Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

学校は点の取り方を教えるところじゃない

今でも、例えば、「音声言語表現活動」の活動事例を先生方に提示して、「音声言語の練習も必要だよね」と伝えると、必要さは認めてくれるのだが、「どうやって評価するの?」という問いが必ず来る。ここでいう「評価」は「点数化」の意味だ。

「教育」と「点数化」は、親和性があるようで、実は相反するものだと訴えたい。「点数化できない教育活動の方が大切だよね」、ということだ。

球技

サッカーを始めとする球技は、主に点を取る競技だ。対戦相手よりも1点でも特典が多いと「勝ち」となる。「勝つため」に競技をする。

なぜなら、「そういうルールだから」だ。その試合において勝つことを目的とする。

もちろん、卑怯な手を使って勝つことを目指すことはルールで禁じられている。「フェアに勝つ」という条件が付く。この場合、「フェア」というのは、両チームとも「同じ条件で」という意味になる。

プロスポーツでは、「勝つこと」、「優勝すること」を目指す中で、「一番いい方法」が選ばれる。

洗練された、練られた、歴史のあるチームスポーツ界では、

チームメイトと意思の疎通を十分に行い、互いにリスペクトし合う

というのが、「勝つこと」、「優勝すること」の最善の方法と言われている。

誰にも負けない能力を持った1人の選手が、王様になって、傍若無人にふるまい、試合ではバシバシ点を取っていったとしても、短期的には得点を取って勝てるかもしれないが、長期的にはチームワークはバラバラになり、勝ち続けることはできない、というのが分析の結果だから、スポーツチームは「互いのリスペクト」を最優先しだしている。

一昔前のスポ根漫画では、スター選手が1人いればチームは勝ち上がっていたが、最近はそんな突出した能力を描き出すより、チーム内の人間関係模様を細かく描くようになって来ている。影山飛雄が「コート上の王様」では、試合は勝てない。

つまり、「勝つため」、「優勝するため」に「チームワークが必要」になる。

アーティスティックな競技

例えば、フィギアースケート。

フィギアースケートで見られるのは、「正確さ」と「美しさ」だ。

「正確さ」は数値化できるが、「美しさ」は、完璧な「数値化」はできない。「感覚」だから。

ちょっと前までのフィギアースケートには、「規定」というものがあって、氷上に描いた直線や曲線の上を滑ることで点数化した。「フィギア(=形)」スケートの語源だ。

しかしそれは廃止されて、「美しさ」を比べる競技に変更になった。

「美しさ」は人間の感覚だから、好みに左右される。審判の好みで演技の良し悪しが決まってしまう。その曖昧な部分をつき、オリンピックで大々的な不正が発覚し、それを防ぐために、それぞれの技が詳細にポイント化されるようになった。

ポイント化すると、「美しさ」の要素にもなるディテールが削られる。つまり、ポイントが取れない技はしなくなるのだ。

荒川静香がポイントが高くないイナバウワーを敢えてオリンピックで技に入れたのは有名な話だ。自分の演技の「美しさ」にこだわったものだった。

数値化と本質

柔道も国際的な競技になり、どんどん数値化(ポイント化)されていった競技だ。

もともとは試合に勝つには「一本」しかなかった競技のはずだが、「一本」取れずにいつまでたっても勝敗が決しない場合もあるから、「技あり」「有効」「効果」「指導」というゆるめの「ポイント化」が行われた。

国際化していくとともに、「分かりやすい」競技へと変化していった。そうするとやはり「勝つためにはポイントを取ればいい」という考えになり(もちろん、それがルールだから、それが悪いといっているわけではない)、そこを目指す柔道家も増えた。

ところが一方に振れれば、振り返しもあり、今のルールでは、「有効」以下はなくなり、決着もゴールデンスコア方式の延長戦となっている。(昔は主審1名と副審2名が優劣を決め、赤か白の旗を揚げてた。)

漫画「YAWARA!」で、柔道素人の伊東富士子が、「一本じゃなければ柔道の勝ちではない。」と、ポイントで優勢なのに、守らず、どんどん攻めていく姿があり、それを観た主人公が柔道の本質を感じていた場面があった。

「数値化」はその本質を見誤らせる危険がある。

教育は何のため?

さて、スポーツの話から、学校の話になるのだが、「本質」を見誤ってはいけないということが言いたいのだ。

学校の勉強を「点数化」、「ランク付け」をすることで、どんなことが起こっているんだろう?

長期的な「勝ち」を目指すスポーツチームだったら、「互いのリスペクト」がチームに必要だから、それを作って行く。

しかし、学校の勉強に関する「テストの点数」は、互いにリスペクトしなくても上げることができる。個人で覚えるものを覚えていけば、点数は上がっていく。「仲良くしよう」とか、「互いを尊重しよう」とかいうのは、テストの点数を上げるには全く関係ない。

もちろん、クラス内がギスギスしていたら、勉強できる環境じゃなくなり、テストの点数も上がらなくなるかもしれない。しかし、とりたてて「リスペクト」「仲良く」「尊重」しなくても、互いに邪魔しない環境だったら、点数は上がっていく。テストの点数を上げることで、人間関係が良くなっていくなんていうのは、幻想だ。

プロスポーツと違ってそうなるのは、テストの点数を上げるのが、比較的簡単で、短期的なことだからだ。勉強すれば(勉強時間をかければ)上がり、勉強しなければ(勉強時間がすくなければ)上がらない。それだけだ。さんざん自分を追い込んで、練習時間をかけ、技術を習得しているプロスポーツとそこが大きく違う。

むしろ、短期的に効果が見えるから、「教育効果はテストの点数で測れる」という誤認を生む可能性があるというか、そのように信じている教師も、児童・生徒もゴマンといる。

また、学校では、主に教科内容の「知識」を測るペーパーテストで、教科内容の習得を図ろうとしているのだが、教科内容は、「リスペクト」「他者の尊重」などを学ぶためではなく、自分のいる世界、自分の外の世界を学ぶために存在する。判断材料をインプットし、判断方法を身に付けるために存在する。

教科の内容をがっつり勉強した人で、反社会的、排他的な人はゴマンといる。

一般的には、テストの点数を上げようとしていれば、真面目に学校生活を送り、非行も起こさず、大学に行こうとし、教師にとっての都合の良い子どもとなっているように見える。

そこそこ勉強している人は、そんな生活態度なのだろうけれど、それは、勉強しているからではなく、そこそこ勉強する人は、そこそこ態度も良く、そこそこ大人の言うことも聞く、大人にとって「都合の良い」人を演じられる人だからだ。

だから、

点数アップを目指す=人格の完成に進んでいる

というのは、誤解であり、相関関係はあるかもしれないが、因果関係は無いように思える。

教育は何のため?というと、その目的の1つを

「変化するため」であり、「個々が、個々の方向性で変化するため」

と私は最近は考えている。長期的視点で人類が生き残る道は、これしかないのかな?とも思う。

個々が、個々の方向性で変化するには、1つの尺度(ゲージ)でその変化度(成長度)を測っていては、教育の本質を見誤る可能性が大きい。

点(ポイント)と内容(本質)

トップの写真は、今期好調のアルビの試合、対東京ヴェルディ戦(ホーム)の結果なのだが、4−3でアルビの勝利したものだ。この試合を応援したアルビサポは、このスコアーボードの写真をツマミに何杯でもビールを飲める。しかし、全く関わっていない人にとっては、この写真には「単にアルビが4−3で勝ったんでしょ?」という情報しかない。

大切なのは、点(ポイント)ではなく、内容(本質)だという1つの例だ。

国語科授業での様々な 「対話的学び」の生起す る授業デザイン


長野県教育委員会上越教育大学教職大学院のコラボ企画でタイトルの講座を行った。

ここ2年間オンライン講座なので、「対話」というテーマなのに、もどかしくてしょうがない。

しかし、長野県総合教育センターの方々のご尽力で去年よりもスムーズに講座は進行した。去年は接続できないやら、なんやら、Zoomでの参加者を巻き込んで、なかなか始められなかった。今年は事前に接続確認やら資料等の配布もしてもらえて、トラブルは最小限になっていたと思う。感謝である。

目標は

ICT活用による国語科授業の今後の可能性を考える

と設定した。国語科の授業は、教科書とノートとワークシートと黒板だけで成立する。十分成立するので、「ICTを導入すればもっと素晴らしい授業ができる」と考えにくい。この点、数学にも通じるのでは?と思ってしまう。

しかし、ICTを使うと、今までできなかったことができるよ、ということを示すのがこうの講座の私の目標だった。

次の活動を行った。

句会

「秋の句」というお題で宿題として講座開始までに一句作ってきてもらい、次のような手順で句会を開催した。

  1. Googleフォームで句を提出
  2. 提出された句を選句フォームにコピペ
  3. 選句
  4. フォームの自動集計を元に上位句を選んだ人からのコメント
  5. 上位句の作者名乗り&コメント

時間が足りなかったので、一句のみの紹介だったが、3〜4句できたらよかった。

句会はICTを使わなくてももちろんできるのだが、ICTを使うことで、次のメリットが生まれる。

  • 匿名性の担保
  • 集計の自動化

これは、教室で、誰がどの句を作ったか?というのが、選ばれなかった句の場合、または、名乗りがされない句の場合、詮索されなくなる。全てあけすけである必要は全く無い。

そして、人数が多い場合、集計はやっかいになるのだが、フォームで投票すると自動化され、そこに時間を割く必要は全く無くなる。「回答結果を閲覧」設定をすれば、投票の仕方によって、誰がどこに投票したかを隠して、自分の句に投票がどのくらい集まったかを確認できる。

「対話」なのだが、句を介して作者と選者の対話がなされ、作者の意図がどのくらい伝わったか、選者の解釈と作者の意図のずれを確認し、対話が生まれる。

人と人の間に何かを咬ませると対話はスムーズになるのでは?との提案をした。

アナウンス講座

長野講座で初めての試みだったのだが、「音声言語表現作品を提出する」ということをおこなった。もしかしたら、これは、コロナ禍でありながら、オンラインだから、伸び伸びと音声言語表現できたかもしれない。対面でも換気して広い教室で行う予定だったから、感染のリスクは低かっただろうけれど。

  1. スライドショーに合わせたアナウンスを閲覧
  2. アナウンスなしスライドショーを画面共有で流し、それぞれが1度練習をする
  3. アナウンスなしスライドショーをダウンロードし、それに合わせて各自が練習
  4. 用意したPowerPointスライドにアフレコを吹き込み保存
  5. Googleフォームのファイル送信フォームで提出
  6. 全体に共有

という流れでおこなおうと思ったのだが、最後の「全体に共有」は、時間がほぼ取れなかったのと、皆さんが録音操作が上手く行かず、あまり提出できなかったのとで、できなかった。その代わりに、ブレイクアウトルームで、各自が部分的にスライドショーに合わせてナレーションをするという形に変えた。

アナウンスは、長野県のフリーアナウンサー草田道代さんに吹き込んでもらい、プロのアナウンス技術を提示できた。私もそうだったが、スライドに合わせてナレーションをするというのが、いかに難しいかを体験してもらえた。

教師は尺を意識して喋る感覚が疎い

というのが私も含めてあるので、それを意識して、スライドの切りかえやBGMの雰囲気にバッチリ合わせてアナウンスできるとこれほど気持ちいいのだということも経験してもらいたかった。

また、児童・生徒にとって、音声言語表現活動の発表となると、人前で話すという選択肢以外無いのが学校の現状である。人前で発表するということは、かなりのハードルの高さがある。人前に立つだけで恥ずかしがり、ニヤニヤして、笑い出して発表が始まらないということは経験したことがあるだろう。

人前で話さなくても音声言語表現活動ってできるし、その作品を提出できるということを知ってもらい、音声言語表現活動の授業の選択肢を多くしてほしいという思いがあった。

これは、アナウンス原稿との対話、どう読めば、どのように聞いてくれるか?ということを自己内対話する活動だった。

対話とは?

「対話」というと、「グループで話し合えばいいんでしょ?」と思っているのが教育現場のほとんどだ。しかし、それは対話でも何でもなくって、「会話」、「話し合い」であり、「対話」になっていないものがほとんどだ。「初めは自分で考えて、その後グループで話し合って」なんて取り決めるのは、「発表会」であって、対話でも何でもない。

国語科は、テキストとの対話、テキストを介した他者との対話、他者を想定した自己内対話などが比較的しやすい教科だ。グループ内発表、話し合い、意見の言い合いが「対話」と捉えてほしくない。

120分の講座だったのだが、盛りだくさんすぎて、収まりきれなかったのだが、「こういう使い方があるんだ」と知ってもらえれば、本講座の目標は達成できたと思っている。この講座、出前講座でも設置しているのだが、今シーズンオファー「0」なんだよな……。

教育と愛国


2022年 日本 高田世界館視聴

ドキュメント映画でしか報道というか、編集、公開されない内容だと思う。テレビ、新聞ではすぐに権力者が弾圧をかけ、特にテレビはこういうことを報道したら潰しに来る昨今だ。今や映像付きで報道するのは、ドキュメント映画という媒体しかなくなってきているのだろうか?50を過ぎてからようやくドキュメント映画を映画館で観るようになった。上越に赴任して高田世界館で初めて観た映画もドキュメント映画だったな。

教育畑にいることにより、全ての事例は報道されたときに頭に引っかかって、知っていたけれど、たくさんの報道された事例がこの映画で繋がったという感じだ。このような繋がりがあったのかと、今更ながら思わされた。

政治の教育への介入は、日本が軍事国へと進んで、戦争を起こした反省のもと、教育を政治から切り離す動きがあったはずなのだが、どんどんなし崩し的に介入できるようになっていった。今から私の経験を思い起こすと、職員会議の実質無力化がその発端だったんだろうな。平成の真ん中くらいのことだった。それを進める政権を選んでいたり、無関心を決め込んでいるのが国民であることは言うまでもない。

たまたま最近「であることとすること」を読んだ。
bunlabo.com
権利の上に眠っていたらその権利はいきなり剥奪されるということだ。なるほど。権力者としては眠らせておいた方が都合が良いということなのだな。じゃあ、教育は眠っている人や、うとうとしている人に気づかせる役割をしなければならないはずなのだが、そのまま眠らせて、気づかせず、「点数」や「偏差値」という「分かりやすい」ニンジンを吊り下げているのが仕事になっている。分かりやすければいいということではない。

この映画を観て、教育の自由と言論の自由について、更に考える時間となった。

教育の自由

主に教科書検定に関する内容がこの映画で描かれていたのだが、じゃあ、検定は無い方がいいのか、というと、そういうことでもない気がするし、かといって、検定を文科省側がおこなう事が正しいのかというと、必ずしもそうではないと言う気もする。「検定」は授業をする側がどの教科書を使うか全て吟味する時間的コストを削減するためにあってもいいとは思う。いや、「教科書」自体を無くした方がいいというのは極端か?

世の中にいろいろな教科書があっていいと思うし、それを採用するかどうかは教育する側が決めていいことなのだ。私は高校教師だったから、学校単位で教科書の選定をしていて、そんな感覚で昔は教科書検定問題の報道を見ていた。義務教育は各教育委員会が教科書を決め、その地域は全てその教科書を使うということを後に知り、ちょっと「気持ち悪く」なった覚えがある。この気持ち悪さはなんだろう?

その地域全員に同じものを強制的に読ませることの「気持ち悪さ」なのか?じゃあ、その学校の学年の生徒全員に同じものを強制的に読ませることは「気持ち悪くない」のか?と自問自答したとき、高校の場合にその気持ち悪さが薄れるのは、「その生徒たち(の雰囲気)を知っている人が教科書を選んでいる」という要素があるからでは?と感じた。少なくとも高校では教科書を選ぶのは、その教科書を使って授業をする教師だ。義務教育の場合はそうではない。学習者不在のイデオロギーや圧力が関わってくる「気持ち悪さ」なのだろうか?

言論の自由

このドキュメンタリー映画はもちろん「言論の自由」のもと、作られている。作る方針として言論の封鎖はしていないと思われる。「言論を封鎖せよ!」という考えを持っている人の言論もそのまま流している。映画の作り方として編集意図はあるのだろうけれど、ナレーターが解釈や意味付けを加えることはしていない。「ありのままを流すから、見た人が判断してね。」というスタンスを感じた。だから、権力側の人が見ても、それほど腹立たしく思わない作りになっているのでは?とも思う。

だからか、言論を封鎖したいと思っている人の言動が、ありありと描かれている。圧力をかけることをなんとも思わず、学者でありながら、エビデンスに基づかない主張を声高に言ったり、子どもは学ばなくてもよいと平然と言っている姿がそのまま描かれている。それでも教科書を書けるのか、と驚いた。

言論の自由を守ろうとする人は、自分の言論の自由は存在するが、対立する意見を持つ人の言論の自由を封鎖しようとする人の言論の自由も守る

という、一見矛盾しているようだけれど、本質的なことが大切なんだ、というか、これこそが「言論の自由」なんだと思った。私の感情的にはとても難しいことなのだけれど。

この映画を授業で流せるか?

高田世界館では、監督・プロデューサーが来館し、トークイベントが行われていた。こういうイベントって、必ず土・日だから、私は参加できないんだよな。
takadasekaikan.com
学生さんも参加していたようだ。これから教師になろうとしている人たちが住んでいる街の映画館で上映されることに意味がある。

私はいい映画だと思って見ていたのだが、じゃあ、これから教師になろうという人たちに授業としてこの映画を見せて、ディスカッションをしようということができるか?というと、ちょっと躊躇する。ドキュメンタリー映画とはいっても、映画制作者側の「視点」があるからだ。視点があるのは当たり前のことなのだけれど。

授業としてではなく、自由参加のセミナーだったら、できそうな気がする。

声の表現の効果と相手に響く声の出し方


新潟県教育委員会主催2022年度アカデミックインターンシップの講座を昨年度に続き今年度も開催した。

今年度のテーマは、「音声言語表現活動」とした。こどもアナウンス発声協会の草田道代さんと繋がりが出て、アナウンス、発声技術の専門家の指導が可能となり、開催することができた。

私は音声言語表現活動を専門としているが、それは学校教育の中でどんな活動が学習者の興味を引くか、学習者はどのように活動するか、どのような授業プログラムを作っていくか、ということの専門で、どのように発声するか、どのようにアナウンス、朗読は全くの専門外で、訓練も受けたことがないので、私もこの講座の開催をとても楽しみにしていた。

高校生2名が受講を希望してくれた。驚いたことに、2人とも県内の遠方より来てくれた。時間とお金をかけて来てくれるだけあって、とても熱心で、聡明で、自分の個性を表現できる生徒さん達だった。こちらも俄然やる気が起きる。

片桐研究室のゼミ生2名がアシスタントとなり、生徒さん達と一緒に音声言語表現活動を勉強した。

プログラム内容は次のようなもの。

《1日目》

  1. プレゼンⅠ 自己紹介
  2. 相手に響く声の出し方とその練習
  3. 話の構成の仕方
  4. 時間内に話を修める技術と練習
  5. プレゼンⅡ 自己紹介(2回目 1回目の自己紹介を修正し、プレゼンする)
  6. ふりかえり

《2日目》

  1. 朝の発声練習
  2. 様々な音声言語表現活動体験(朗読・アナウンス・群読)
  3. 効果的なプレゼンの作り方
  4. プレゼンⅢ ショウ&テル
  5. ふりかえり
  6. プレゼンⅣ この講座で学んだこと
  7. 評価とふりかえり

今まで自分は30年以上、教師として声を出していた。通る声は出せるという自身はあったが、「腹式呼吸で声を出す」という練習をして、全然できないんだな、と感じた。これは、声楽での歌い方に通じるのだろうか?喉で声を出しているから、自分はちょっとたくさん喋ると声が出にくくなるのか?とも思った。2日間ではまだまだ分からないことだらけだったが、「音声言語表現に即効性はない」ということだから、意識して続けていかなければと思う。私の習慣「朝の平家物語音読」も、はらから声を出してやってみよう。

参加した生徒さんは、1日目と2日目でのプレゼンが全く違って、みるみる上達していった。場の空気感、受け入れ感が1日目と2日目で違った(仲良くなった)と言うこともあるのだろうけれど、プレゼン時の「緊張」をどうコントロールすればいいのか?が身についてきているのが分かった。

音声言語表現というと、定型、セオリー重視の指導が良くされていると思われる。例えば、面接指導で、「まず、先に結論を言って、その後それに付随することを述べる」とか、「ナンバリングとラベリング」とか。でも、そういうのをみんながやると聞いている方はだんだんイライラしてくる。同じ表現が続くと、「馬鹿にされている」という気分になる。特に音声言語では。だから、「セオリーに縛られることはない」という話もした。

事後研修が12月にあり、そこでポスターセッションをするので、その事前練習として、今回の講座の集大成として、「この講座で学んだこと」というテーマで最終プレゼンをしてもらった。

2人ともホワイトボードに印象づけるワードを書き、ストーリー性のあるプレゼンをすることができていた。この講座の効果は十分にあったのかな?と自画自賛している。

参加した生徒さんや、うちのゼミ生たちにとって、かなりハードな活動だった気がする。コロナ禍の中、声を出す活動はどうなの?という思いもあるけれど、換気をしてマスクをして、声を出すのも疲れただろうと思う。

この講座のパッケージ、教員志望学生だけではなく、現職教員向けに有料で開催してもニーズがあるように思える。もちろん、草田さんがいなければ成り立たないのだが、今後いろんなところでできたらいいな、と思う。

ペーパーテストの限界


学部3年生が卒論テーマの一部として、「ペーパーテストの限界」を調べている。

ペーパーテストでは、学力のうち、何が測れて、何が測れないのか?ということだ。しかし、世には学校で身に付けさせる力は、ペーパーテストで測れる力のみと考えている教員もいる。ペーパーテストで測れない力を伸ばす労力を削る、もしくは「他に任せる」と豪語している管理職も現実にいる。

問題なのは、〔学校の成績=ペーパーテストで得た得点〕と思っている学習者、教員だ。そこで、ペーパーテストでは、何が測れて何が測れないかを明らかにする必要がある。以下の記述は、学部3年生ゼミ内での対話によって今現在確認したことをまとめている。

学力の三要素

学校教育法第30条第2項が定める学校教育において重視すべき三要素では、

  • 知識・技能
  • 思考力・判断力・表現力等
  • 主体的に学習に取り組む態度

と定められている。その中で、「主体的に学習に取り組み態度」は、ペーパーテストで測るのは難しいというのは何となく思えてしまう。しかし実際、ペーパーテストの結果が良いということは、「主体的に取り組んでいたのだろう」と推測している人もいる。

「知識・技能」は測れるのか?

「覚えた知識」は、文字として紙上に記載できる。だからきっと測れるのだろうと思われる。しかし、言語以外の知識は、紙上に再現することはできない。例えば図形や絵や動きとして記憶されているものだ。ある程度は再現できるものはあるが、動きは不可能だろう。

また、「技能」はどうか?言語の「技能」だったら、紙上への再現性は高いだろう。国語だったら「日本語として通じる文章を書く」とか、「○字以内で表現する」とすると、技能を使わなければならない。しかし、理科の実験の技能は、適切な実験の方法を紙上に再現しても、実際に実験でそれが出来るかどうかは不明だ。理科のテストを確認したが、「実験時の知識」しか問うていなかった。

「技能」は、部分的に測れるのではないか?ということを確認した。

「知識」とは、「検索力」?

記憶の奥底に沈んだまま表層に出てこないものは「知識」と言えるのだろうか?

ペーパーテストでは、時間内に覚えたはずの知識を引き出さなければならない。これができないと点数を取れない。テストが終わってから思い出すなんてことは良くあったことだ。だから、覚えていても表層に出てこないと「知識」とは言えなくなる。つまり、「知識」よりも「検索力」が必要になる。

しかし、検索力は、インターネットが発達した今、人間の力によるものはほぼ必要無くなり、インターネットに頼れば良くなる。そして、知識もクラウド上にあるものの方が人間の脳内より膨大だ。攻殻機動隊のように、人間の能力としてクラウド内を検索できれば、それに置き換わる気がするが、スマホを使っての検索はNGで、能力としてだったらOKというのは、どうしてだろう?

人間はペン等を使わないと紙上に字は書けないのに、ペンという道具はOKでスマホという道具はNGという根拠はなんだろう?

覚えたパターンに当てはめるのは、「思考力」、「判断力」か?

例えば、数学の問題を解く場合は、「思考力」、「判断力」を測っていると言えるかもしれないけれど、果たしてそうだろうか?

数学の問題を解く場合、今までの学習で習った公式を問題に出された数字に当てはめて解いていくことが多い。これは、「思考力」と言えるのだろうか?思考しているのだろうか?知識としてある「公式」を目の前の問いに当てはめているだけじゃないだろうかか?検索しているとも言える。

特に定期テストの場合、授業で学んだことが出るのだから、学んだことを問いに当てはめていくことがおこなわれていくことが多い。

今まで学んだことがない、出会ったことがない問題を解いている場合は、思考力、判断力は働いていると思われるが、定期テスト、入試問題では、ほとんどの場合ないといっていいだろう。

「表現力」は測れそう?

言葉による表現力限定だが、これは測れると言っていいだろう。ただし、文字言語の表現力だけで、音声言語の表現力は不可能なのは当然だ。

ペーパーテストで求められる力

ペーパーテストを解く際にどんな力が使われているのかを考え、それって、社会で生きていく上で、どんな風に役立つのだろう?を対話してみた。

制限時間内に「正解」を引き出す力

5分とか、40分とか、90分とか、決められたかなり短い時間内集中して解答をしなければならない。これらはそれなりに力が必要だというのは当然なのだが、果たして生きていく上で、こういう場面ってあっただろうか?

もちろん働く上で試験をパスするという機会はある。そこには必要な力だし、それを上げれば試験の点数は良くなる。しかし、それ以外に使える力なのか?というと、そうでもない気がする。

生きていく上で「期限」はあるが、それは○日や○カ月ぐらいの単位だ。その中で、仕事や生活をやりくりして、時間を生み出し、それに当たっていく。○日間集中してそれ以外取り組まなくていいなんていうことはあり得ない。時間を与えられ、テスト問題を解く以外は何もしない環境なんて、試験以外、社会の中であり得ないと言っていい。学校を卒業したら、試験を受けずに生きていく人なんてたくさんいる。

ペーパーテストを解く場というのは、かなり特殊な環境と言ってもいいだろう。クイズ大会はそれに近いとも思う。日本人がクイズ番組大好きなのは、学校で培った力を発散したいからなのか?

誰かが作った「正解」を当てる力

ペーパーテストには、必ず「正解」がある。そしてその正解は誰かが作ったものだ。世の中の真理を見つけているわけではない。科学や数学の「正解」も、とりあえず今の段階で妥当だと思われている考えを「正解」としているにすぎない。学問研究のレベルになったら、誰かが作った「正解」を当てる力なんて何の役にも立たない。誰かが作った正解の矛盾を考える力を付けなければならない。

大学入試共通テストに代表されるような選択肢の問題を解く力なんて、生きていく上で全く役に立たない。人生のうち、いくつか選択肢があって、1つだけが「完全正解」なんてあり得ないからだ。生きていく上で、Aの道をたどるか、Bの道をたどるか、のような選択の場面はたくさんあるが、どちらかが必ず正解ということはあり得ない。

むしろ、どっちも間違いということもある。

または、Aを選んだ場合、そのAという選択肢を「正解」に自分の力で近づけていくということがとても大切だ。自分で「正解」にする力の方が生きていく上で役に立つ。

最適解や納得解を考えるテスト

ペーパーテストでは、主に唯一解を当てる作業になるのだが、思考力や判断力を測るのであれば、最適解や納得解を答えるものにするべきだろう。

例えば、

「李徴は本当は妻子のことなんて全く気にしていない。」とした場合、その理由を論ぜよ。

というような、出題者も正解が分からない問題だ。正解は分からない(「正解」がないから分からない)が、論述の妥当性は測れる。それで評価することは可能だ。ちょっと難しいけれど。

生きていく上で、黒を白にする、白を黒にする。失敗を糧にする、成功体験で物事を測らない、というような力がとても大切だと思う。

終わりに -「思考力」とは-

「思考力」とはどこからどこまでを指すのか?はまだ明らかにしていない。知識を呼び起こすのも「思考力」だ、とすれば、「思考力」は簡単に測れることになるが、きっと違うのだろう。ぼんやりといろんな思いを巡らせていても「思考」だと言っていいのかどうか。ここの定義を明らかにする必要がある。

「実用的な文章」学級日誌


今日の大学院授業「中学校高等学校国語科授業づくり演習」では、今年度から始まった「現代の国語」の実用的な文章を取り上げ、みんなで「どんな課題を設定して授業をしたらいいのか?」と、考えた。その教科書には「実用的な文章」として学級日誌が例の1つとして挙げられていた。

学級日誌って、高校でしか使っていないということを知ってびっくり。そういえば、小・中では連絡帳みたいな感じで教師と児童・生徒はやりとりしている。だから学級日誌って、無かったのか?とも思ったが、そもそも学級日誌って何のためにあるのだろう?と考えた。

「日誌」という名称だけあって、記録のためにあるのだが、日々その授業の科目名や担当教師名、欠席者名などを書いて、それは「実用的」になっていたのだろうか?と思い返した。

※学級日誌の実用的な側面

  • 遅刻、早退などがあった場合、出席簿に表れない(選択授業など)部分での生徒の記録で確認する
  • 昨年の今頃、どんな連絡をしていたのか確認する

等が思い当たったが、それほど頻度は高くない。

私の場合、「交換日記」的な側面があったかもしれない。

生徒には、ある程度の量の記事を課していて、それに必ずコメントを付けていた。週番が日誌を書くことにしたのだが、その週番の生徒とのコミュニケーションに使っていたとも言える。今となっては、20年以上(写真上)、約8年(写真下)前の記事を見て、懐かしがるという意味しか無いのかもしれない。

本来は「日誌」なので、その日の連絡などを記入して、聞き漏らした人がそれを閲覧して確認するという側面もあっていいはずだが、朝膨大に伝えられる連絡を記入するのは難しい。日誌には全くそれらが書かれていないのは、考えてみれば、朝の連絡を伝えていたのは週番だったからかもしれない。

「現代の国語」での授業では、どのように扱えばいいのか?とアイディアを出し合ったが、

学級日誌をもっと実用的なものにするため、どんな記入欄を設ければいいのか、レイアウトをどうすればいいのか?

を考えるというものが挙がった。

または、

日誌というのは、その日あった出来事を記載するものだから、「記事」と「所見」の欄を分け、事実のみを記入する練習をするのも面白い。

とも挙がった。

各教科書会社、「実用的な文章」の取扱いには、迷走しているようだった。

VR空間研修(メタバース)の可能性

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体育ICT研究会メタバース研究会にVRゴーグル(Oculus Quest 2)で参加した。私はVR酔いがひどいから、どうなることやら?と思って参加したが、2時間なんとか持ち堪えた。

体育ICT研究会の実践や発表内容の質の高さに驚くとともに、今後のメタバースを使用したオンライン研修会の可能性を体験できた。

VR空間に参加するのは、体力的な負荷はちょっとあるけれど、私にとって精神的な負荷はZoomなどの平面画面よりも無いということが分かった。今後、メタバースを使っていろんなことをしてみようと思えた研修だった。

メタバース空間のメリット

参加者同士の距離感がいい

Zoomで参加すると、全員が同じ画面に平面でこちらを向いている。私はこれが結構つらい。全員に見られている感じがしてストレスがかかる。しかし、話題提供者が画面共有をすると、その画面だけが見え、他の参加者の存在が感じられなくなる。

体育ICT研究会のメタバース研究会では、Spatial
spatial.io
というアメリカのサービスを使用していたのだが、ちょうどいいホールの空間が用意されていて、開放的で、しかも近くに移動すると、「あ、近い!」と思えるし、遠くの人は気にならなくなる。人間としての距離感の感覚が丁度良かった。

没入感があり、そしてよそ見ができる

Zoomだと、画面に強制的に共有画面、または参加者の顔(もしくは、ビデオOFFした人の名前)が表示される。それを見ていなければならないが、メタバースだと、首を振れば、他の景色が見える。これは、その研修会に没頭できるとともに、ちょっと気をゆるめてよそ見をすることも許される。これはVRゴーグルを付けているからなのだけれども、スマホ等で参加した場合は、どうなるんだろう?スマホの向きを変えると別の景色が映るようになるのだろうか?なっていればいいなぁ。

人がいるのを感じられる

このメリットをもとに、バーチャル模擬授業を仕組んでみようか?と思っている。オンラインでの模擬授業、はっきり言って学習者からの反応が全く感じられず、授業者の訓練になっていない。対面で行うのが一番いいのは決まっているが、それが出来ない場合、参加者の存在を感じられる。参加者がどこを向いて、どんな動作をしているのか、その雰囲気を仕組むことができる。来年度、それをやってみたいと思う。

Spatialのメリット

メタバースサービスを検索して、Clusterと、horizon Workroomaを見つけていた。しかし、Spatialが一番使いやすいと感じた。

アバター参加とVR空間

horizonは、スマホ等で参加した場合、参加者はアバターになれない。Zoomのような平面画面に動画で映される。Clusterは、スマホでもアバターで参加できるのだが、独自の空間を作るのが一苦労。かなりのプログラミング技術がないと、まともな空間は作れない。

しかし、Spatialはある程度しっかりした空間が用意されている。独自の空間を時間をかけて作るよりも、用意されているものを簡単に使えた方がよい。

アバター作成

これは良し悪しなのかもしれないが、Spatialは自分の顔が自動でアバターの顔となる。工夫したり、選んだりという必要はないが、PCやスマホのカメラで撮った顔が3Dアバターに加工される。自分のものを見るとちょっと気持ち悪いのだが、他の人のを見てもそんなことは感じないから、それはそれでいいのかもしれない。アバターは上半身だけで、シンプルになっている。

メタバース空間のデメリット

首が凝る

Oculus Questが重いせいだが、2時間付けっぱなしだとかなり首が凝る。1時間程度が限界かな?もうちょっと軽いVRゴーグルも対応してほしい。

動画再生が止まるかも

Zoomに比べて、データ量が多いから、たまにいろいろ不具合が生じた。これは今後改善していくんだろうけれど、用意された動画が流れなかったり、音声が一旦途切れて、その後圧縮された早口の発言が流れたり、アバターの動作がおかしかったりと、ちょっとそれは気になった。

酔う

軽いVR酔いにはなった。メガネをしてVRゴーグルを付けているせいもあるのかもしれない。目を酷使しているという感じになり、ちょっと酔った。Oculus Questに付ける矯正レンズを買うしかないかな?しかし、ClusterのVR空間に比べたら、全く酔わなかった。Clusterのユーザーが作った、オープンの空間に行くと、ちょっと移動しただけでぐらぐら酔ってしまう。Spatialはそこの部分は工夫されているのかもしれない。

グループ討議では、他の声も入ってくる

今日は同じ空間で、グループ討議が組まれていたのだが、Spatialには、「近くの人同士で会話ができる」というメニューがあるらしい(有料プランのみ?)。しかし、近くの人の声も入ってくるが、別グループの人の声も入ってくる。だから近くの人の声が聞き取れない状態になってしまった。もっと距離を空けないといけなかったのかもしれない。別のRoomを用意することで回避できたのかもしれないが、それも手間だろう。Zoomはブレイクアウトルームでそれが簡単にできる。

総評

データ量を食うので、モバイル通信で参加するのは難しいかもしれないが、今後改善されていくだろう。コロナ禍で対面の学会、研修会が軒並みオンラインになっているが、コロナ禍が明けたとしても、インターネット通信環境が整っている場合、旅費をかけて参加するのは難しいけれど、メタバースだったら、と参加しても、十分満足感は得られると思う。リアルの参加者とオンライン参加者が融合して参加できるようになるともっと面白いのだと思う。

VR空間は自由にいろいろできるので、今度オンラインゼミでやってみよう。Oculus Quest 2、もっと買わなきゃか。