Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

学級担任の決まり方

大学院の授業「「より良い集団づくりを目指す学級担任」と「授業検討会を組織する研究主任」の理論と実践」というとてつもなく長い名称の授業を開講している。名称が長すぎるので、誰も覚えていない。大学の公式な学務情報システムでさえ、途中で切れて「……」となっている。その授業の「より良い集団づくりを目指す学級担任」の部分を担当している。

「学級」の成り立ち

そもそも学級はどうして作られたのか?から、「学級」、「パックツアー」、「この授業」の共通点、相違点を考えることで、学級の特徴を考えるという流れになった。この実践は、

〈学級〉の歴史学 (講談社選書メチエ)

〈学級〉の歴史学 (講談社選書メチエ)

  • 作者:柳 治男
  • 発売日: 2005/03/11
  • メディア: 単行本
を参考にしたものだ。

「学級の成り立ち」と、今現在の「学級の意味」は違ってくる。学級は、そもそもコスパが良い教育システムとして作られた。経済的に裕福な階層の人たちには、お抱えの家庭教師がいる。それを雇えない人たちにも教育が必要ということで、学校が作られ、学級でコスパ良く教育が施された。

結果的に「集団」が生まれたのだが、現代では「社会性を身に付ける」、「対人関係を学ぶ」、「対話的学びを行う」というために学級「集団」を作ったと思われている。それはそれで全く問題はないのだが、そもそもの成り立ちがの視点がコスパなので、ちょっと問題も生まれてくる。

「学級」、「パックツアー」、「この授業」の違い

「パックツアー」や「この授業」は、構成員自らが選んで集団に入ってきたものである。誰かに強制されたわけではない。選んで失敗だった、成功だったと思うかもしれないが、それは選んだ人の選択の結果であり、選んだ人がある程度の責任を負うことになる。責任を負って、そのツアーから外れるという選択肢も有り得る。この授業を次から欠席するという選択肢も有り得る。しかし、「学級」は、構成員が自分で選んだわけではないのだ。だから、「外れ」だったとしても、構成員の責任にはなり得ない。しかし、構成員の責任に転嫁される可能性もある。

「みんなと仲良くする」という学級目標が掲げられたとする。しかし、仲良くなんてしたくない、仲良くできないという児童・生徒は、どうすればいいのだろうか?次の日から学級に顔を出さないという選択肢は、いろんな力により阻止されることになる。仲良くできない児童・生徒が「おかしい」とする同調圧力ものしかかってくる場合もある。私の担当の大学院の「この授業」で私が「受講者みんなが仲良くしなさい」という目標を掲げたらどういうことが起こるのか?「あの先生、なんかおかしい」と思われ、次の時間から出席者がどんどん減っていくのは明らかだ。

「部活動」という集団

学校の中で、自らが選んで入っていく集団として、部活動がある。学校の中ではほぼ唯一の集団かもしれない。学級と違って、嫌なら学級と比べて簡単に所属をやめることができる。あの顧問の先生の指導が素晴らしいから、この部活動に入りたいと思って所属しようと考える児童・生徒はたくさんいるだろう。

と考えると、学校の中で「指導者」、「リーダー」を選んで所属できる集団は「部活動」だけということだろうか?

指導的立場の人の選択

学級担任を児童・生徒は選ぶことができない。「この授業」も私が担当だからということで選んだ人は皆無だろう。パックツアーで「あのガイドさんがカリスマだからぜひこのパックツアーに参加したい。」ということもほぼない。重要であり、見逃しがちな3つの集団の共通点は「指導的立場の人を選択できない(しない)」ということだ。つまり、学級担任を選ぶことができないのだ。

学級担任を選ぶことができたら?

じゃあ、学級担任を選ぶことができたら、どういうことが起こるのだろうか?1組の担任は、「宿題は全く出しません。毎日おもしろおかしい授業をします。」、2組の担任は「毎日たくさんの宿題を出して、勉強バリバリやります」、3組の担任は「毎週お楽しみ会をしたり、球技大会を毎月開催し、特別活動を充実します」と謳い、児童・生徒が自分が所属したいクラスを選択して1年間過ごす。

そんなことを想定して議論してみた。選挙ではないが、自分が行きたいところに所属できる仕組みだ。これっていいことなのか?どうなのか?

現職の院生さんから、「なんだか嫌だなぁ」という雰囲気の感想が漏れた。私からしても、なんか違和感がある。この違和感は何だろう?そもそも、学校は、自分の「好き」だけを選んでそれだけを学ぶ所なのだろうか?というところに引っかかっているのだが、この感じは、もうちょっと冷静に考えるべきことだろう。最近では学級を固定しない学校もある。

ある院生さんから以下のような意見が出た。

同質の子どもたちばかりで構成された学級だと、学級担任が子どもたちに配慮することがなくなり、暴走することがあるのではないか?不満分子がいることで、そちらにも配慮し、バランスの取れた指導が行われるのではないか?

なるほど。選んでくれた(指示してくれる)子どもたちだけではなく、反発している人にも配慮する教育。どこかの国の指導者に心がけて欲しいことだ。これこそ「民主主義」だ。

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授業で使った付箋紙ブラウザアプリ「Metro Retro」

「選ばれている」部活動顧問がいて、その集団が「同質」の構成員が多い場合、上手く行くときは上手く行くのだが、たまに行き過ぎた指導が問題になるときがある。「不満分子」が同調圧力で消え、問題が起こった後、「指示されていると思った」、「指導の一環だと思っていた」という反省の弁を述べる。恐いことだ。

2009年の映画「WAVE」を簡単に紹介した。

THE WAVE ウェイヴ [DVD]

THE WAVE ウェイヴ [DVD]

  • 発売日: 2010/04/28
  • メディア: DVD

高校の選択授業で「独裁政権」を学ぶ授業で、選ばれた独裁者役の先生のもと、生徒たちがどのように暴走していくのかを描いた実話をもとにした映画だ。上記「行き過ぎた指導をする部活動顧問」に通じるところがある。

担任として必要な「資質」・「能力」は?

さて、「選ばれていない」担任でも、指示されるようにするためには、どんな「資質」・「能力」が必要になるのだろうか?「信頼される」ということが授業では上がった。じゃあ、信頼されるためには、どうすればいいのだろうか?人望が厚ければ、信頼されるのだろうけれど、私のように人望が厚くない人は、担任はできないのだろうか?

唯一言えるのは、

真摯であること

である。集団に「真摯」であること、というのは、「相手の意見に耳を傾け、判断する」ということではないだろうか?これだったら、人柄が悪くても、人望がなくても、ポリシーとして行動できる。

ということで、担任として必要な資質・能力は、「民主的な価値観を持っていて、行動し、指導できる」ことであると考えている。

模擬授業開始

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学部2年生「教育実践基礎論」の模擬授業が始まった。今年はとても履修者が多い。何でかな?と思っていたら、ある学生さんが「このコースの名前を冠しているから」ということを言っていた。今の学部2年生から今までの「教職デザインコース」から、「学校教育実践コース」に変更になった。そうか、そうだったのか。「自分のコースの名前がついている授業だから取らなきゃ。」という理由で、たくさんの人が取ったのかもしれない。気づかなかった。

この授業開校時は8人しかいなかったのに、今年度は25人にも増えたので、開校時の模擬授業は1人30分取っていたのだが、1コマ20分×3人にしないと、全員に模擬授業が回らない。従って、今回は事前に「目標課題評価ワークシート」を検討し、模擬授業で行う目標、課題、評価を考えて、ある程度固めてから授業の詳細を考えることにした。

模擬授業を考えることになると、「どんな活動をさせればいいか?」ということが真っ先に出てきて、面白い活動、アクティブな活動を考え、「その活動は何のためにするのか?」ということがおろそかになる。「今まで、そんな風に授業を考えたことがなかった。」というふりかえりをたくさんの学生さんが書いてきた。また、目標と評価の繋がりに思いを馳せることができず、考えた評価が目標の達成度を計るものになっていないことが多い。

事前に出されたシートに赤字でツッコミをどんどん入れて、それをグループで検討していく。
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他者から見てもらうことで、目標課題評価が繋がっているかどうかをブラッシュアップし、模擬授業に臨む。

模擬授業では、学習者役と観察者役に分け、観察者役は、授業での授業者、学習者の様子を観察し、気づいたことをレポートし、そのレポートを授業者が読み、自分の授業を検討していく。受講者が少なかったときは、私が詳細に記録して、レポートしたが、複数の目のレポートの方が、授業者にとっては勉強になる。

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こういうことを2サイクルか3サイクルぐらいしていけば、かなりの授業力がつくのだが、それはこの講座では難しいなぁ。年度末までこういう授業を続ける。

高大接続授業

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高田商業高校との連携で、高大接続授業を行った。

高校はU先生が持っている3年現代文、大学は私の持っている教育実践基礎論である。小論文の授業で、高校生、大学生ともに同じ話題で小論文を書く。

小論文の題が出された場合、「書く内容が思いつかない」ということがネックになる。それだったらメリット・デメリットを先にみんなで考え、挙げられたメリット・デメリットから自分の考えにぴったりくるものを選んで書く実践を以前に院生が行った。

しかし、高校生と大学生では、ものの見方が違ってくるので、高大接続をすれば、同じ学年の学習者が出すメリット・デメリットよりも、多面的な発想、見方ができるのではないか?ということで、Zoomで繋いで同時に行った。

小論文テーマは

学校の部活動を全て社会教育に移行することに対して意見を書きなさい

大学生はグーグルフォームに入力し、高校側に配信し、高校生はグループで出し合い、ホワイトボードに表示し、それを大学側に送る。その作業が大学側のインターネット回線の不調によりちょっと(かなり)手間取ったが、視点の違うメリット・デメリットに出会って、面白かったようである。


である。出されたメリット・デメリットを見ると、高校生は自分が部活動をおこなっている立場のものが多く、大学生側は、これから教員になろうという人たちなので、「働き方改革」に関連したものも多かった。

互いのメリット・デメリットを閲覧した後、質問をする時間を設けた。
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高校生からもたくさん質問が出て、大学生がカメラの前に来て答えるという流れだ。高校生、はっきりと質問できるし、大学生からの質問に答えてくれた人もいて、もしかしたらディスプレイ越しだから、それほど抵抗感無く交流ができるのか?とも思った。

オンライン授業ならではのメリットなのかな?

その後メリット・デメリットから選んで、賛成、もしくは反対の立場で小論文を仕上げた。大学生は1コマ90分の中で、これを行うということで、タイトなスケジュールだったが、皆さん何とか書き上げた。高校生側は、大学の授業に合わせて時間変更&2コマ連結をして行った。小論文を書き上げられなかった生徒も何人かいたということだった。

大学生にとっては、オンライン授業というと、Zoomで先生の話を聞いたり、ブレイクアウトルームで討議したりだけだったので、新鮮だったという感想が多かった。他校種との交流授業、Zoomだから簡単にできる。これからどんなことが出来るか、アイディアが出てくる。

今のオンライン授業はほとんどが「本来ならば対面でするべきなのに会えないから仕方がなく」というものなのだが、今回のものは、「本来ならば交流できないはずなのに、オンラインだから交流できる」というものだった。だから「楽しかった」という感想が多かったのだろう。

あたかもホーム試合のような

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高校教師時代最後の勤務校新潟中央高校に進路講演会の講師として呼ばれた。うちのゼミ生で、新潟中央高校に赴任したU君が呼んでくれたと言ってもいい。久しぶりに会ったU君は、しっかりと高校教師になっていた。去年ゼミ生たちと授業を見に来た時に比べて、自信がついたような雰囲気だった。

よくあるように、いろんな講師を呼んで、生徒が選択して、同時並行的におこなうものだと思っていた。ところが、月歴を見てみると、「上越教育大学進路講演会」と堂々と書かれていて、びっくり。特別に呼ばれたの?なんて思ったのだけれど、今年はいろんな大学から日を別にして希望者が参加する講演会を開いているようだ。

転職5年目にして「公式に」新潟中央高校に呼ばれた。それまでは、授業検討会があったりして、伺っていて、こちらの研究費等で参加していたのだが、公式に呼ばれたので、旅費をもってもらっている。と言っても、本学の出前講座の一環なのだけれど。

2年3組の教室が会場で、この教室は、自分が担任だった時の2学年のクラスであり、私の勤務最後の年に受け持っていたクラスでもある。そして、「教師を希望する人に、上教大の宣伝も含めて、どのような心構えが必要か話してほしい」というオファーだったので、思いっきり話すことができた。新潟県の採用試験状況や、小学校の教員が不足していることや、世間を賑わしている教育問題のことや、もちろん「主体的・対話的で深い学び」についても。

「先生にすぐに『答えって何ですか?』なんて言っていたら、『最適解』、『納得解』を得る力はつきませんよ。」と伝えた。こう言うことで、「最適解」、「納得解」を得る授業をして下さいよ、と一緒に聞いている先生にも伝えたいとも思ったのだけれど。生徒は、23人の参加者だったが、先生方も10名近く聞きに来てくれた。

皆さん真剣に聞いてくれるし、くすぐりには受けてくれるし、頷いて聞いてくれるし、近くの人と情報交換してって言ったら、すぐにざわざわと話し合うし、反応がとても良かった。もしかしたら自分の話が超うまくなったの?と誤解してしまうほどの聞き手たちだった。講師をダメにしてしまうなぁと思いながら、あたかもホームのような雰囲気を感じた。そういえば、新潟中央高校の生徒たちにこうやって話せたのも離任式以来だったのかもしれない。

興が乗ってしまって、私の卒業学校である新潟大学と、修了学校である上越教育大学の比較をして、「上教大に進学するべきでしょう?」と熱く語ってしまった。新潟大学の卒業生だからということで、言いたいことも言ってしまった。

講演の後、質問もたくさん出た。これも素晴らしい。

  • コロナ禍の影響で、実技試験がなくなったけれど、何か影響はあるんですか?
  • 実技試験は、どの程度練習すれば良いですか?
  • 新聞を読んだ方がいいということでしたが、どんな読み方をすればいいですか?
  • 私は理学部にも進みたくて、小学校の先生にもなりたいのだけれど、教育学部に進むのがいいのか、迷っています。

などなど、もっとどんどん出た。

最後の質問には、学部では理学部に進み、理学を極め、中・高の免許を取得し、卒業してから本学の教職大学院に進んで、小学校の免許も取得するといいよ、と説明しておいた。本学教職大学院のPRは、今のうちから高校生にしておく必要性も感じた。それから高校の先生にも。

後援会が終わって、最後の質問をしてくれた生徒が残って、「まだ質問があるんです。」と言ってきてくれた。「今の子どもたちにはどんな力を付けてほしいですか?」と言うことと、「先生になるには、どんな力が必要ですか?」と言うことだった。私はどちらにも「多様性を受け入れられる力」と答えた。「ちょっとしたことで大勢で寄ってたかってバッシングをするこの風潮は、教育で解消するしかないから。」と伝えたら、納得してくれた。素晴らしい生徒たちだった。

春の講演会での大反省のもと、喋ることを絞って、時間内に収めたのも、功を奏したのかもしれない。テンション上がってアドレナリンが放出されて、なかなか寝付けなかった。しばらくはいい気分で過ごしていられる。

コロナ禍がちょっとおさまったこともあり、9月終わりから10月中旬にかけて、講演会、説明会のアウェイ連戦があるのだが、ちょうど中間地点でホームの雰囲気を味わい、あと2つのアウェイ講演会を迎える心構えができた。

教師になろうとする人は新聞を読むべきだということ

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先日連携校に挨拶に行った際、連携校の校長先生から、新潟県内で起こった教育関係者の不祥事をもとに、連携に入る上で注意すべきことのお話をしていただいた。ゼミ生は、その不祥事のことを全く知らなかった。「新聞にあんなに大きく書いてあったのに。」と言っても、新聞を読んでいないから、ぽかんとしていた。

「教員になるためには、新聞を読んでいた方がいい。」と伝えたら、「え?ネットのニュースじゃだめですか?」と聞かれた。「ダメだね。」と答えた。

ネットのニュースは、その人の趣味趣向によって、出てくる記事が選ばれている。なぜか?広告収入を得るためだ。つまり、その人が芸能ニュースを多く読んでいたら、芸能ニュースが多く表示されるようになる。スポーツニュースだったら、スポーツニュースが多く表示される。そうした方が、広告のクリック数が多くなるからだ。

結果、自分の興味のある案件ばかり目に入るようになり、興味の無いものは一生触れないで終わる可能性はある。

高校教師時代は新聞記事で、目にとまったものを教室に貼りだし、その記事についてSHRや自分の授業で解説したり、コメントを述べたりしていた。

大学生や大学院生になったら、そういう機会に触れることも皆無だろう。だから自分から進んで読まねばならない。

私は地元の新聞(新潟日報)を読んでいる。家では購読しているのだが、単身赴任先では、図書館で読んでいる。そういう機会が無いと、もしかしたら階段を降りて、歩いてということももしかしたらマットか失い時期かもしれない。今は授業が無いから。

地元の高校と関わることが多い仕事だから、地域欄がとても重宝する。今日も地元の高校がSSHで、賞を取ったという記事が大きく書かれていた。うちのゼミ生で、地元の高校に非常勤講師で働いている人もいるのだが、その新聞を読まなければ、きっとそんなことは知らないでいるだろう。地域の話題、課題、問題について知らないで、教員はやっていけないのではないか?とも思う。その地域に住んでいるのが児童・生徒なんだから、すんでいる地域のことを知る努力も知らなければならない。

今日まで新潟日報で「教師の多忙化」の特集記事が連載されていたのは、どのくらいの本学学生、院生が知っていたことだろう?地元の新聞だから、地元の教員の生の意見が掲載されている。とても貴重な特集だったと思う。

去年だったか、一昨年だったか、学部生の授業で、ある学生さんが話題に出した、グレタさんのことを知らない学生が8割くらいいて、愕然としてしまった。みんなと同じ世代の、世界的に有名なグレタさんもマララさんもきっと知らないで、教師をやっていけるんだろうか?その学生のスマホには、グレタさんもマララさんも表示されないのだ。

なぜ新聞か?ということなのだが、先ほど書いたように、ネットに比べて見る人の趣味趣向に合わせた記事では無い、ということ。じゃあ、ネットの記事では無くて、テレビのニュースでもいいのではないか?とも思えるが、情報量が圧倒的に違う。限られた時間で、動画をふんだんに使っていて、動画からのインパクトは大きいが、それを文字に起こしたら、圧倒的に新聞の方が情報量が多い。

新聞の読み方を、昔、若い頃、NIE研修会で毎日新聞論説委員から教えてもらった。まだそれほど新聞を読んでいなかった時期だったので、それを試してみた。その人は、こんなふうに言っていた。

まずは眺めるんだ、1面からでも最終面からでもいい。ページをめくっていく。

そのうち、気になった目にとまった記事だけ読んでいけばよい。

初心者へのお勧めは1面から読んでいく。なぜかというと、1面の方には硬い記事ばかりで、跳ばしていけるが、だんだん柔らかい記事になり、興味を引くものが多くなるから、面白くなる。逆だと、どんどんつまらなく思えて、長続きしなくなる。

と。なるほどー。当時はそのようによむようにした。今は逆から読むようになった。

新聞は扱いの大きさによって、写真、見出し、記事の量が違っているので、話題の大きさをあっという間に判別できる。その大きさを基準に読んでみるといいし、小さい記事(テレビのニュースだったら、流れないようなニュース)も載っているので、それがだんだん目にとまってくるようになる。経験を積んで、最近は「アルビ」とか、「アニメ」とかいう文字をぱっと見つけて読めるようになった。

そして一番大きい「新聞を読むべき理由」は、「お金を払って読んでいる」ということ。マスコミは権力の監視機関である。それが無ければ、ジャーナリズムたり得ない。それに直接お金を払うということは、市民の義務とも言っていい。NHKを除けば、直接お金を払って情報を得るマスコミは、新聞だけじゃないのか?とも思う。予算と人事を政府に握られているNHKは、正当なジャーナリズムが発揮できているとは思えないところがある。週刊誌は……ピンキリだし。

「読まない記事にもお金を払う」というところに新聞にお金を払う意味がある。

昨今新聞の発行部数が激減しているらしい。新聞を読む人が減っているからなのだが、それがジャーナリズムの衰退、権力の横暴に繋がるのだから、止めなければならない。世論によって社会は変わる。今日までの大きな特集「教員の多忙化問題」、これを機に世論が盛り上がって、いい方向に行って欲しい。

もちろん、収入のない学生さん、院生さんはどんどん図書館の新聞を読んでほしい。読まれなくなったら図書館の新聞の種類が減っていくことに繋がる。そして、就職して新聞を購読できる位になったら、家で読んでほしい。たまに、知り合いが新聞記事に出ていたりするときは、なぜかうれしく感じる。先日カミさんの写真が載ったときはびっくり。

地方新聞社を舞台にした新聞の作り手の物語、「クライマーズ・ハイ」が大好きな小説だ。何度読み返してもウルウルしてしまう箇所がある。

なぜモンテビア山形の佐倉監督の話を選手は聴くのか?

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佐倉監督は、ちゃんとした選手経験も無いのに、ジャパンリーグ一部モンテビア山形のトップチーム監督になっている。あ、マンガ「GIANTKILLING」の話です。詳細は
yourpalm.jubenoum.com
に上手にまとまっているので、お読みください。

一般的に現場で汗をかいたことがない人の話は、現場の人は聞かない。テレビドラマでよくある。刑事ドラマでも、金融ドラマでも、なんでも。「けっ、現場のこと知らないで、頭だけで考えていやがる。」なんて現場で働いている人は愚痴を仲間に吐く。

また、スポーツマンガやドラマでも、同じことがよく描かれる。昨年あったラグビードラマなんかがいい例だ。ラグビーをやったことがない人が経営に口出して、かなりのバッシングを受けた。一方、そのスポーツを一生懸命やり、実績がある人の話は、選手はリスペクトを持ってよく聞く。「あの選手が言っているんだから」と、素直に受け入れる。

私は、全くやったことのないスポーツの部活動の顧問をかなりの種類持たされた。若いときはいろいろ足掻いて、そのスポーツを経験したりして、若いからこそ上達して、指導できるようにもなった。しかし、歳を取ったら一切そのスポーツをチャレンジするのを諦めた。だから、技術や戦術に関して、口を出すのもやめた。部活動経営に関して指導したこともあったが、私の人間性も起因してあまり受け入れてもらえたとも思えない時期もあった。

話題にしているサッカーマンガの「GIANTKILLING」でも。しかし、この「GIANTKILLING」の佐倉監督は、選手の経験はほとんどない。サッカーが下手だからだ。下手だからボールも蹴らなくなった。しかし、サッカーが好きだった。好きだったから試合をよく見て、戦術を研究し、選手をよく見てコンディションを把握し、最終的には一部リーグトップチームの監督となった。マンガだからというのもあるが、ちゃんとマンガを読んでいると、納得できることがある。

監督になれたのは、それまでいろんなチームや下部チームの監督をやり、選手に認められてきたからこそなのだ。結果を出してきたからこそなのだ。どんな素晴らしい戦術でも、選手がそれを認め、ついていかないと、その戦術を遂行しようとしない。選手が信頼したからこそ、佐倉監督の話を選手は聴いてきたのだ。

じゃあ、どうして選手が聴いたのか、というと、佐倉監督の徹底した選手へのリスペクト、スタッフへのリスペクトがあったからだ。自分はプレイできなかった分、サッカーに関して、周りの全ての人がリスペクトできる存在だったのだと思う。

自分は27年間高校現場で働いてきて、大学教員としての現場経験は、十分にあるとは思っているが、しかし、現場を離れて5年、かなりそのアドバンテージが劣化してきていると、今春思わされたことがあった。これから現場経験だけではやっていけないんだろう、と実感した。だからこそ、学校現場で働いている人へのリスペクト、生徒へのリスペクトを持って、佐倉監督のように信頼を勝ち取れないといけないんだろうと思った。

自分は辰巳猛のようにはなれないので、佐倉ヒトシを目指さないとだなぁ。と思う残暑厳しい夕であった。

新潟劇場「全山曲木」

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新潟セントラル証券での一場面

伊佐山:「お客様に多大な迷惑を掛けたのはお前の責任だよな」
三木:・・・・
伊佐山:「黙っていちゃわからないんだよ。お前がミスをしたからだよな」
三木:(あなたが勝手にここの担当にして丸投げしたからでしょう)
伊佐山:「ここにお客様代表がいらしている。お前が悪かったと詫びなさい」
三木:(あなたに相談しても、「好きにやれ」と言ったんでしょう)
伊佐山:「お客様の熱い気持ちを踏みにじり、不快な思いをさせたのはお前だろう?」
三木:・・・・
伊佐山:「詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ、詫びろ」

三木は土下座させられた。

また、新潟セントラル証券での、別の日の一場面

大和田:「全山君、あなたのやり方、あれ、あれでいいんですか?」
全山:「はぁ、どこか問題でも?」
大和田:「あれじゃあ、利益は上がらないですよね?」
全山:「目先の利益よりも、お客様が今後弊社と長い付き合いをしてもらうために必要なことかと。」
大和田:「そんなものは必要なーい!利益が出なけりゃ、お前がやっていることは、会社のためにならないんだ!わたしの経験ではそんなことやって今までうまくいった例しがない!」
全山:「それでも、市場分析では、長い目でみて、利益が出ているという報告もあります。」
大和田:「ショーコを見せろよ、証拠を!」
全山:「ですからこの資料を・・・」
大和田:「なんだ?こいつが分析した資料か?」
大和田は全山が持って来た資料を分析した研究者の写真を机上に置く
大和田:「こいつの市場研究は、わたしの見方と全く違っている。こんなやつのデータなんて信用するんじゃない。短期的な利益を出さないんだったら、やる価値がない!」
全山:(「損して得取れ」という言葉を知らないのか?長期的視点が無いものは、経営を語る資格がない。損しても得にする、「呼び戻し」だ!

※事実を元にしたフィクションです。


半沢直樹」、見れば見るほど東京中央銀行のブラックさと、中野渡の無能さが際立つドラマだなぁ。比べれば、帝国重工の方が段違いでいい企業だ。