢を張り、威張り散らしている存在は、絶対的に自分がトップだと思っているのか、虚勢を張らないとやっていけないからそうしているのか?そもそもそんな人はドラマだけの存在で、現実にいるのかいないのかよく分からない。


日清戦争に行って帰ってきた老人柄本明は、村の若者の出征出陣の宴会で出征者を鼓舞するために「戦争で戦ってきた話をしてくれ」と請われる。何人もの敵をどんな風に殺したかをは話してくれと言われる。柄本明は話し出さない。その後別のところで喧嘩が始まり、この件はうやむやになるのだが、家に帰ってきて息子に戦争で人を殺したのは噓だと告げる。自分は馬番で、人を殺したことは無い。たくさんの死体を片付けただけだ。おまえたちに尊敬されたくてそんな噓をついたと告白する。

そんな虚勢を張らないと人は生きていけないのだろうか?

こう考えると、自分は「上」と思ったり、自分の「下」がいると思わせないと人間は生きていけないのか?と思えてくるが、本当にそんなことがあるのか?人間の本質なのか?そうなると上には上がいて、本当のトップになる人は、全世界でたった1人ということになってしまう。全世界で1人を除いてその他全ての人は「不幸」ということになってしまう。

本当だろうか?

足るを知る

老子の言葉で

足るを知る

というものがある。「全世界で1人を除いて幸せと感じている人はいなくなる」ということが起きていないのは、「自分はこれくらいで幸せだ」と思うからだ。問題なのは「これくらい」がどのくらいなのかだ。満足と不満足のボーダーラインは誰が決めるのか?

一番いいのは自分で決めることなのだろうけれど、自分で決めるボーダーラインは様々なものに影響される。家族、学校、世間、会社などである。周りが「そんなんで満足してちゃだめだ」「もっとできるはずだ」「もっと上を目指せ」などと「教育」することで、ボーダーラインはどんどん上がる。その上げられたボーダーラインにとうてい届かなくなったとき、劣等感が生まれる。

もちろん「上を目指させる」教育全てが悪いわけでは無い。本人が望んでいる場合、そう伝えて励ます場合は効果がある。問題なのは本人が望んでいない場合だ。周りの希望と本人の意思の齟齬により不幸が生まれる。

格付け機関になっている学校

さて、学校はどうなんだろうか?何でもランキングを付けて、ランキングにそぐわないものにもランキングを付けて、競わせて、上を目指させ、「そんなので満足しちゃいけない」とボーダーラインを無理矢理上げさせ、他人の価値を押しつけ、不幸を生み出していないだろうか?そもそも点数で測れない「学力」に点数を付けている。何のために点数を付けるのか?学力レベルを可視化するためだけだったら何とか許容できるが、ランキングを付ける、競わせるために点数化しているのが現実だ。

「2位じゃだめなんでしょうか?」じゃなくて、「最下位じゃだめなんでしょうか?」。だめじゃ無いと思う。だめだという人は、その理由を「幸せ」という視点で述べてほしい。


ランキングで上位が良い、下位がだめというのは、教育のたまものであるし、その思い込みを壊すことができるのも教育であるべきはずだ。福田村村長はデモクラシー推進派だが、それも教育によってなされたものだ。いろんな思い込みは、教育によって解放される。教育の成すべきことは大きい。

「幸せ」という視点で物事を捉えてみる

他人を下に見て優越感を得て生きていく人生は幸せなのか?

他人を下に見て優越感を得る人は、常に上からも下に見られているという意識がある。そんな気持ちを抱いて、常に誰かよりも上になることを考えていて、幸せを感じることができるのか?

「足る」と感じたそのボーダーラインは、誰からも意見を言われる筋合いが無いものであるはずだ。問題なのは、世間が劣等感を抱かせようと働きかけていることだ。人生に「優劣」なんて存在しないのに。

「かもしれない」という恐怖心

非常時の「かもしれない」

原因不明の流行病、目に見えないものが襲ってくるかもしれないという噂(例:もののけ口裂け女?)、突然起こる大災害、戦争などが発生すると、差別意識が顕在化する。

「福田村事件」では、関東大震災だった。

最近でも熊本地震では、ライオンが逃げて街を歩いている、とか、東日本大震災では、東北地方では誰かが商店を襲って物品を強奪している、とか、中越地震では、テレビ局の中継車が避難所に押し寄せて、支援物資を届ける自動車の通行の邪魔になっている、とか、コロナ禍では、トイレットペーパーが品薄状態だ、とか、コロナウイルスにはイソジンが効く、とか。

平常時では「いやいやいやいや、そんなこと無いでしょ?」とツッコミを入れられるのに、非常時だとその判断ができない。できにくい。もちろんツッコミを入れられる人も中にはいるのだが、それがたくさんの声にかき消されてしまう。100人中、1人がツッコミを入れて、99人に否定された場合、ツッコミを入れたその1人がずっと主張するのはとても難しい。そういうことも「福田村事件」では描かれていた。

関東大震災に乗じて、朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」
朝鮮人が井戸に毒を入れて回っている」
「暴動が起こっている」

そんな噂が流れ、それをどんどん触れ回る。映画の中では、噂の出所の1つを、刑事としていた。刑事が自転車で街を回って噂を触れ回っているシーンがあった。そうしている理由があまり描かれていなかった。国(もしくは、警察)は、そうすることによって、朝鮮人を弾圧しようとしていたのだろうか?

「いや、そんなこと、あるはずがない。」と登場人物で否定する人は、事あるごとに登場するのだが、「いやいや、ありえる。」とそれを否定する人が描かれる。否定されたら「それをあなたは本当に見たのか?」と反論する。「いや、みんな言ってる。」としか答えられないのだが、その噂はどんどん広がる。

「そんなこと、あるかもしれない」という恐怖を止めることは難しいのだ。

報復されても当然だという負い目

朝鮮人が襲ってくるかもしれない」という恐怖を生み出すもう一つの要因に、「日本人は朝鮮を併合し、朝鮮人を虐げているから、報復してくるかもしれない。」という考えも当時蔓延していた。つまり、日本は朝鮮に酷いことをしているという認識があったということだろう。酷いしたことの報いで襲ってくるかもしれない。つまり、自分たちがしてきたことと同等(またはそれ以上)のことをしてくるのでは?という恐怖だ。

これは恐怖をどんどん大きくする。どんな酷いことを自分たちはしていたのか計り知れないのに、それと同じようなことをしてくるかもしれないという恐怖。それを防ぐために朝鮮人を殺そうということになってしまう。

進撃の巨人


進撃の巨人」には、これらが全て描かれている。物語は突然の巨人の出現によって始まる。圧倒的な暴力である巨人が人間を殺戮する。なぜ襲ってくるのか、どうやれば撃退できるのかは全く分からない。なんだかわからないものが自分たちを襲ってくる。それに対する圧倒的な恐怖。巨人を討伐しなければ人類が滅びる。いつ襲ってくるのかもしれない存在として巨人は描かれ出す。

その後ストーリーが進むと、民族間の報復合戦となってくる。滅ぼしに来るかもしれないのなら、先制攻撃をしかけようということになる。

そして、なぜ滅ぼしに来るのかというと、1,000年以上前の先祖が行ったことを起こさないためにその民族を根絶やしにしようとしていることが分かってくる。

進撃の巨人」は突発的な大災害、感染症、人知を越えた存在、人種差別等々による戦争を描いている。差別、戦争の構造は、人間の営みであるので2つの作品で共通して描かれていることが分かる。

「かもしれない」で人を動かす

「かもしれない」を植えつければ、人を簡単に動かすことができる。「本当にそうなの?」というツッコミを消し、恐怖は洗脳するのに好都合だ。

「いい子にしていないとサンタが来ないかもしれない」
「英語を学んでいないと、将来困るかもしれない」
「進学しないと、職に就けないかもしれない」
「いうことを聞かないと孤独になるかもしれない」

無知であるということをいいことに、不安を煽り、いうことを聞かせようという教育は現代でもなされている。上記の事例は大人になれば、「そんなことは無いよ」と簡単に否定できることだ。つまり、「かもしれない」を払拭するのは、「大人になる」、「世の中はそう単純じゃ無いよ」と、複雑になる教育が効果的であるということ。

権力に対する付き合い方

マスコミの存在意義


地方新聞社の編集長ピエール瀧は、政府が出した、朝鮮人暴動に対する自警団組織の通達を新聞に掲載しろという。配下の記者は暴動なんてあり得ないから掲載するべきでは無いと反対する。編集長は掲載しなかったら、どんな圧力があるか分からないと応え、掲載する。

記者が目撃した1人の朝鮮人を数人が寄ってたかって殺したことを記事にするという。ピエール瀧は、掲載できないという。

この当時、マスコミは政府のプロパガンダとなっていた。政府に都合の良いことを掲載し、逆は掲載しない。新聞が「暴動なんてあり得ないのでは?」という意見を載せるだけでも、殺人の数を減らすことができた可能性はある。

何を報道しなかったのか?

マスコミを問う時に、「何を報道したか?」では無く、「何を報道しなかったのか?」を問うべきだということを知った。

しかし、これにおいては、起こった事象に触れていない人は「何を報道しなかったのか?」を検証することができない。この映画においては、1人のか弱い、無抵抗の朝鮮人(朝鮮飴売り)が、寄ってたかって殺された事件は編集長によって握りつぶされた。つまり、政府のプロパガンダだということだ。

権力寄りのマスコミは、その存在自体が罪だということが分かる。

最近ジャニーズ性被害問題がたくさん報道されているが、被害を訴え始めたとき、ほとんど報道されなかった。1人が声を上げたとき、各社が報道すれば、次の被害者は出なかった可能性がある。この記事だと、1960年代からあったという。
news.yahoo.co.jp

しかし、それを報道しなかったということは、マスコミは芸能界で圧倒的な力を持っているジャニーズ(事務所)に迎合していたということが分かる。

もう一つジャニーズ性被害問題でおかしいと思うのは、ジャニーズ事務所所属タレントをどんどんCMから外しているということだ。そうしている背景には、圧力をかけてジャニーズ事務所を追い込もうという意図があるのかもしれないが、所属タレントには何の罪も無い。「あそこの国のトップや幹部の政策が気に食わないから、その国民を迫害しよう」という構造と同じだ。

田中麗奈が言った「朝鮮人にはよい人もいれば悪い人もいる。日本人も同じ。」という考え方と真逆だ。

圧倒的に力を持っている側の情報や圧力に従う

同時期に盛り上がっている労働運動についても描かれている。関東大震災が起こった後、労働運動は徹底的に弾圧され、牢獄に入れられ、混乱に乗じて運動家が殺害されていることも描かれている。労働運動をしていた場所に、旗が破られ散らばっていて、弾圧された様子をみて、通行人は「お上に逆らうから、こういうことになるんだ。」とつぶやく。

圧倒的な力に迎合しようというところにも、思考停止が起こる。

新聞記者は見てきた事実を書こうとするが、編集長は圧倒的な力に対抗しない。

今まで逆らえなかった力が存在しなくなって、世間のジャニーズバッシングの機に乗じて、CMからタレントを外す。ジャニーズ事務所所属タレントや、それが生み出した作品の良さは色あせないと擁護する意見を表明する人もバッシングする。

「ツッコミが入れられない雰囲気」は、差別を生み出す土壌となる。

まとめ

差別を生み出す構造は?

無知と恐怖で差別意識が生み出される。

「くくり」を作る思考を止めることができないが、優劣を感じなくてもいいこと、恐怖しなくてもいいことは、教育でどうにでもなる。

そのためには、情報の取り扱い能力が問われる。何でもすぐに信じない。触れ回らない。受けとった情報にツッコミを入れてみる。大多数の意見や雰囲気に簡単に流されない。全て今の日本の教育現場で大切だとされていることだ。

しかし、非日常が起こると、そんなことひっくり返されて、ネット上に根も葉もない噂がはびこる。だから、「こういうことがあったんだ。」と言うことを継承する必要がある。この映画は、そのためにも存在しているのだろうと思う。

上映館

新潟県内の上映館を調べてみたら、なんと、イオンシネマなど、大きな映画館でもこれからかけられるじゃないか。観に行きやすい。私は高田世界館で観るべき映画だと思って、行ったのだけれど。

東出昌弘が良い演技をしているから、是非観に行ってほしい。

永山瑛太の最期の一言、心に刺さるから、それを聞きに行ってほしい。

君たちはどう生きるか


2023年 スタジオジブリ イオンシネマ新潟南鑑賞

帰省している次男が観に行きたいというので、カミさんと次男と3人で観に行く。何の宣伝もしていないということで、情報が伝わってこないのだが、次男の友人から聴いた話で、「どんな映画?」と訊いたら「鳥ばかりが出てくる映画」と答えたそうだ。まさにその通りだった。

誰かが観た夢をアニメ映画にしたようなものだったし、簡単には解らない映画だった。「解らない」というのは私にとっては褒め言葉。世の中何でも簡単に解らせようとする表現がありすぎる中、映画を一緒に観に行った人たちの中で、アレはなんだ、これはこうだ、と、語りたくなる映画だった。一度観に行っても解らない。かといって、解ろうとするために二回目を観に行こうとも思わないけれど。

解らなさをずーっと楽しめる映画なんだと思う。

ただ、有名どころが作るアニメは、声を演じている人のチョイスが有名俳優・タレントだったりするので、個人的にはそれは勘弁してほしいと思っている。いつも観ている人が、声だけの出演をすると、「あ、これ、あの俳優の声だ」と気になって、アニメの世界に入れない。有名どころが作るから、お金がふんだんにあり、客寄せのために有名人の声を使うのだろうけれど、簡単に解らせない映画を作るんだから、演じている人も簡単に誰だか解らないようにしてほしいと思った。

国語科授業「掛け違え」あるある


国語科授業を作っていたり、授業を観ていたりすると、「あれ?なんだかずれてきているぞ?」と気づくことがある。学生さんが模擬授業を作るときによくあるのが、

今まで受けていた授業の活動(課題)をそのまま取り入れ、どうしてそれを行うのか全く考えていない

ということだ。だから、「どうしてそれが必要なの?」というツッコミを入れる。そうするとはっと気づいて、その活動の意味を問い直すようになる。

その活動が必要かどうかは

目標を達成するための活動(課題)かどうか

の1点に尽きる。

また、その活動が国語科の目標を達成するためかどうかは、

言葉に向き合う活動かどうか

の1点に尽きる。

まぁ、そんな簡単にいかないことも多いとは思うけれど、今まで収集した「国語科授業掛け違えあるある」を紹介していこうと思う。

〜Menu〜

授業者本人も解らない目標を設定する

こんな用語は、指導案にあふれているだろう。

  • 自分の言葉で表現する
  • 豊かな表現を身に付ける
  • 論理的思考を身に付ける
  • 対話をする

学生さんがこれらの言葉を指導案に書いてきた場合、必ずツッコむ。そうすると、説明できない。

「自分の言葉」って、自分の言葉じゃない表現ってあるんですか?
他人からの借り物の言葉じゃないってことです。
じゃあ、あなたが発している言葉は、他人が作った言葉は一切入っていないんですね?
……

きちんと学習者に説明できない用語だったら、学習者だって分かるはずがなく、目標が曖昧になり、学習者は何に向かって学習していいか分からなくなる。授業者本人だって、曖昧だから、評価できないことになる。そもそも「これが自分の言葉かどうか」なんて、誰が判断できるんだろう?

授業者本人は、「誰かが作った答えをそのままいうのではなく、自分の頭で考えて、答えを出す」というつもりで「自分の言葉で」と設定しているのだろうが、それは、本人しか解らないし、本人さえも解らない。厳密に言えば、純粋な「自分の言葉」なんて、存在しないのかもしれない。

「論理的思考」と使っている時、何が「論理的思考」なのか、厳密に捉えていないのが多い。授業者は「自分は論理的に考えている」と思い込んでいるようだが、指導案をネットに転がっているものをコピペしただけの場合もあったりした。これって論理的?

ということで、国語の授業なんだから、言葉には細心の注意を払っていきたい。自分の使っている言葉に向き合うことから国語は始まるのでは?と思う。

テキストの周辺情報が主になる

対象のテキスト*1に向き合って、そのテキストから表現されている内容を探ることが主になるのは当然だと思うが、そのテキストを読み取らせる前に、その周辺情報を与えたり、調べさせたりさせる授業をしてしまう。

まず、作者の生い立ちや、作者の他の作品、使われている語の象徴的意味なんかを授業者が与え、作品内容を理解させようとする。これは、きっと今まで受けていた授業がそうだから、それが当たり前だと思って考えなしに周辺情報を与えようとしていると思われる。

例えば、俳句の学習であれば、

  • 句またがり
  • 切れ字
  • 句切れ
  • 季語

なんかの情報を、学習者がその作品に向き合う前に情報として与えようとする。さて、上記の情報は、その作品世界に触れる初期段階で、必要だろうか?しかし与えようとする。「周辺知識でも、知識なんだから与えておくのが当然だ」という授業文化にどっぷり漬かっている。しかし学習者は与えられた情報に引っ張られてテキストを読むようになってしまう。もし、引っ張られないのなら、そもそもそんな情報は必要ない。

また、自分の授業プランに迷わず沿ってもらうために、「都合のよい情報」を与えようという意図があるようにも見うけられた。

鰯雲」は、「不吉の象徴」だから、この句は、近い将来訪れる不吉なことを恐れている気持ちを表したものだ。

本当に「鰯雲」が使われたら「不吉」と捉えられるのだろうか?

俳句の学習に関していえば、17音というシバリのある表現に対して、作者が語に向き合って苦労して表現した作品そのものに読み手が向き合わず、作品外の情報からその作品世界を覗こうとすることは、「国語」なのだろうか?と言いたい。

中学校学習指導要領(2017年告示)解説 国語編には、以下のようにある。高校編でも同表現がある。

様々な事象の内容を 自然科学や社会科学等の視点から理解することを直接の学習目的としない国語科においては,言葉を通じた理解や表現及びそこで用いられる言葉そのものを学習対象としている。

これは、俳句のような文学作品だけではなく、評論文、随筆等でも言えることだ。テキストに表現されている対象世界を理解するのではなく、テキスト自体を理解することが、国語科の学習である。

要約するって何のため?

国語の授業では、テキストを要約させる課題が当たり前にあるのだが、これって何のためなんだろうか?

その文章を理解しているかどうか確かめるため

と答えると思うのだが、本当に要約できれば、解っているという証明になるのか?

文学作品の要約の意味は全く無いというのは、同意してくれる人も多いと思う。実際そんな課題を出す授業者もいないだろう。あらすじを書かせる課題はあるかもしれないが、あらすじが「正解(正解なんてあるのか?)」だからといって、その文章を理解できたといっていいのだろうか?文学作品なんて、「書いていないところ」を読み取れるかどうかにかかっているのだから、あらすじに「書いていないところ」を書いたら「不正解」になるのでは?

評論文を要約させる場合を考えてみる。

「要約」すると、一般的には本文よりも文章は短くなる。つまり、そのテキストの必要な部分と不必要な部分を選り分けて、必要な部分のみ設定された字数に合わせて書いていくということになる。「不必要」と判断されたものは、本当に不必要なのだろうか?著者は必要だと思って記述し、発表前には「不必要」と思っているものは、記述しない。

著述家は、他者に解らせようと思って、文章を書くのであって、解りにくく書こうとはしていないはずだ。よって、記述されているものは全て必要なのであって、その記述されたものの中から「不必要」を選び出すのは、至難の業なのでは?とも思う。不必要な箇所がどんどん出てくる文章って、それだけで悪文なのでは?悪文を教材にしないだろう?とも思う。

「要約」なんていう曖昧な活動名を付けずに、評論文であれば、「この文章の結論は何か?」で十分なのではないか?「要約」の定義も、やり方も示されないまま課題として提示しているのが現実だ。

「要約文」の課題は、文章を理解しているかどうか?を確かめるためではなく、「その文章を最後まで読んだかどうか?」の確認のためにさせているような気もしてきた。読書感想文と同じに。読書感想文も読書指導で必要無いと思うが。

(意味)段落分けって、どうしてするの?

上記「要約文」作成と同じように、何にも考えずに「段落分け」を課題とする授業も多い。

そもそも、著者が作っていない段落にわざわざ段落を分けさせる必要があるのだろうか?著者が小見出しを付けて、1行空けて「ここまでが意味段落の終わりですよ」と示していないんだったら、「ずーっと続けて読んでね」という意思表明だし、意味段落に分ける必要がないと思っているということが分かる。著者が「必要がない」と思っているものをわざわざ分ける必要があるのだろうか?

このブログは、小見出しを付けて、段落に分けている。それは、「こうした方が分かりやすいし、それぞれの段落が独立していますよ。」という意図の表れだ。段落分けしていない文章も、「分けない」という意図の表れなのだけれど、それを無理矢理分けることで、どんな学習効果を狙っているんだろう?

著者が「分けなくてもどこが段落の切れ目か分かるでしょ?」と思って発表しているとは考えにくい。「どこが段落の切れ目か当ててごらん?」とも考えているはずがない。段落に分けなくてもいいと思っているからだ。いや、分ける必要がないと思っているからだ。

そもそも、段落分けなんて、自由なものだ。見方によっては、分け方が大きく変わる。段落数だって、大きく変わる。何の視点も与えず、「段落分けしましょう」なんていう課題を出しても、学習者は困るだけだ。そもそも、授業者は自分で段落分けをしたことがあるのだろうか?得てして教科書の指導書に示されている段落を学習者に当てさせるのを課題にしている場合が多い。

結局この課題も、「最後まで読んだかどうか?」を確認するための課題なのだろうか?

【問題】
この「(意味)段落分けって、どうしてするの?」の文章を35の段落に分けなさい。

穴埋めクイズはやっていいのか?

国語科において空欄補充問題は、当たり前のように出されている(私もそういう問題を作成したことがあった)。しかし、言語表現において、特に、文学作品や日常会話において「そこには絶対この言葉しか入らない」、「そこには絶対この言葉は入れてはいけない」ということはあり得ない。

学生さんは、こんな課題を作ってくる。

(  )に入る適切な語を次の語群から選びなさい。

  1. 雨がふってきた(   )傘を差した。
  2. 雨がふってきた(   )傘を差さなかった。

【語群】 だから  しかし

機械的に入れるのであれば、1.には「だから」だろうし、2.には「しかし」なのだが、逆でも十分に表現として有り得る。1.に「しかし」を入れた場合、「誰かから傘を差すなと禁じられていた」と想像できるし、2.に「だから」を入れた場合、「絶望に打ちひしがれていて、どうにでもなれと思い、雨がふっていても関係ないと思っていた」と想像できる。

じゃあ、呼応の副詞はどうなるのか?若者が使っている「全然-肯定文」は間違いじゃないのか?と思う人もいると思うが、芥川龍之介羅生門」では、「全然-肯定文」が平気で使われている。これは当時当たり前のようにそう使われていたのか、芥川独特の使い方なのかは分からないが、日本全国のほとんどの高校1年生はその表現に触れている。

つまり、何がいいたのかというと、「絶対にこれじゃないとならない表現」というものはほとんどないということだ。

ということで、空欄補充なのだが、授業で、特に文学作品の空欄補充をさせる場合、「正解当て」ゲームになる可能性だってある。その部分の表現を考えさせることで、言葉に向き合わせようという意図があるのは承知できるのだが、そもそもその作品を知っていたら、課題の意味が全く無い。「学習者はきっと知らないだろう」と学習者を甘く見ているその思い込みも頂けない。学習者なめんなよ。「知っている人がいたら黙っていてね。」なんて言う。知っている人は全く学びがない課題である。茶番だ。


文学は芸術である。同じ芸術の美術の授業で、上記の図を示して、「ここには何が入りますか?」なんていう授業はとても違和感がある。作品や作者に対する冒涜じゃないだろうか?作品を鑑賞するときは、作品全体を観て味わいたい。

( A )い戦争
Aには何が入りますか?色です。

という問いを示すよりも、

「茶色い戦争」ってどういうことだろう?「赤い戦争」、「黄色い戦争」とどう違うんだろう?

という問いかけで十分な気がするが、空欄を示すことで学べることって何だろう?

言語表現に、文法的な唯一解は無い。特に、自由な表現活動においては。しかし、そういう授業を受けてきた学生さんは、雨と傘の例のように、凝り固まった考えで授業デザインを作ってしまう。そんな授業を受ける学習者は「あ、先生は、こんなことを答えてほしいんだな。」と思い、例外を排除した「答え」を出す。

そんな授業で深い学びができるのかな?

複数人数で1つの作品を作る

グループで1つの作品を作らざるをえないことは国語授業の中でしばしば行われる。しかし、文学作品(詩、俳句、短歌、群読脚本、物語等)をグループで作らせるのは、「無理がある」ということは頭に入れておいてほしい。

国語授業に限らず、グループ活動にする意味は、以下のものが挙げられる。

  1. (全員の意見を採り上げる)時間が無い
  2. 材料が足りない
  3. 話し合わせたい
  4. 意見を集約したい
  5. 役割分担して効率的に進めたい

授業ではいろんな制約があるので、それをクリアーするためにグループ活動を取り入れるのは、当たり前のことであるが、ことに「俳句を作る」というような文学作品創作時に「グループで1つを作ってね」とするのは、止めるべきである。

学生さんは、このような授業プランを持ってくる。「協働的学び」という文言に囚われすぎて、「話し合わせればいいんだろう」と単純に考えてしまうことが一因にある。

しかし、

文学は個人的なもの

である。文学は、その作品が読み手に「刺さる」かどうかが全てだ。多くの人、長い年月「刺さった」作品だったら「優れた作品」と言われるのだろうが、はっきり言えば、「たった一人に刺さる作品」であったら、その文学作品はいいものと言える。

「この作品はどうして自分のことを分かって描いているんだろう?」「この作品は、自分のいいたいことを言っている。」と読み手が思えば、それで十分なのだ。

そこで、俳句のような文学作品創作だって、「個人的なもの」でなければならない。徹底的に自分を見つめ、自分の内面を観察し、自分の内から湧いてくる言葉を紡ぐことで、作品が作られなければならない。

これをグループ活動でおこなった場合、それは本当にグループの作品なのだろうか?忖度、妥協、諦めが入る可能性は充分ありうるし、そんなものは文学作品でも何でもない。そして、完成しても、その作品に責任を持つものはいなくなる。

全員に俳句を発表させる時間が無いから。話し合いをさせたいから。ということで、安易にグループで創作させようとすることは止めた方がいい。ろくな作品は出来ない。

こんな授業プランを持って来た学生さんに「あなた、複数人数で俳句を作ったことある?」と訊くと、「ない。」と答える。自分がしたことがないことを、学習者にさせようとしている。頭だけで授業デザインを作るとこうなってしまう。

「全員の意見を採り上げる時間が無い」ということがネックだったら、ICTを使い、クラウド上で発表するとか、グループ内で句会を開くとか、やりようはある。

テスト中心の授業デザイン

「読むこと書くこと」中心の国語授業から、そのウエイトを減らし「話すこと聞くこと」のウエイトを増そうという文科省が方針が出た時期があった。確かにそれまでは(実は今でも)テキストを読んで、理解する。言語活動と言えば、作文中心だった。

だから、教員向け研修会では、音声言語表現活動を取り入れた授業デザインを提案した。暗唱、音読、群読、スピーチ、ディベート等を導入する。「書くこと」は、作文だけではなく、詩や単価の創作も取り入れる。

提案すると、取り組んだ先生方は楽しんでいることが分かる。しかし、必ず決まってこういう質問をする方がいる。

評価はどうすればいいんですか?

この方がおっしゃる評価とは、「ペーパーテスト」のことだ。ペーパーテストでどうやって評価すればいいのか?という意図だ。

「話すこと聞くこと」の評価はペーパーテストではほぼ不可能だ。だから、授業に取り入れるのは難しいという感想をもらす。

教育というのは、

目標→課題→評価

という構造が必要だ。目標がなければ、教育とはいえない。全ての教育活動には何かしら「目標」がある。それが表にバッチリ表示されている場合もあるし、授業者本人も気づいていない場合もある(のは問題だが)。

到達すべき目標があり、その手段として課題があり、その達成度を測る評価がある。一番重要視しなければならないのは「目標」である。目標が不適当なものだったら、どんな活動がすばらしいものでも、教育としては不成功になる。

しかし、「評価はどうすればいいのですか?」と考え、ペーパーテストでは評価が難しいから、教育目標に掲げないというのは本末転倒になる。

「評価(=ペーパーテスト)」至上主義に陥ると、ペーパーテストで点数に表れるものだけが教育だという錯覚に陥る。高等学校は大学に入学させる予備校的な機関だと思い込んでいる高校教師のなんと多いことか。

ペーパーテストで評価できる教育内容は、ほんの一部、ほんの一握りである。それを中心に据えた場合、育つ国語の見方・考え方は、微々たるものになる。

我々人間は感覚的に「良い話し方」「良い聞き方」「心を打つ作品」「共感する意見」「うっとりする世界を表現したもの」を判断するセンサーがある。「話すこと聞くこと」を評価するのであれば、話したこと、聞いたことをのものを評価すればいいだけだ。ペーパーテストで評価しようと思うこと自体が間違っている。

ペーパーテストで評価できないというのなら、それは評価方法が間違っているのであって、適切な評価方法を考えるのも教育研究の重要な分野だ。

今、わからせようとする

「高校国語授業あるある」を何点か挙げてみる。

教師が教壇で板書しながら、評論文の解説を延々して、たまに「答えてくれそうな」生徒に当てて、答えてもらう。

2020年代の今でも多くの教室でこんな授業が行われている。学習者が分かったかどうかは定期テストで判断する。学習者は板書された「答え」を暗記してテストに臨む。自分で理解したわけではない。先に述べた「様々な事象の内容を 自然科学や社会科学等の視点から理解することを直接の学習目的としない国語科」ということを授業者は全く分かっていない。

受験問題を解くための解法を教えて、その解法を徹底的に仕込んで、受験問題の正解を1つでも多くしようとする。

これも、学習者は「自分で読み取った」ことにはならない。

こんな国語授業を受けている学習者は、

解らない

ということが許されない授業を受けていることになる。解らないまま悶々とするということが許されない。「解らないから忘れる」という思考回路が教化される。忘れれば「解らない」こともなくなる。

内田樹は次のように述べている。

僕たちが使う重要な言葉は、それこそ「国家」でも、「愛」でも、「正義」でも、一義 的に定義することが不可能な言葉ばかりです。しかし、定義できるということと、その 言葉が使えるということはレベルの違う話です。一意的に定義されていないということと、その言葉がそれを使う人の知的な生産力を活性化したり、対話を円滑に進めたりすることとの間に直接的な関係はないんです。むしろ、多義的であればあるほど、僕たちは知的に高揚し、個人的な、個性的な、唯一無二の定義をそこに書き加えていこうとする。でも、それは言葉を宙吊りにしたまま使うということですよね。言葉であっても、観念であっても、身体感覚であっても、僕たちはそれを宙吊り状態のまま使用することができる。シンプルな解に落とし込まないで、「中腰」で維持してゆくことができる。その 「中腰」に耐える忍耐力こそ、大人にとっても子どもにとっても、知的成熟に必須のも のだと思います。
内田樹「言葉の生成について」 内田樹の研究室 2018/3/28)


なんでもすぐに「答え」が見つけられる世の中、「簡単に解る」ということがもてはやされる社会で、「中腰に耐える」力が弱くなっているのだと思う。耐えられないから諦める。思考放棄する。

しかし、世の中で直面する問題は、そんなに簡単に「正解」は見つけられない。身の回りの人間関係だって、マニュアル通りに簡単に行えば、却ってこじれてしまう可能性だってある。即座に対応すればいいものもあるし、時間をおいてじっくり見守っておけばいいものもある。対応策が「簡単に解る」ものではない。

国語の免許を取ろうとしている(国語の先生になろうとしている)学生さんは、「国語は、解法通りにぱきぱき当てはめていけば、点数がよかったので、楽しかったです。」という。だから国語の先生を目指すんだという。しかし、受験問題とは、そのようにしたら解ける問題が用意されているので、「誰かの思考回路に沿って考えれば正解に到達する」ものだ。

世の中にあるテキストは、そんな単純なものではない。また、世の中で直面する問題に「解法」はない。受験問題が解ければ、世の中を上手く渡っていけると錯覚させる授業は、受験対策以外に活きることはない。

*1:文中で使っている、「テキスト」という語は、言語で表現されているもの(作品、著述、会話、論述等全て)という意味で使っている。国語科の場合は主に日本語で表現されているものである。国語の「教科書」や「題材」的な意味やもあるし、「文字(列)」的な意味もあるし、国語科の題材であれば、文字ではない音声言語も含むし、「テクスト」的な意味も含む。つまり、「国語で扱う主となる教材学習材全般」という意味である。

キングダム 運命の炎


2023年 日本 イオンシネマ新潟西 鑑賞

前作は「キングダムⅡ」だったのに、「Ⅲ」じゃなくなった。
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「Ⅲ」を付けなかったのは、この作品からでも観てほしいと思ったからなのか?でも、この作品から観るのはかなりハードルが高い。お盆で家族が揃ったので、全員で観に行くことにした。長男がキングダムを全巻持っていて、ちょくちょく私は読んでいた。次男もだいたい読んでいた。カミさんは全く読んでいなかったので、Amazon Prime Videoで初回を自身のiPhoneで観、「Ⅱ」はみんなでNetflixでその日の午前中に観て、午後から「Ⅲ」を観に行った。この数日キングダム漬けだった。

NHK大河ドラマのような、豪華キャスト、(たぶん)海外ロケーションでかなり制作費が高いだろうと思われるのだが、見終わった感想は「いったい、どのくらいまで制作を続けられるんだろうか?」ということだ。現在発刊されている原作の本の初期の初期までしか映画化されていない。「Ⅱ」は昨年上映だったが、年に1回ペースで今後上映できないだろうし、配役も変更していかなければならないだろうし、かといって、「Ⅲ」の続きはストーリーでいえば「次の朝」なんだし。何でここで終わるの?という感じ。

昭和の他作シリーズ映画じゃあるまいし……。

とはいえ、戦闘シーンが迫力あり、上手く描かれていて、見応えがあった。でも、だんだん飽きてくる。もうちょっと戦闘シーンを圧縮して、軍師の戦略、個人と個人の戦いを見せてほしいなぁという感想を持った。

きっと「Ⅳ」も観ると思うけれど。

長澤まさみ、あれだけ?「Ⅱ」のエンドロール後の予告で出しときながら、「Ⅳ」の予告にしか出てこないの?そりゃあ詐欺だよ。

特別編 響け!ユーフォニアム~アンサンブルコンテスト~

2023年京都アニメーション イオンシネマ新潟南視聴

新潟ではイオンシネマ新潟南でしかやっていない。ミニオンズカード得点で観られるのかと思いきや、一律1,500円だという。70分の映画で1,500円かぁ、とちょっとコスパが引っかかっていたのだが、響け!ユーフォニアムは、映画館で観るべきものだった。音が全く違う。音楽映画は家のしょぼいテレビで観てはいけないというのがよく分かった。腹に響くブラスの音が心地よかった。

響け!ユーフォニアムシリーズは、ずいぶん好きで、再放送から追って、dアニメストアを契約して再度観て、映画化されたものも追って、既に追いついていたので、最新映画も観に行った。そして2024年春から新たなシーズンが始まるというので、観に行くおっさんは俺だけでは?という懸念も振り払って、勇気を出して観に行った。そして、こういう映画は、あっという間に上映終了するということを身に染みて分かっているので、上映開始の次の週に観に行った。最近はイオンシネマ新潟南の常連と化している。

京アニは高校部活ものが大得意で、作るアニメは全て自分としては共感してしまう。高校時代、夏の暑い日、部活動頑張っていたし、高校教師時代も夏の暑い日、むやみに指導していた。自分の高校時代や、高校教師時代の部活動に関して、光や闇、酸いも甘いも、かなり知っているつもりだ。そんな微妙な感じや雰囲気を上手く絵がているのが京アニ高校部活動ものだと思っている。だからこんなに見入ってしまう。

自分は音楽をやっていたわけではないけれど、「コンテストなんて嫌い」という登場人物、「コンテストは必要か?」と思いながら、コンテストに打ち込む登場人物、そこら辺の矛盾と折り合いをつけながらもがいている登場人物に共感してしまう。

だから、最近、ステレオタイプ的に「部活動無用論」、「部活動顧問拒否運動」と、部活動なんて打ち込んだこともないし、顧問にもなったことがない人が息を荒くして言っているのだが、残念ながら、そういう人には、つらさや切なさや味わい深さや達成感や充実感や自己マネージメント力なんて、味わったり、育ったりしない。

自分がコントロールできそうなものしか体験しない人、経験しない人、接しない人は、きっとそれほど「複雑な」人間にはなれない。

ちょっと話は大きくなってしまったが、京アニ高校部活動ものはそういう葛藤を描いているから、面白いんだと思う。