Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

国語科授業「掛け違え」あるある


国語科授業を作っていたり、授業を観ていたりすると、「あれ?なんだかずれてきているぞ?」と気づくことがある。学生さんが模擬授業を作るときによくあるのが、

今まで受けていた授業の活動(課題)をそのまま取り入れ、どうしてそれを行うのか全く考えていない

ということだ。だから、「どうしてそれが必要なの?」というツッコミを入れる。そうするとはっと気づいて、その活動の意味を問い直すようになる。

その活動が必要かどうかは

目標を達成するための活動(課題)かどうか

の1点に尽きる。

また、その活動が国語科の目標を達成するためかどうかは、

言葉に向き合う活動かどうか

の1点に尽きる。

まぁ、そんな簡単にいかないことも多いとは思うけれど、今まで収集した「国語科授業掛け違えあるある」を紹介していこうと思う。

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授業者本人も解らない目標を設定する

こんな用語は、指導案にあふれているだろう。

  • 自分の言葉で表現する
  • 豊かな表現を身に付ける
  • 論理的思考を身に付ける
  • 対話をする

学生さんがこれらの言葉を指導案に書いてきた場合、必ずツッコむ。そうすると、説明できない。

「自分の言葉」って、自分の言葉じゃない表現ってあるんですか?
他人からの借り物の言葉じゃないってことです。
じゃあ、あなたが発している言葉は、他人が作った言葉は一切入っていないんですね?
……

きちんと学習者に説明できない用語だったら、学習者だって分かるはずがなく、目標が曖昧になり、学習者は何に向かって学習していいか分からなくなる。授業者本人だって、曖昧だから、評価できないことになる。そもそも「これが自分の言葉かどうか」なんて、誰が判断できるんだろう?

授業者本人は、「誰かが作った答えをそのままいうのではなく、自分の頭で考えて、答えを出す」というつもりで「自分の言葉で」と設定しているのだろうが、それは、本人しか解らないし、本人さえも解らない。厳密に言えば、純粋な「自分の言葉」なんて、存在しないのかもしれない。

「論理的思考」と使っている時、何が「論理的思考」なのか、厳密に捉えていないのが多い。授業者は「自分は論理的に考えている」と思い込んでいるようだが、指導案をネットに転がっているものをコピペしただけの場合もあったりした。これって論理的?

ということで、国語の授業なんだから、言葉には細心の注意を払っていきたい。自分の使っている言葉に向き合うことから国語は始まるのでは?と思う。

テキストの周辺情報が主になる

対象のテキスト*1に向き合って、そのテキストから表現されている内容を探ることが主になるのは当然だと思うが、そのテキストを読み取らせる前に、その周辺情報を与えたり、調べさせたりさせる授業をしてしまう。

まず、作者の生い立ちや、作者の他の作品、使われている語の象徴的意味なんかを授業者が与え、作品内容を理解させようとする。これは、きっと今まで受けていた授業がそうだから、それが当たり前だと思って考えなしに周辺情報を与えようとしていると思われる。

例えば、俳句の学習であれば、

  • 句またがり
  • 切れ字
  • 句切れ
  • 季語

なんかの情報を、学習者がその作品に向き合う前に情報として与えようとする。さて、上記の情報は、その作品世界に触れる初期段階で、必要だろうか?しかし与えようとする。「周辺知識でも、知識なんだから与えておくのが当然だ」という授業文化にどっぷり漬かっている。しかし学習者は与えられた情報に引っ張られてテキストを読むようになってしまう。もし、引っ張られないのなら、そもそもそんな情報は必要ない。

また、自分の授業プランに迷わず沿ってもらうために、「都合のよい情報」を与えようという意図があるようにも見うけられた。

鰯雲」は、「不吉の象徴」だから、この句は、近い将来訪れる不吉なことを恐れている気持ちを表したものだ。

本当に「鰯雲」が使われたら「不吉」と捉えられるのだろうか?

俳句の学習に関していえば、17音というシバリのある表現に対して、作者が語に向き合って苦労して表現した作品そのものに読み手が向き合わず、作品外の情報からその作品世界を覗こうとすることは、「国語」なのだろうか?と言いたい。

中学校学習指導要領(2017年告示)解説 国語編には、以下のようにある。高校編でも同表現がある。

様々な事象の内容を 自然科学や社会科学等の視点から理解することを直接の学習目的としない国語科においては,言葉を通じた理解や表現及びそこで用いられる言葉そのものを学習対象としている。

これは、俳句のような文学作品だけではなく、評論文、随筆等でも言えることだ。テキストに表現されている対象世界を理解するのではなく、テキスト自体を理解することが、国語科の学習である。

要約するって何のため?

国語の授業では、テキストを要約させる課題が当たり前にあるのだが、これって何のためなんだろうか?

その文章を理解しているかどうか確かめるため

と答えると思うのだが、本当に要約できれば、解っているという証明になるのか?

文学作品の要約の意味は全く無いというのは、同意してくれる人も多いと思う。実際そんな課題を出す授業者もいないだろう。あらすじを書かせる課題はあるかもしれないが、あらすじが「正解(正解なんてあるのか?)」だからといって、その文章を理解できたといっていいのだろうか?文学作品なんて、「書いていないところ」を読み取れるかどうかにかかっているのだから、あらすじに「書いていないところ」を書いたら「不正解」になるのでは?

評論文を要約させる場合を考えてみる。

「要約」すると、一般的には本文よりも文章は短くなる。つまり、そのテキストの必要な部分と不必要な部分を選り分けて、必要な部分のみ設定された字数に合わせて書いていくということになる。「不必要」と判断されたものは、本当に不必要なのだろうか?著者は必要だと思って記述し、発表前には「不必要」と思っているものは、記述しない。

著述家は、他者に解らせようと思って、文章を書くのであって、解りにくく書こうとはしていないはずだ。よって、記述されているものは全て必要なのであって、その記述されたものの中から「不必要」を選び出すのは、至難の業なのでは?とも思う。不必要な箇所がどんどん出てくる文章って、それだけで悪文なのでは?悪文を教材にしないだろう?とも思う。

「要約」なんていう曖昧な活動名を付けずに、評論文であれば、「この文章の結論は何か?」で十分なのではないか?「要約」の定義も、やり方も示されないまま課題として提示しているのが現実だ。

「要約文」の課題は、文章を理解しているかどうか?を確かめるためではなく、「その文章を最後まで読んだかどうか?」の確認のためにさせているような気もしてきた。読書感想文と同じに。読書感想文も読書指導で必要無いと思うが。

(意味)段落分けって、どうしてするの?

上記「要約文」作成と同じように、何にも考えずに「段落分け」を課題とする授業も多い。

そもそも、著者が作っていない段落にわざわざ段落を分けさせる必要があるのだろうか?著者が小見出しを付けて、1行空けて「ここまでが意味段落の終わりですよ」と示していないんだったら、「ずーっと続けて読んでね」という意思表明だし、意味段落に分ける必要がないと思っているということが分かる。著者が「必要がない」と思っているものをわざわざ分ける必要があるのだろうか?

このブログは、小見出しを付けて、段落に分けている。それは、「こうした方が分かりやすいし、それぞれの段落が独立していますよ。」という意図の表れだ。段落分けしていない文章も、「分けない」という意図の表れなのだけれど、それを無理矢理分けることで、どんな学習効果を狙っているんだろう?

著者が「分けなくてもどこが段落の切れ目か分かるでしょ?」と思って発表しているとは考えにくい。「どこが段落の切れ目か当ててごらん?」とも考えているはずがない。段落に分けなくてもいいと思っているからだ。いや、分ける必要がないと思っているからだ。

そもそも、段落分けなんて、自由なものだ。見方によっては、分け方が大きく変わる。段落数だって、大きく変わる。何の視点も与えず、「段落分けしましょう」なんていう課題を出しても、学習者は困るだけだ。そもそも、授業者は自分で段落分けをしたことがあるのだろうか?得てして教科書の指導書に示されている段落を学習者に当てさせるのを課題にしている場合が多い。

結局この課題も、「最後まで読んだかどうか?」を確認するための課題なのだろうか?

【問題】
この「(意味)段落分けって、どうしてするの?」の文章を35の段落に分けなさい。

穴埋めクイズはやっていいのか?

国語科において空欄補充問題は、当たり前のように出されている(私もそういう問題を作成したことがあった)。しかし、言語表現において、特に、文学作品や日常会話において「そこには絶対この言葉しか入らない」、「そこには絶対この言葉は入れてはいけない」ということはあり得ない。

学生さんは、こんな課題を作ってくる。

(  )に入る適切な語を次の語群から選びなさい。

  1. 雨がふってきた(   )傘を差した。
  2. 雨がふってきた(   )傘を差さなかった。

【語群】 だから  しかし

機械的に入れるのであれば、1.には「だから」だろうし、2.には「しかし」なのだが、逆でも十分に表現として有り得る。1.に「しかし」を入れた場合、「誰かから傘を差すなと禁じられていた」と想像できるし、2.に「だから」を入れた場合、「絶望に打ちひしがれていて、どうにでもなれと思い、雨がふっていても関係ないと思っていた」と想像できる。

じゃあ、呼応の副詞はどうなるのか?若者が使っている「全然-肯定文」は間違いじゃないのか?と思う人もいると思うが、芥川龍之介羅生門」では、「全然-肯定文」が平気で使われている。これは当時当たり前のようにそう使われていたのか、芥川独特の使い方なのかは分からないが、日本全国のほとんどの高校1年生はその表現に触れている。

つまり、何がいいたのかというと、「絶対にこれじゃないとならない表現」というものはほとんどないということだ。

ということで、空欄補充なのだが、授業で、特に文学作品の空欄補充をさせる場合、「正解当て」ゲームになる可能性だってある。その部分の表現を考えさせることで、言葉に向き合わせようという意図があるのは承知できるのだが、そもそもその作品を知っていたら、課題の意味が全く無い。「学習者はきっと知らないだろう」と学習者を甘く見ているその思い込みも頂けない。学習者なめんなよ。「知っている人がいたら黙っていてね。」なんて言う。知っている人は全く学びがない課題である。茶番だ。


文学は芸術である。同じ芸術の美術の授業で、上記の図を示して、「ここには何が入りますか?」なんていう授業はとても違和感がある。作品や作者に対する冒涜じゃないだろうか?作品を鑑賞するときは、作品全体を観て味わいたい。

( A )い戦争
Aには何が入りますか?色です。

という問いを示すよりも、

「茶色い戦争」ってどういうことだろう?「赤い戦争」、「黄色い戦争」とどう違うんだろう?

という問いかけで十分な気がするが、空欄を示すことで学べることって何だろう?

言語表現に、文法的な唯一解は無い。特に、自由な表現活動においては。しかし、そういう授業を受けてきた学生さんは、雨と傘の例のように、凝り固まった考えで授業デザインを作ってしまう。そんな授業を受ける学習者は「あ、先生は、こんなことを答えてほしいんだな。」と思い、例外を排除した「答え」を出す。

そんな授業で深い学びができるのかな?

複数人数で1つの作品を作る

グループで1つの作品を作らざるをえないことは国語授業の中でしばしば行われる。しかし、文学作品(詩、俳句、短歌、群読脚本、物語等)をグループで作らせるのは、「無理がある」ということは頭に入れておいてほしい。

国語授業に限らず、グループ活動にする意味は、以下のものが挙げられる。

  1. (全員の意見を採り上げる)時間が無い
  2. 材料が足りない
  3. 話し合わせたい
  4. 意見を集約したい
  5. 役割分担して効率的に進めたい

授業ではいろんな制約があるので、それをクリアーするためにグループ活動を取り入れるのは、当たり前のことであるが、ことに「俳句を作る」というような文学作品創作時に「グループで1つを作ってね」とするのは、止めるべきである。

学生さんは、このような授業プランを持ってくる。「協働的学び」という文言に囚われすぎて、「話し合わせればいいんだろう」と単純に考えてしまうことが一因にある。

しかし、

文学は個人的なもの

である。文学は、その作品が読み手に「刺さる」かどうかが全てだ。多くの人、長い年月「刺さった」作品だったら「優れた作品」と言われるのだろうが、はっきり言えば、「たった一人に刺さる作品」であったら、その文学作品はいいものと言える。

「この作品はどうして自分のことを分かって描いているんだろう?」「この作品は、自分のいいたいことを言っている。」と読み手が思えば、それで十分なのだ。

そこで、俳句のような文学作品創作だって、「個人的なもの」でなければならない。徹底的に自分を見つめ、自分の内面を観察し、自分の内から湧いてくる言葉を紡ぐことで、作品が作られなければならない。

これをグループ活動でおこなった場合、それは本当にグループの作品なのだろうか?忖度、妥協、諦めが入る可能性は充分ありうるし、そんなものは文学作品でも何でもない。そして、完成しても、その作品に責任を持つものはいなくなる。

全員に俳句を発表させる時間が無いから。話し合いをさせたいから。ということで、安易にグループで創作させようとすることは止めた方がいい。ろくな作品は出来ない。

こんな授業プランを持って来た学生さんに「あなた、複数人数で俳句を作ったことある?」と訊くと、「ない。」と答える。自分がしたことがないことを、学習者にさせようとしている。頭だけで授業デザインを作るとこうなってしまう。

「全員の意見を採り上げる時間が無い」ということがネックだったら、ICTを使い、クラウド上で発表するとか、グループ内で句会を開くとか、やりようはある。

テスト中心の授業デザイン

「読むこと書くこと」中心の国語授業から、そのウエイトを減らし「話すこと聞くこと」のウエイトを増そうという文科省が方針が出た時期があった。確かにそれまでは(実は今でも)テキストを読んで、理解する。言語活動と言えば、作文中心だった。

だから、教員向け研修会では、音声言語表現活動を取り入れた授業デザインを提案した。暗唱、音読、群読、スピーチ、ディベート等を導入する。「書くこと」は、作文だけではなく、詩や単価の創作も取り入れる。

提案すると、取り組んだ先生方は楽しんでいることが分かる。しかし、必ず決まってこういう質問をする方がいる。

評価はどうすればいいんですか?

この方がおっしゃる評価とは、「ペーパーテスト」のことだ。ペーパーテストでどうやって評価すればいいのか?という意図だ。

「話すこと聞くこと」の評価はペーパーテストではほぼ不可能だ。だから、授業に取り入れるのは難しいという感想をもらす。

教育というのは、

目標→課題→評価

という構造が必要だ。目標がなければ、教育とはいえない。全ての教育活動には何かしら「目標」がある。それが表にバッチリ表示されている場合もあるし、授業者本人も気づいていない場合もある(のは問題だが)。

到達すべき目標があり、その手段として課題があり、その達成度を測る評価がある。一番重要視しなければならないのは「目標」である。目標が不適当なものだったら、どんな活動がすばらしいものでも、教育としては不成功になる。

しかし、「評価はどうすればいいのですか?」と考え、ペーパーテストでは評価が難しいから、教育目標に掲げないというのは本末転倒になる。

「評価(=ペーパーテスト)」至上主義に陥ると、ペーパーテストで点数に表れるものだけが教育だという錯覚に陥る。高等学校は大学に入学させる予備校的な機関だと思い込んでいる高校教師のなんと多いことか。

ペーパーテストで評価できる教育内容は、ほんの一部、ほんの一握りである。それを中心に据えた場合、育つ国語の見方・考え方は、微々たるものになる。

我々人間は感覚的に「良い話し方」「良い聞き方」「心を打つ作品」「共感する意見」「うっとりする世界を表現したもの」を判断するセンサーがある。「話すこと聞くこと」を評価するのであれば、話したこと、聞いたことをのものを評価すればいいだけだ。ペーパーテストで評価しようと思うこと自体が間違っている。

ペーパーテストで評価できないというのなら、それは評価方法が間違っているのであって、適切な評価方法を考えるのも教育研究の重要な分野だ。

今、わからせようとする

「高校国語授業あるある」を何点か挙げてみる。

教師が教壇で板書しながら、評論文の解説を延々して、たまに「答えてくれそうな」生徒に当てて、答えてもらう。

2020年代の今でも多くの教室でこんな授業が行われている。学習者が分かったかどうかは定期テストで判断する。学習者は板書された「答え」を暗記してテストに臨む。自分で理解したわけではない。先に述べた「様々な事象の内容を 自然科学や社会科学等の視点から理解することを直接の学習目的としない国語科」ということを授業者は全く分かっていない。

受験問題を解くための解法を教えて、その解法を徹底的に仕込んで、受験問題の正解を1つでも多くしようとする。

これも、学習者は「自分で読み取った」ことにはならない。

こんな国語授業を受けている学習者は、

解らない

ということが許されない授業を受けていることになる。解らないまま悶々とするということが許されない。「解らないから忘れる」という思考回路が教化される。忘れれば「解らない」こともなくなる。

内田樹は次のように述べている。

僕たちが使う重要な言葉は、それこそ「国家」でも、「愛」でも、「正義」でも、一義 的に定義することが不可能な言葉ばかりです。しかし、定義できるということと、その 言葉が使えるということはレベルの違う話です。一意的に定義されていないということと、その言葉がそれを使う人の知的な生産力を活性化したり、対話を円滑に進めたりすることとの間に直接的な関係はないんです。むしろ、多義的であればあるほど、僕たちは知的に高揚し、個人的な、個性的な、唯一無二の定義をそこに書き加えていこうとする。でも、それは言葉を宙吊りにしたまま使うということですよね。言葉であっても、観念であっても、身体感覚であっても、僕たちはそれを宙吊り状態のまま使用することができる。シンプルな解に落とし込まないで、「中腰」で維持してゆくことができる。その 「中腰」に耐える忍耐力こそ、大人にとっても子どもにとっても、知的成熟に必須のも のだと思います。
内田樹「言葉の生成について」 内田樹の研究室 2018/3/28)


なんでもすぐに「答え」が見つけられる世の中、「簡単に解る」ということがもてはやされる社会で、「中腰に耐える」力が弱くなっているのだと思う。耐えられないから諦める。思考放棄する。

しかし、世の中で直面する問題は、そんなに簡単に「正解」は見つけられない。身の回りの人間関係だって、マニュアル通りに簡単に行えば、却ってこじれてしまう可能性だってある。即座に対応すればいいものもあるし、時間をおいてじっくり見守っておけばいいものもある。対応策が「簡単に解る」ものではない。

国語の免許を取ろうとしている(国語の先生になろうとしている)学生さんは、「国語は、解法通りにぱきぱき当てはめていけば、点数がよかったので、楽しかったです。」という。だから国語の先生を目指すんだという。しかし、受験問題とは、そのようにしたら解ける問題が用意されているので、「誰かの思考回路に沿って考えれば正解に到達する」ものだ。

世の中にあるテキストは、そんな単純なものではない。また、世の中で直面する問題に「解法」はない。受験問題が解ければ、世の中を上手く渡っていけると錯覚させる授業は、受験対策以外に活きることはない。

*1:文中で使っている、「テキスト」という語は、言語で表現されているもの(作品、著述、会話、論述等全て)という意味で使っている。国語科の場合は主に日本語で表現されているものである。国語の「教科書」や「題材」的な意味やもあるし、「文字(列)」的な意味もあるし、国語科の題材であれば、文字ではない音声言語も含むし、「テクスト」的な意味も含む。つまり、「国語で扱う主となる教材学習材全般」という意味である。